越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記【永禄12年7月】

2013-08-13 15:03:03 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

永禄12年(1569)7月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


2日、飛騨国味方中の江馬輝盛(四郎。飛州姉小路三木家の重臣。飛騨国高原諏訪城に拠る)の宿老衆である河上伊豆守・同中務丞富信へ宛てて書状を発し、以前に若林采女允(客分の信濃衆である村上兵部少輔義清・同源五国清父子の重臣)をもって(江馬)輝盛へ申し届けたところ、はじめての事ではないとはいえ、其方(両河上)の取り成しゆえ、ますます入魂の旨は喜悦であること、今後のついても唯一無二に相談し合っていく心中であること、つまりは、村上源五方が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、(濃(尾)州)織田信長へ音信として、使僧を差し遣わすこと、路次中滞りがないように馳走を頼み入ること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』418号「河上伊豆守殿・同中務少輔(丞)殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


6日、友好関係にある濃(尾)州織田信長へ宛てた書状を認める。この以前に越中国で一揆が蜂起し、それが基で越中国増山の神保長職父子の間で抗争が起こっていた。当日か、その数日以内に、この書状を携えた使僧は出立したはずなので、2日付けで江馬輝盛へ宛てた書状は飛脚に託され、先行したのであろう。



常陸国太田の佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。常陸国片野城に拠る)・梶原源太政景に、関東における諸将の取りまとめを頼むとともに、太田父子の今後における処遇を示すため、使者を派遣した。

7日、太田父子へ宛てて条書を認め、覚、一、当秋の戦陣および仕置のこと、この補足として、口上、一、佐・宮(佐竹・宇都宮)のこと、この補足として、口上、一、(太田)父子の進退のこと、この補足として、条々口上、一、多修(多賀谷祥聯)の存分のこと、一、成左(成田氏長)へ計策を仕掛けるべきこと、一、関東を二心なく見捨てはしないこと、一、駿州には深く応対すること、以上、これらの条々を申し伝えた(「岩付太田氏関係文書」5号上杉「輝虎」条書【花押a4】)。

8日、太田道誉の妹である三戸駿河守の妻(としょう)へ宛てて仮名書き消息を認め、(関東の経営が立ち行くため)良いように美濃守(太田道誉)が工夫して、計策を施すように、(道誉へ)意見するべきこと、なお、彼の使いへ申し分けたこと、これらを畏んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』917号上杉「てる虎」書状 奥ウハ書「みとのするか うち方 てる虎」)。

同日、最側近の河田豊前守長親が、三戸駿河守の妻の家中へ宛てて仮名書き消息を認め、好便を得たので(輝虎が)御文(御消息)をして仰せ出されたこと、なおもって(太田)御父子へも御忠言を御精励するように御尤もであるとのこと、詳しくは(輝虎が)御直書に見えていること、なお、彼の(使者の)口上にあること、どうか成り行きを任せること、早々めでたく(調ったのちに重ねて申し届けること)、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』918号「三 御内人々 申給」宛河田「ふせんのかミなか親」書状)。


※ 『上越市史 上杉氏文書集一』917・918号文書は、元亀元年に仮定されているが、栗原修氏の論集である『戦国期上杉・武田氏の上野支配』(岩田書院)の「第一編 上杉氏の関東進出とその拠点 第二章 上杉氏の隣国経略と河田長親」により、永禄12年の発給文書として引用した。



越・相同盟の成立により、相州北条陣営に属していた武蔵国深谷の上杉憲盛(通称は左兵衛佐と伝わる。武蔵国榛沢郡の深谷城に拠る)を自陣営に復帰させるため、関東味方中の広田出雲守直繁・木戸伊豆守忠朝兄弟(武蔵国埼玉郡の羽生城に拠る)に上杉憲盛へ働き掛けるように頼んだところ、15日、深谷上杉憲盛から書状(謹上書)が発せられ、あらためて使いをもって申し入れること、このたび駿州の巡り合わせについて、小田原(相州北条家)から和睦の懇望が申し寄られたからか、御納得されたそうであり、河田豊前守(長親)が言って寄越されたこと、誠にもってこの吉事であること、前々の通り、当国(武蔵国)の分を仰せ定められたそうであり、肝心であること、我等(上杉憲盛)については、御筋目を守り、無沙汰を存ぜず、奔走するつもりであること、よって、御祝儀として、金覆輪の太刀一腰・鳥目弐百疋を進覧すること、詳細は渋江大炊助の口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』772号「謹上 越府 御宿所」宛「藤原憲盛」書状)。

同日、深谷上杉憲盛から、河田豊前守長親へ宛てて書状が発せられ、去る頃に木戸伊豆守(忠朝)・広田出雲守(直繁)が使いをもって申し述べられた折、拙者(憲盛)の進退について、屋形(輝虎)が御内意を御懇切に示されたそうであり、彼の地(羽生城)へ其方(河田長親)から承った旨を言って寄越されたこと、誠にもってありがたく本懐であること、(輝虎が)憲政(山内上杉光徹)の御家督を与奪したのに比べ、吾等(憲盛)については、当国の御幕(上杉家の家名)を穢したので、相(州北条家)への聞こえもあるにより、ひときわ優れた御取り成しをひとえに頼み入ること、知行方の事については、存分の通りを、善応寺・渋江大炊助の両使をもって申し述べること、よくよく聞き届けられて、(輝虎へ)御披露を任せ入ること、木戸(忠朝)が差し添えられた案内者(佐藤筑前守)がいるので、かならずや彼方からこれらの趣を申し届けられること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』773号「河田豊前守殿」宛上杉「憲盛」書状)。

同日、関東味方中の木戸伊豆守忠朝から、河田豊前守長親へ宛てて書状を発せられ、あらためて使いをもって申し上げること、もとより先日は深谷の件について、(越後国上杉陣営へ)引き付けるようにとの(輝虎の)内意があったからには、両使を(深谷へ)差し越し、意見致したところに、その意見に従われ、このたび両使(善応寺・渋江大炊助)をもって申し述べられること、これにより、(木戸忠朝から)佐藤筑前守を案内者として差し添えること、深谷の件のほか、特に古河(下総国葛飾郡の古河城。鎌倉公方足利義氏の御座所)・栗橋(古河城の支城。北条氏照が城主を兼任している)の様子も、条目をもって申し上げること、これらの旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』775号「河田豊前守殿」宛「木戸伊豆守忠朝」書状)。



同日、下野国足利の長尾但馬景長(初名は当長。一時期、入道して禅昌と号した。永禄5年に輝虎から与えられた上野国館林城に拠っている)が死去する。

16日、上野国金山の由良信濃守成繁から、上野国沼田(倉内)城の城衆である松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ申し上げること、但馬守方(足利長尾景長)が、昨15日申刻(午後四時前後)に死去致されたこと、拙者(由良成繁)の暗然とした様子を御察ししてほしいこと、この事実を越府へも御申し上げるのは、方々(沼田三人衆)の御手前に任せること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』775号「松石・河伯・上中 御宿所」宛由良「信濃守成繁」書状写)。



再度、織田信長に音信を通ずるところとなり、17日、村上義清が、飛騨国高原の江馬輝盛の重臣である河上式部丞へ宛てて書状を発し、またぞろ濃州(尾州織田家)に用事があるについて、若林采女(允)を差し越すこと、路次中往復における便宜の一切を頼み入るまでであること、従っては、御正印(姉小路三木良頼)からは輝虎へ仰せにはならないこと、されば、御面倒であるならば、御無用であること、(三木良頼の)御書中だけ寄越してもらえれば、御音物などは此方(村上義清)にて用意すること、詳しくは、若林が申し述べるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』777号「河上式部丞殿 まいる」宛「村上 義清」書状)。


村上義清父子は、織田家に対する越後国上杉家側の取次ではないが、飛州姉小路三木に対する取次を任されており、この時の輝虎は、美濃国への通り道に当たる飛騨国へ何度も派遣されていた村上家中の若林采女允に書状を託すのが適当であったのであろう。



21日、上野国惣社の長尾能登入道長健(俗名は景総あるいは景綱か。永禄10年に本拠の白井城を甲州武田軍に奪われ、各地を転々としたらしいが、この当時は何処にいるのかは分からない)・白井の長尾左衛門尉憲景(孫四郎。やはり同年に本拠の惣社城を奪われ、実の兄弟である白井長尾憲景と行動を共にしていた)から、河田豊前守長親へ宛てて返書が発せられ、(輝虎の)御書を謹んで拝読したこと、よって、同名但馬守(足利長尾景長)死去の事実を知らせる由良方の注進状も披読したこと、仕方がない結末であること、 (輝虎の)仰せの通り、但馬守については、(輝虎からの)御報恩を深く受けていたにもかかわらず、近年は道を誤ったゆえ、御罸を蒙ったものと思われること、それでも、(輝虎は)御力を落としているとの仰せであり、(景長の)忘魂においても恐縮しきっているであろうこと、このを御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』778号長尾「長健」・長尾「憲景」連署状 礼紙ウハ書「河田豊前守殿 長尾左衛門尉 憲景・同能登入道 長健」)。


27日、飛州姉小路三木良頼から、河田豊前守長親へ宛てて返書が発せられ、わざわざ使者に預かり、本望であること、殊に菱喰(カモ科の水鳥)ならびに干鯛が書中の通りに到来し、遠路の骨折り、祝着であること、よって、先だって輝虎へ使者をもって申し述べたところ、路次番以下の(便宜を図ってもらえた)懇意は、快然であること、それ以前に、(三木良頼に)存分があるにおいては、申してほしいとのことで、若林(采女允)を差し上せられたにより、一部始終を書き付けて申し述べたこと、そうはいっても、その筋から御存分には応じられなかったように聞こえてきたこと、仕方がないこと、従って、江州(濃州か)へ差し越される衆への路次番については、懇ろに申し遣わしたので、亡失してはいないこと、安心してほしいこと、いつ何時であっても、こうした頼みについては、ないがしろにはしないこと、なお、来信を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』425号「河田豊前守殿」宛三木「良頼」書状)。


29日、外様衆の鮎川孫次郎盛長(越後国瀬波(岩船)郡大場沢城主)へ宛てて返書を発し、飛脚が到来し、その趣旨を理解したこと、よって、大宝寺(出羽国田川郡大宝寺領)の様子を注進、委細を心得たこと、これについても、大川(越・羽国境の越後国瀬波(岩船)郡大川領)の警戒も肝心であり、申し付けること、されば、信州へ向かって戦陣を催すつもりでいたところ、彼の州(甲州武田家)から子細(和与)を申し越してきたので、とりあえず(出馬を)延引したこと、信州・上(北陸)の様子が心配であるとして、関東味方中が人数を寄越してきたこと、倉内の者共(沼田城衆)は今日、当府へ打ち着いたこと、そのほか諸軍(越後衆)は膝下に集め置いているので、信・越(信濃・越中)両口共に措置を講じており、心配しないでほしいこと、なお、(詳細は)山吉孫二郎(豊守)が申し届けること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』780号「鮎川孫二郎殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


※ 甲州武田信玄から申し入れがあった和与については、丸島和洋氏の論考である「甲越和与の発掘と越相同盟」(『戦国遺文 武田氏編 第六巻 月報6』東京堂出版)」による。



この29日か、それより前の数日内に、当月6日付の書状を託した使僧が濃(尾)州織田信長の許に到着すると、
織田信長から返状が発せられ、去る6日付の芳問を給わり、拝謁を遂げたこと、畿内ならびにこの表の様子が、其元(輝虎)には錯綜した情報が流れているそうで、(輝虎から)尋ねられたこと、御懇情であること、そこで、一部始終をそのまま記した一書をもって申し述べること、いささかも手落ちはないので、(輝虎の)賢意を安んじられてほしいこと、よって、条々による御入魂を深めるための趣は、快然の極みであること、誠にここしばらくは疎遠であったこと、思ってもみなかったこと、甲州(武田家)と此方(織田家)の間については、公方様(足利義昭)の御上洛に供奉していたので、隣国からの妨げを排除するため、(武田家と)一和を申し合わせたこと、それ以来は、駿・遠両国も自他の契約の子細があること、これにより、(当国に)手出しできないていたらくであること、そうではあっても、貴辺(輝虎)に対しては前々から相談する間柄であり、別条なきにおいて、度々言い古している通り、越・甲の間が無事を遂げ、互いに意趣を捨てられて、天下のために御奔走されるのを願うところであること、それからまた、越中表で一揆が蜂起し、其方(越後国上杉家)の御手並みによるものであるのかどうか、(越中国増山の)神保父子の間で(その対応を巡って)抗争が起こったとのこと、どのような様子であるのか懸念しており、彼の父子については、信長においても手厚く遇しているので、困り入るばかりであること、従って、紅の唐糸五斤・豹皮一枚を進上すること、なお、重ねて申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』610号「上杉弾正少弼殿 進覧之候」宛織田「信長」書状)。



この間、同盟関係にある相州北条氏政は、
駿河国富士城(富士郡)が甲州武田軍の攻撃を受けているとの報に接し、留守中の防衛態勢を整え、7月朔日、下総国栗橋城(葛飾郡)の留守居を任せている他国衆の野田右馬助景範(もとの栗橋城主。下総国葛飾郡の鴻巣城に拠る)へ宛てて書状を発し、駿州へ(甲州武田)信玄が出張してきたについて、乗り向かったこと、そういうわけで、由井領(武蔵国多西郡)の留守居として栗橋衆を召し寄せたいこと、彼の衆が任務に当たっている間、(野田景範に)栗橋の留守居を頼み入ること、委細は源三(北条氏照。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1272号「野田殿」宛北条「氏政」書状写)。

同日、相州北条氏の一族である玉縄北条左衛門大夫綱成(相模国玉縄城主)が、野田右馬助景範へ宛てて返書を発し、仰せの通り、伝え聞いていたところに、(野田景範からの)御懇書に預かったこと、まことにもって筆舌に尽くし難く、祝着の思いであること、御音問の通り、このたびその地(栗橋城)の番手として、拙者(北条綱成)の同心である高田左衛門尉が物主を申し付けられ、合流の衆が差し越されたこと、そうしたところに高田左衛門尉に御懇切にしてくれているそうであり、彼人(高田左衛門尉)から繰り返し申し越されているので、愚(北条綱成)においても本望のい思いであること、されば、先日に申し達したところに、これまた詳しい返報を寄せてくれたので、恐悦の極みであること、自今以後においては、親しく申し合わせる覚悟までであること、なお、委細は高田左衛門尉が申し達せられるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1273号「野田右馬助殿 貴報」宛「北条左衛門大夫綱成」書状写)。

4日、氏政の兄弟衆であり、武蔵国滝山城(多西郡)に居る北条源三氏照(武蔵国由井領を管轄する)が、野田右馬助景範へ宛てて書状を発し、その以後は、しばらく申し達していなかったこと、されば、駿州内の富士屋敷(富士郡の大宮城)へ(甲州武田)信玄が取り懸かり攻められたこと、悪地で実に屋敷同前の所であるとはいえ、城衆が堅固に抱え、敵は二千人の死傷者を出したこと、これにより、氏政自身が出馬し、(信玄と)またとない一戦を遂げるべく軍を催したこと、そういうわけで、(氏政は)方々に差し置かれていた人数を、手元へ残らず呼び寄せられたこと、愚拙(北条氏照)の人衆についても、総勢を引き連れること、栗橋衆をもって、当地(由井領)の留守居を申し付けるべき旨を、(氏政から氏照が)申し付けられたこと、彼の地(由井)の留守居については、(栗橋衆は)戦中であっても(由井領へ)御移りするように、氏政は申されていること、御同意が肝心であること、委細は山本の口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1277号「右馬助殿 御宿所」宛北条「源三氏照」書状写)。


11日、氏政の兄弟衆である藤田氏邦(武蔵国鉢形領を管轄する)が、鉢形衆の出浦左馬助・多比良将監のそれぞれへ宛てて感状を発し、三山谷(武蔵国秩父郡)へ敵(甲州武田軍)が攻め込んできたところ、対戦に及んで高名を挙げたのは、感悦であることと、今後ますます奮励すれば、重ねて扶助するものであること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1283号「出浦左馬助殿」宛藤田「氏邦」感状、1284号「多比良将監殿」宛藤田「氏邦」感状写)。

同じく斎藤右衛門五郎へ宛てて感状を発し、三山谷へ敵が攻め込んできたところ、人並みすぐれた奮戦をして高名を挙げたのは、傑出していること、殊に親である新左衛門尉が討ち死を遂げたのは、気の毒であること、今後ますます奮励すれば、相応に扶助するものであること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1286号「斎藤右衛門五郎殿」宛藤田「氏邦」感状写)。

同じく朝見伊勢守へ宛てて感状を発し、甲州勢が夜中に土坂(以下秩父郡)へ忍び入り、阿熊に駐屯したところを、物見山から早朝にこれを発見し、即刻に吉田の防塁へ駆け付け、防備を固めたので、感悦の極みであること、これにより、苗字の阿佐美の文字を、今後は朝見の文字に書き替え、その誉れを子孫に残すべきこと、当座の褒美として、太刀一腰を遣わすものであること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1286号「朝見伊勢守殿」宛藤田「氏邦」感状写)。


同日、相州北条方の取次である北条源三氏照から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて返書が発せられ、わざわざ芳札を給わったこと、御懇切のほどは、本望極まりないこと、よって、越・相御一味の御取次について、弟である氏邦ならびに氏照が奔走するというのは、去春に氏康が申し述べられたであろうか、拙者(北条氏照)においてもその旨を理解していること、ところが、このたび両使(広泰寺昌派・進藤隼人佑家清)の御到来に際し、氏邦ひとりが精励したのは、御不審に思われたそうであること、その折りは由良(信濃守成繁)の手筋(氏照は北条丹後守高広の手筋)が任用されたゆえであること、氏照においても内外で、先頭に立って御首尾を、いささかも怠けずに精励したこと、かならずや広泰寺・進藤方が申し達せられること、委細は山吉方(孫次郎豊守。輝虎の最側近)に頼み入るものであり、(輝虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『戦国遺文 後北条氏編二』1287号「越府 江 御報」宛「北条源三氏照」書状)。



先月以来、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、伊豆・駿河両国へ出馬しており、7月2日、信濃先方衆の玉井豊前守へ宛てて書状を発し、こちらから申し越すべきところ、わざわざ音問を寄せてくれたのは、祝着であること、もとよりこのたび豆州へ向かい、図らずも出陣すると、三島(田方郡)とその周辺を壊滅させ、そればかりか北条(同郡韮山)と号する地において、当手の先衆が北条助五郎(氏規)兄弟(氏規は氏康の四男。相模国三崎領を管轄する。伊豆国韮山城の城将)と一戦に及び、味方は勝利を得て、小田原の主だった者を五百余人を討ち取ったこと、とりもなおさず小田原へ馬を進めようとしたとはいえ、足柄・箱根(ともに相模国西郡)の両坂は難所であるにより、駿州富士郡へ陣を移したこと、されば、大宮の城主である富士兵部少輔(信忠)が、穴山左衛門大夫(武田信君。一家衆。甲斐国下山城主。駿河国興津城将)を頼み、今明のうちに城を明け渡す旨を、合議して決めたと言って寄越したので、このうえは早速にも帰国するつもりであること、なお、土屋平八郎(昌続。信玄の側近)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1427号「玉井石見守殿」宛武田「信玄」書状)。

3日、同じく大井左馬允入道道海へ宛てて、直筆の書状を発し、三島(伊豆国田方郡)からそのまま大宮(駿河国富士郡)へ向かって出張し、諸虎口を打ち壊して詰め寄せたところ、城主の富士兵部少輔(信忠)が穴山左衛門太夫(信君)を頼り、城主の富士兵部少輔(信忠)が降伏を懇望してきたので、赦免して城を接収し、当表は残らず本意を達したこと、このうえは城内の統治などの指図をしてから、三日のうちに馬を納めること、安心に思われてほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらには追伸として、陣場から一筆を遣わすので、取り乱しており、(花押ではなく)印判を据えたことを申し添えている。

4日、甲斐国衆の加藤丹後守景忠(甲斐国上野原城主)に感状を与え、このたびの駿州陣において、先手を申し付けたところ、自身が手を砕いて粉骨を尽くし、敵を数多く討ち取った忠功に、感悦していること、ますます戦功を励むべきものであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編二』1429号)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)

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