永禄12年(1569)8月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】
6日、相州北条家との盟約に従い、関東へ向けて出馬する。6月から7月にかけての頃、越中国で一揆が蜂起(越中国東部の椎名康胤の動きか)に伴い、越中国西部の神保長職父子の間の抗争が勃発したことと、7月の中頃に甲州武田信玄からの申し入れにより、内々に越・甲和与を結んでいたことからして、関東へ出馬する気はなく、当初から後顧の憂いを断つために越中国へ向かうつもりであったのかもしれない。
同日、関東味方中の広田式部大輔直繁(当時はすでに出雲守を称している。武蔵国埼玉郡の羽生城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、来札を披読したこと、憲盛(武蔵国衆の深谷上杉左兵衛佐憲盛。武蔵国榛沢郡の深谷城を本拠とする)への其方(広田直繁)の意見をもって、(上杉憲盛が越府春日山へ)使者を寄越されたこと、これにより、(広田が)使いを添えられたのは、ありがたく祝着であること、彼方(憲盛)とは数年、思いも寄らず疎遠であったこと、私心を捨てて従う覚悟を示してきたので、これからは格別な交誼を結ぶつもりであること、なおもって内儀の件を届けられるのが当然であること、先だって申し越した通り、越・相和睦を決意したからには、今6日、当府から出馬すること、路次を少しも遅らせるつもりはないこと、このところを心得て、速やかに参陣するのが当然であること、深谷も同陣するように、彼方(深谷)と相談されるべきであるのは、千言万句に極まること、なお、(使者の)口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』782号「広田式部太輔殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。
関東へ向かうなか、10日、将軍足利義昭から御内書が発せられ、越・甲無事について、以前にも申し含めたこと、このたびこそ、(成就させるのが)適切であること、輝虎の存分を、(足利義昭へ)取り急ぎ申し上げてくれれば、喜ばしいこと、万が一にも上杉が(甲・信へ)出勢においては、好ましくないので気遣いが肝心であること、南星軒を差し下すこと、委細を(南星軒が)申し述べること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』786号「上杉弾正少弼とのへ」宛足利義昭御内書写【署名はなく、花押のみを据える】)
同じく、15日、飛州姉小路三木良頼(中納言)から、取次の直江大和守景綱(輝虎の最側近)へ宛てて返状が発せられ、輝虎から重ねて若林(采女允。客分の信濃衆である村上兵部少輔義清・同源五国清父子の重臣)を差し上せられ、格別に御入魂が深まり、本望であること、言うまでもなく良頼においても、ますます御親身に接するつもりであること、適切に取り成してもらえれば、祝着であること、なお、(詳細は)使者が申し述べるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』792号「直江大和守殿」宛三木「良頼」書状写)。
この頃、甲州武田陣営の越中国松倉(金山)の椎名康胤(右衛門大夫)の不穏な動きを見せているとの情報により、柏崎(刈羽郡比角荘)の地から転進して越中国へ向かう。
20日、越中・越後国境の境川を渡り、椎名領(新川郡)の各所を焼き払いながら進み、堀江の地を攻め崩す(堀江荘の堀江城とされるが、『日本歴史地名大系 第十六巻 富山県の地名』(平凡社)では、この地より、国境に近い布施保の堀切城と考えられている)。
21日、石田の地(堀切の近辺)で人馬を一日休める。
22日、金山城(松倉城の支城あるいは松倉城そのものか)に攻め寄せると、要害際に陣取る。この日の朝方には、富山方面へ進んだ別働隊が新庄城を乗っとる。
23日、金山根小屋を焼き尽くし、松倉城を実城ばかりの裸城にして追い詰めると、方々の作毛を薙ぎ払う。
同日、松倉陣から越府春日山の留守将である本庄美作入道宗緩(俗名は実乃。すでに隠居した老臣)・直江大和守景綱(輝虎の最側近)へ宛てて、直筆の書状を発し、爰元(越中陣)の様子を、きっと案じているであろうから、一筆申し遣わすこと、20日に境河を越し、所々を放火して進み、堀切の地を攻め崩し、21日は石田の地で人馬を休め、22日に金山へ押し寄せ、要害際に陣取り、(その一方で)同日の明け方に(別働隊が)新庄を乗っ取ると、此方(松倉陣)から(軍勢を向かわせて)堅持させ、23日の申刻(午後四時前後)に金山根小屋をすべて放火したにより、残す所なく一変させて、ひとえに(椎名康胤は)松倉を巣城ばかりにて維持していること、所々の作毛を打ち散じたので、何をもって将来に功を成すべきであろうか、いずれにしても当国は一変し、珍重であること、やがて越後口に向地利を築かれたうえで納馬するつもりであること、それまでの間は信州口に堅固の処置を施すのが肝心であること、飯山(水内郡)・市川(高井郡)・野尻新地(水内郡芋川荘)の用心のために目付を遣わし、油断してはならないこと、信州口に異変があれば、早々に注進に及ぶのが適当であること、祢知口(越後国頸城郡西浜地域)から信州へ向かう通行者が増えているそうであること、このような事態にも(警戒を)堅く申し付けるべきこと、上郷(越後国頸城郡)の地下人の証人をも取られるために、祢知平の地下人の証人をも取らせ、いかにも処置が肝心であること、留守中の人数として、地下鑓をも集めるのが適切であること、また、外様平(信濃国飯山領域の地衆)に支度をさせ、飯山へ入城させるべきであり、大和守(直江景綱)の所から(外様平衆の許へ)検使を遣わし、(飯山城で在番中の)源五方(信濃衆の村上国清。妻は輝虎の養女と伝わる)・本田右近允(輝虎旗本)と同所に(入るように)申し付けるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、所々から受け取った証人の用心が肝要であること、(これは)以前に申し付けたこと、夜の当番を堅く申し付け、そのほか無道狼藉を働く輩が出ないように、大和守へ任せること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』799号「本庄美作守殿・直江大和守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。
この間、同盟関係にある相州北条家が、輝虎の関東越山を待っているなか、武蔵国松山領の帰属を巡り、越・相両国間で認識の違いが明らかとなったので、8月5日、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)から書状が発せられ、松山領(武蔵国比企郡)の一件について、由信(上野国衆の由良信濃守成繁。上野国新田郡の金山城に拠る)の所から申し越すこと、去る4月に天用院をもって、委細を申し入れた通り、元来から城主の上田(安独斎宗調。武蔵国衆)の本地本領なので、(現状維持を)聞き入れられてもらえるように申し述べたこと、この筋目は、このたび(去る6月に相府へ到来した)広泰寺(昌派。使僧)・進藤方(輝虎旗本の進藤隼人佑家清)へも念入りに説明したこと、そうではあっても、聞き入れられてもらえないのであれば、どうしようもないので、(輝虎)貴意に任せること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』781号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。
7日、相州北条氏政が、上野国衆の富岡清四郎(実名は秀親か。上野国邑楽郡の小泉城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、一札を披読したこと、来意の通り、越・相無事に取り成したこと、遠山左衛門尉(康光。北条氏康の側近で、小田原衆に属する)を(越府春日山へ)遣わしたこと、未だに帰ってこないこと、おそらく異常はないであろうこと、されば、上郷の件(富岡は、上野国邑楽郡佐貫荘上郷の五郷を巡り由良成繁の族臣である横瀬新右衛門尉国広と相論していた)については、以前の裁定(横瀬国広に替地を与える永禄12年までは、両者で年貢を折半すること)は失念していないこと、ただし、上州については、越(上杉家)へ任せることを申し合わせたので、ただ今は上州の公事の沙汰を、当方は注意を払って控えなければならないこと、道理に至るところを、越へ申し届けられれば、おそらく異議はないのではないかと思われること、従って、熊皮二枚が到来し、祝着であること、なお、(詳細は)岩本(太郎左衛門尉定次。氏政の側近で、馬廻衆に属する)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1295号「富岡清四郎殿」宛北条「氏政」書状写)。
9日、上野国衆の由良信濃守成繁から、越後国上杉家の年寄衆へ宛てて返状が発せられ、先月24日付の(輝虎の)御書が今月朔日の午後に到着し、拝読したところ、松山の一儀について、氏政の処置には行き違いがあるのを、御書で明らかにされたこと、(由良成繁は)驚き入り、即刻に氏康父子へ説明したところ、去る4月に天用院をもって委細を申し達し、そのうえ(去る6月)広泰寺(昌派)・進藤隼人佑(家清)方へも子細を様々に説明したこと、このたび遠山左衛門尉(康光)をもっても、先頃の意趣を申し達したところ、(それでも輝虎の)御意に適わないのかどうか、このうえは、とにもかくにも御意に任せれるそうであり、(北条父子は)直札をもって申し述べられること、ならびに氏康父子から拙者(由良成繁)への返状も、御内見のために進覧奉ること、かくなるうえは、早速にも御出馬あり、信・甲御静謐を遂げられるのが適切であると存じ奉ること、この旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』785号「越府 貴報人々御中」宛由良「成繁」書状写)。
13日、相州北条氏政が、上野国衆の阿久沢左馬助(上野国勢多郡の深沢城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、天用院を越府へ遣わすこと、沼田(上野国利根郡沼田荘の沼田城)への路次中の馳走を任せ入ること、これを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1297号「阿久澤殿」宛北条「氏政」書状写)。
18日、相州北条氏政が、他国衆の千葉胤富(下総国印旛郡の佐倉城を本拠とする下総国衆)へ宛てて書状を発し、越・相和融の成り行きについて、一切の相談し合いたいので、誰でも一人を寄越してほしいこと、両総(下総・上総両国)における郷村の帰属についても知っておきたいため、事情に通じた人物も寄越してほしいこと、なおまた、輝虎が去る6日に(盟約通りに)越府から出張したのは必定であること、この五日のうちに沼田(上野国沼田城)へ着陣する旨を言って寄越したこと、越・相無事は、いよいよ相違なく調うこと、遠左(遠山左衛門尉康光)は新田(上野国金山城)まで帰り着いたこと、ただし、このうえ一ヶ条(武蔵国松山領の扱い)について、両国の見解に相違があるため、五七日以前(15日以前か)に越府へ使者を立てたこと、思い通りに決着したならば、なおさらに一和は紛れもないこと、委細は重ねて申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1299号「千葉殿」宛北条「氏政」書状)。
26日、相州北条氏政が、他国衆の由良信濃守成繁・同新六国繁父子へ宛てて書状を発し、越・相和融については、当国(相州北条家)に対して(輝虎が)様々に懇望したので、とりもなおさず関東管領職ならびに上野一国を、武州の所々と岩付まで渡し置いたとはいえ、輝虎はなおもほしいままに御道理で詰め、ひたすらどこまでも氏政を追い詰められるべき仕打ちに、どうにもならない趣により、(由良成繁・国繁父子へ)申し届けたところ、氏政と浮沈を共にされるそうであり、(由良)御父子がこのたび血判誓詞が寄せられたこと、感謝に堪えず本望であること、こうなったからには、御望みに任せ、上野一国を進め置くこと、従って、鳥川(上野国吾妻郡より発し、同佐位郡赤石辺と武蔵国児玉郡本庄辺で利根川に合流する)から南の領域については、藤田(新太郎氏邦。氏政の兄弟衆)らに少しばかり先判により、付与されていること、やむを得ない事情であるため、この分を除かれるのは理解してほしいこと、委細は使者の口上で申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1304号「由良信濃守殿・同六郎殿」宛北条「氏政」書状写)。
同日、相州北条氏政が、家老の垪和伊予守氏続(武蔵国松山領を管轄する)へ宛てて証状を発し、先頃に興国寺城(駿河国駿東郡)の城将を不足なく務められたので、興国寺城主に定め置くこと、ますます粉骨を尽くされるべきこと、なお、在城の支度を取り急ぎ致されるべきこと、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1303号「垪和伊予守殿」宛北条「氏政」判物写)。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)