越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄11年9月~同年10月】

2013-01-30 19:30:22 | 上杉輝虎の年代記

永禄11年(1568)9月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


揚北衆の本庄弥次郎繁長(越後国瀬波(岩船)郡村上城を本拠とする外様衆)の叛乱に一味した出羽国大浦の大宝寺 義増(仮名は新九郎。出羽国田川郡の大浦城を本拠とする)は、本庄には荷担しなかった揚北衆の大川三郎次郎長秀(本庄氏の庶族で、同じく瀬波郡の藤懸(府屋)城を本拠とするが、繁長に通じた弟二人に奪われていた)を攻め立てていたが、このたび味方中に復帰することを申し入れてきたので、8日、かつて年寄衆の一員であった本庄美作入道宗緩(俗名は実乃。隠居の身であるが、人手不足で駆り出された)・山吉孫次郎豊守(輝虎の最側近)・河田豊前守長親(同前)が、村上城攻囲軍を統轄する直江大和守政綱(輝虎の最側近)へ宛てて条書を発し、覚、一、甲州からの使者を留めて、(武田方へ)御手切れの意思を示すべきこと、一、(大宝寺の要害)三ヶ所を破却するべきこと、一、(輝虎の)御疑心について、証人を差し出すのは、やむを得ないにより、杖林斎(大宝寺氏の重臣である土佐林能登入道禅棟)も率先して差し出すのが適切であること、この補足として、彼方(大宝寺義増)とは前々からの御筋目があるので、そのために申し届けたこと、一、大川(長秀)とは、(勝手に当事者間で)御落着させてはならないこと、一、満千代殿(大宝寺義増の嫡男)の御在府には、家中衆の子息を添えるべきこと、右の条々は、この通りに御取り扱うべきこと、(大宝寺側が)もしこの五ヶ条を違えるにおいては、最初から表裏(和談する意思はなかった)を構えるつもりであったと判断すること、以上、これらの条々について申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』616号「直和 御陣所」宛「本入 宗緩・山孫 豊守・河豊 長親」連署条書)。



21日、濃(尾)州織田信長(尾張守)から、取次の直江大和守政綱へ宛てて返状が発せられ、芳翰の趣は本望に存ずること、よって、去る7日に、 (足利義昭の)御入洛に供奉して江南まで着陣したこと、国々の乱れを平均に申し付けたこと、されば、来る24日に(琵琶湖を)御渡海されること、いよいよ(足利義昭の)御本意が遂げられること、この条の通り、(輝虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』617号「直江大和守殿」宛織田「信長」書状写)。


この間、越中国東郡を支配する椎名右衛門大夫康胤(越中国新川郡の松倉(金山)城を本拠とする)は、9月12日、族臣の椎名胤珍を通じて飛州姉小路三木良頼(中納言)の重臣である牛丸備後守へ宛てて、初信となる書状を発し、これまで申し交わしていなかったとはいえ、申し達すること、よって、一儀はこの使僧の口上に申し含めた趣を、御分別をもって、適切な御調略をひとえに頼み申し上げること、さらには子細を条目をもって申し入れるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『富山県史 資料編Ⅱ』1702号「牛丸備後守殿 御宿所」宛椎名「胤珍」書状)。

その条目をもって、覚、一、良綱様(三木良頼)に郡内(の一部)を渡すつもりであること、一、越(越後国上杉家)と手を結ばれ、甲・信両国(甲州武田家)を御敵と見なされるのは適切であるのか、疑問に思われること、一、越(越後国上杉家)と手を切られ、甲・信両国と御入魂を結ばれて、そのうえで郡内を御差配されるのが、適切ではないかと思われること、一、甲・信両国ならびに増山(越中西郡を支配する神保惣右衛門尉長職)と和与を結ばれて、ひがし(東)郡内を御進退してしまえば、越中はすべて御差配が立ち行かないのではないか、と思われ、御分別されるべきこと、この条項を仰せ調えられたならば、貴所(牛丸備前守)には格別な一所が与えられること、これらの条々を示されている(『富山県史 資料編Ⅱ』1703号「牛備公 まいる」宛椎名「胤珍」覚書)。



永禄11年(1568)10月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


本庄弥次郎繁長の立て籠もる越後国瀬波(岩船)郡の村上城の付城である庄厳城(瀬波郡小泉荘)に配備した揚北衆の鮎川孫次郎盛長(秩父本庄一族。同郡の大場沢城を本拠とする外様衆)から、年寄衆の河田長親を通じて寄せられた状況報告を受けると、7日、鮎川孫次郎盛長へ宛てて返状を発し、先頃に鉄炮の玉薬を差し越したところ、(無事に)届いたそうであり、何よりであること、従って、(鮎川が)豊前守方(河田長親)の所まで寄越した条書(の趣旨)を聞き届けたこと、来る17日には(輝虎は)本庄口(村上陣)に向かって馬を打ち下るので、敵地への計策(内応工作)を進めるのが肝心であること、それまでの間(輝虎着馬)の堅固な防備を怠ってはならないこと、なお、(詳細は)河田豊前守が申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、(輝虎の)出馬の事実をば、(敵に悟られてはならず)何としても隠密にするべきこと、以上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』618号「鮎川孫次郎殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。

上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆から、取次の山吉孫次郎豊守を通じて寄せられた状況報告を受けると、13日、城衆のうちの小中大蔵丞(実名は光清か。旗本部将)へ宛てて返状を発し、(沼田管区の)黒岩・なくる見(名胡桃)の地下人を揃え、両地を堅持していると、孫次郎方(山吉豊守)の所まで言って寄越したこと、これも吾分(小中大蔵丞)の精励ゆえであると、感心していること、しかしながら、あまりにも地下人が揃ったので、不安を覚えているそうであり、やむを得ないこと、どうしても不安であるならば、(地下人の)頭立の者(責任者)たちから五人でも十人でも証人を取っておけば、その地に騒動は起こらないであろうこと、万が一騒動を起こす者が出たならば、彼の証人さえ取っておけば、報告を寄越してくるであろうこと、(報告を受けたならば)その地の近辺であるので、速やかに(黒岩・名胡桃へ)駆け移り、対処するにおいては、大した事態には至らないであろうこと、されば、(城衆の)新発田右衛門大夫(実名は綱成か。外様衆の新発田尾張守忠敦の弟であろう)と河田伯耆守(重親。河田豊前守長親の叔父)の間が懇ろであるのが適切であること、両人の仲が悪いと、そう聞こえてきており、不適切な事態であること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、見事な釜を贈ってもらい、喜びもひとしおであること、以上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』535号「小中大蔵丞殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


当文書を、諸史料集は『謙信公御書集』に従って永禄9年に置いたようであるが、書中に見える河田伯耆守重親が沼田城衆に配されたのは同10年の後半から(『上越市史 上杉氏文書集一』554・591号)である一方、永禄9年の後半から新たに組織された沼田城衆の一員となった揚北衆の新発田右衛門大夫が同11年10月から同年12月の間に城衆の任を解かれている(同前619・629・636号)ことからして、当年の発給文書となろう。


16日、沼田城衆の松本石見守景繁・河田伯耆守重親・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫へ宛てて書状を発し、前回の書中には、(村上表への出馬を)明日と申し越したが、(予定を変更して)20日に当府を打ち立ち、24日に柏崎(越後国刈羽郡比角荘)を打ち越すつもりであること、先書で指図した通り、当国(越後)にて人留め(通行の制限)をしたのでは、その庄(沼田)への往復が不自由であるので、その庄の諸口を留めるべきこと、わずかでも油断しては、台無しであること、早々に留めるべきこと、聞こえてきたところでは、(陸奥国)会津からその庄(沼田)を、本庄(繁長)は甲州(武田氏)の使いを自由に往来させているという話であること、これをも念入りに人を選別するべきこと、会津の者を留めるのは無用であること、ひとえに十日から十五日の間は、きつく人留めを実施するべきこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、これは四人に申し付けること、以上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』619号「松本石見守殿・河田伯耆守殿・小中大蔵丞殿・新発田右衛門大夫殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


22日、昨日に着津した柏崎の地から、甥である上田長尾喜平次顕景(越後国魚沼郡の坂戸城を本拠とする)の陣代である栗林次郎左衛門尉(房頼)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、昨21日に当津柏崎へ馬を進めたこと、明日は出雲崎(越後国山東(西古志)郡)へ打ち下り、27日には新潟津(同蒲原郡)を打ち立つつもりであり、(一日も)逗留はしないこと、かならず(越府の)喜平次(長尾顕景)の所からも申し越すとはいえ、(合流が)遅延するなどは、そうした馬鹿馬鹿しい失態はあってはならないので、早々に三ヶ津(蒲原・新潟・沼垂)へ旁輩共(上田衆)を召し連れて打ち越すべきこと、もし、一人でもなおざりにする者がいたならば、厳しい折檻に及んでも差し支えないこと、これらを畏んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』620号「栗林次郎左衛門尉とのへ」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


吉日、甥の長尾喜平次顕景に手ずからの消息手本を贈る(『大日本古文書 上杉家文書』995号 上杉輝虎署名消息手本)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、10月2日、信濃国長沼領(水内郡)の西厳寺へ宛てて、同国海津城(埴科郡)の城代である春日弾正忠虎綱(譜代家老衆)を奉者とする朱印状を発し、長沼領内で、本領四十貫の所を紛れもなく、前々の通りに知行するべきこと、されば、当表(長沼)に向かって敵が出張のうえは、御当城(海津城)へ移られるのが適切であること、(甲州武田軍が)越国口に攻め入る時節には、野伏一名を出されるべき趣を、御下知されたものであること、よって、前述した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編二』1318号「西厳寺」宛武田家朱印状【奉者「春日弾正忠」虎綱】)。

3日、信濃国須坂領(高井郡)の勝楽寺へ宛てて、側近の跡部大炊助勝資(譜代家老衆)を奉者とする禁制を発し、長沼城の番勢の衆(在番衆)、越国へ出張の折に参陣の衆、いずれも当寺家における乱妨狼藉ならびに陣取等を、御禁制するものであること、よって、前述した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編二』1319号「勝楽寺」宛武田家禁制)。

13日、越後国瀬波(岩船)郡の村上城で籠城を続けている本庄弥次郎繁長の重臣である板屋古瀬右馬允へ宛てて書状を発し、来春の戦略について相談し合うため、杉原日向守(直参衆)を半途まで差し向けたこと、それから、少々の兵糧米等を、わずかながら合力を申し付けたこと、なお、杉原が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1323号「板屋古瀬右馬允殿」宛武田「信玄」書状)。


同じく相州北条氏政(左京大夫)は、下総国に在陣するなか、10月17日、陸奥国白川の白河結城七郎義親(陸奥国白河郡の白河城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、先度は申し上げたところ、詳しい御返報に預かり、誠に大慶であること、先書で露わにした通り、これからにおいては、従来の筋目に任せ、二心なく申し談じていきたいこと、御同意が肝心であること、殊に、その方面の形勢は、(奥州会津の蘆名)盛氏へ相談され、万端を御存分に従えているそうであり、めでたく珍重であること、従って、爰許の形勢は、簗田中務大輔(晴助。洗心斎道忠)の逆心の企てが発覚したので、彼の地(下総国葛飾郡の関宿城)に向けて二ヶ所の付城(不動山・山王山)を築いたこと、本意を遂げない限りは、帰陣するつもりはないこと、なお、来信の時を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編三』【追加】1101号「白川殿」宛北条「氏政」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『大日本古文書 家わけ 第12之3 上杉家文書』(東京大学史料編纂所)
◆『富山県史 資料編Ⅱ 中世』(富山県)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第三巻』(東京堂出版)

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