永禄10年(1567)10月~11月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】
これより前、信濃国奥郡から帰陣すると、13日、美濃国を平定した尾州織田信長(尾張守)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ筆を走らせたこと、よって、聞き得たところでは、濃州(の形勢)を一変させ、殊に因幡山(濃州一色家の本拠である美濃国厚見郡井口の稲葉山城)を乗っ取られたそうであり、今にはじまったことではないとはいえ、類を見ない戦果は、めでたいこと、そのためにとりあえず脚力をもって申し送ること、何としても重ねて申し遣わすこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(図録『特別展 Gifu信長展 ーもてなし人信長!? 知られざる素顔』12号「織田尾張守殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。
※ 当文書の日付けを、『越佐史料 巻四』などは7月13日としているが、2017年に岐阜市歴史博物館で開催された『特別展 Gifu信長展 ーもてなし人信長!? 知られざる素顔ー 織田信長公岐阜入城・岐阜命名450年記念事業』の図録は、当文書の原本である大阪城天守閣所蔵文書を掲げて10月13日と正しく記している。
これから程なくして、下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)に在番する越後衆をはじめとした各所から、越府へ急報が届き、逆徒の佐野地衆に手引きされた佐野小太郎昌綱(元来の唐沢山城主。当時は別郭に居住していたか)と数千人規模の相州北条軍の猛攻により、在番衆は主郭に追い詰められていることと、相州北条氏政の本隊(氏政は武蔵国岩付城に在陣しているようなので、実際は家老の大道寺駿河守資親(武蔵国河越城代)に率いられた増援軍か)が利根川に船橋を渡して上野国赤岩(邑楽郡佐貫荘)の地から佐野へ進軍中であることを知ると、信濃国川中嶋陣からそれほど経っていないなか、相州北条軍と興亡の一戦を遂げて在番衆を救出するために出馬した。
24日、上野国沼田城(利根郡沼田荘)に着陣した。
25日、出撃して上野国の中央部へと進み、厩橋(群馬郡)・新田(新田郡新田荘)・足利(下野国足利郡足利荘)をはじめとした二十余ヶ所の敵地を突っ切り、佐野一帯を取り巻く相州北条軍の本営に肉迫するほどの勢いで敵勢を蹴散らし、赤岩の船橋も切り落としたうえで、佐野唐沢山城へ駆け付けた。
27日、相州北条軍は夜中に武蔵国岩付城(埼玉郡)を目指して敗走し、佐野昌綱と佐野地衆は下野国藤岡城(都賀郡)へ逃げ込んだので、決戦するには至らなかった。
その後、佐野昌綱を降伏させると、戦後処理を行い、越後国から遠隔地であるために佐野唐沢山城の番城体制の継続を断念し、佐野昌綱の懇願を受け入れて城主への復帰を認める一方、昌綱の息子である虎房丸と佐野家中の三十余名を人質として預かり、沼田城まで戻った。
11月21日、佐野在番を務めた越後衆と佐野虎房丸らを伴って帰国の途に就き、一月足らずで関東を後にした。末日には越府春日山に帰城したであろう。
この間、去る3月に甲州武田信玄の計略により、本拠を失って没落した関東味方中の白井長尾左衛門入道(左衛門尉憲景。上野国群馬郡の白井城を本拠としていた)が、常陸国太田の佐竹次郎義重(常陸国久慈郡の太田城を本拠とする)の許に落ち着いたとの報告を越府へ寄越してきたので、見舞いの使者を派遣したところ、10月18日、長尾左衛門入道から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて書状が発せられ、御貴札を拝読して、畏れ入る思いであること、誠にこのたび思いも寄らない巡り合わせをもって、当地へ罷り移ったこと、殊に御祝儀として、大鷹一居を給わり、御懇情のほどは、冥利過分の極みと存じ申し上げること、それからまた、両方(此方か)については、先書に申し上げた通りであるにより、ますます(佐竹)義重へ御懇切に接するのが御尤もであろうこと、なお、(詳細は)御使いに頼み入るので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』585号「越府 人々御中」宛「長尾左衛門入道」書状写)。
甲州武田信玄との断交を決意した駿州今川氏真から提携を打診されて応諾すると、11月25日、家老衆である朝比奈備中守泰朝・三浦次郎左衛門尉氏満から、年寄衆の柿崎和泉守景家・直江大和守政綱へ宛てて返状が発せられ、重ねて要明寺(輝虎の使僧)をもって仰せ越された旨は、(今川氏真に)もれなく披露したこと、殊に信国(信濃国)に向かって御出陣されるそうであり、最も肝心であると存ずること、今後において、互いに隠し事があってはならない旨は、これまた肝心であると存ずること、このうえなお、(氏真の)存分を遊雲(永順)が申し述べられること、当方の(同盟に懸ける)思いにおいては、いささかも異議はないこと、もしこの旨に偽りがあれば、日本国中の諸神、殊に富士浅間大菩薩・八幡大菩薩の御罸を蒙り、黒白の二病を受け、来世においては、無間地獄に落ちるであろうこと、この旨を適切な御取り次ぎに預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』621号「柿崎和泉守殿・直江大和守殿」宛「朝比奈備中守泰朝・三浦次郎左衛門尉氏満」連署状写)。
※ 当文書を、諸史料集は永禄11年に置いているが、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ー 文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第五章 信玄・勝頼の歩いた道 今川氏真の動きと駿河攻め」における年次比定に従い、当年の発給文書として引用した。
この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、10月16日、甲府の東光寺に籠居させていた嫡男の武田太郎義信を失っている(自害したらしい)。
同じく、敵対関係にある相州北条家の擁する鎌倉公方足利義氏(在鎌倉葛西谷)が、下総国相馬郡の森屋城への移座を進めるなか、11月4日、重臣の豊前山城守へ宛てて書状を発し、景虎(上杉輝虎)の出張について、取り急ぎの注進に、御喜悦であること、されば、佐野小太郎(昌綱)そのほかは、去る27日に藤岡へ取り退いたこと、大道寺(資親)以下も即時に岩付へ引き退いたそうであり、やむを得ない次第であること、これにより、氏政は(上杉軍へ)乗り向かうと申されているのか、肝心であること、(豊前山城守が)申し上げた通り、相馬(森屋城)については、万事が御窮屈に(義氏も)思われていること、対処の模様は氏康・氏政父子へ御相談し合うこと、相馬左近大夫方(治胤。森屋城の城主)へもかならず(義氏が)仰せになること、(公方奉公衆の先番衆が入った)清光曲輪に(追加の番衆の)踞居の件は、先番衆も同前に申し上げていること、そうではあっても、番衆が不足しているわけで、(義氏は)仰せにはならないこと、これまた、左近大夫方へ仰せ付けられること、次いで、(敵が)小田原筋へ向かってくるについては、(道筋に)対処できる地がないこと、(小田)氏治(常陸国筑波郡の小田城を本拠とする)は苦労であると、(義氏は)御推察されていること、近日中に本間右衛門佐(公方重臣)が罷り帰るので、(義氏が聞き届けて)様子を御懇切に仰せになること、その時分に其方(豊前山城守)がよくよく(氏政へ)申し遣わすべきこと、良からぬ時期ではあっても(山城守が)気に病む必要はないと、(義氏は)思われていること、しっかりと養生を致して(心身の健康を維持して葛西谷へ)参上するのが適当であること、氏政の返札そのほかを御披見されて返し遣わされること、これらを畏んで申し伝えている(『戦国遺文 古河公方編』909号「豊前山城守殿」宛足利「義氏」書状写)。
※ 当文書の解釈は、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅲ部 第12章 古河公方・北条氏と国衆の政治的関係 ー 足利義氏の森屋城移座を素材としてー」を参考にした。
※ 当文書における相州北条軍と佐野昌綱の動向については、黒田基樹氏の論集である『古河公方と北条氏 地域の中世12』(岩田書院)の「Ⅲ 公方領国周辺の国衆 第九章 戦国時代の佐野氏」を参考にした。
同じく相州北条氏政(左京大夫)は、武蔵国岩付城に在陣して、去る8月に戦死した岩付太田源五郎氏資(大膳大夫。他国衆)の遺領を管理下に置いたのち、同江戸城(豊嶋郡)まで帰ると、11月12日、老父氏康の側近である大草左近大夫康盛(御馬廻衆)へ宛てて書状を発し、輝虎が沼田まで退散したそうであり、毛利丹後守(北条高広。他国衆。上野国群馬郡の厩橋城を本拠とする)・由良信濃守(成繁。同前。同新田郡の金山城を本拠とする)の注進も同じ内容なので、(岩付衆へ)岩付領の差配を申し付け、昨日、岩淵(武蔵国豊嶋郡)まで罷り帰り、今12日未刻(午後三時前後)に江城(江戸城)へ罷り帰ったこと、御料人(太田氏資室。氏康の娘)を同道致したこと、御安心されてほしいこと、この旨を(氏康へ)御披露に預かりたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1055号「大草左近大夫康盛」宛北条「氏政」書状)。
※ 当文書の解釈については、山口博氏の著書である『小田原ライブラリー13 北条氏康と東国の戦国世界』(夢工房)の「6 「武栄」を求めて 【出馬の停止】」を参考にした。
※ 当文書にみえる「御料人」を太田氏資室に比定したのは、下山治久氏の編著である『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版)を参考にした。
永禄10年(1567)12月 上杉輝虎(弾正少弼) 【38歳】
2日、奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名家の使僧である游足庵(淳相)へ宛てて書状を発し、先頃は(游足庵が)使者として(越府へ)打ち越されたところに、野州佐野の地衆がことごとく覚悟を替え、佐野小太郎(昌綱。もとの佐野唐沢山城の城主)をはじめとして、武・相の衆(相州北条軍)数千騎を引き付け、(唐沢山城を)実城の一曲輪を残すのみの状態に至らせ、(在番する越後衆を窮地に陥らせた)そのうえ、伊勢(北条)氏政父子が赤岩と号する地に船橋を架けて利根川を取り越え、彼の地(唐沢山城)の決着をつけるつもりであると、注進が届いたにより、一つには、連年の所存(鬱積な思い)から、一つには、東北(東・北関東)の安危(安全と危険)から、(相州北条父子と)興亡の一戦を遂げるために越山し、去る10月24日に沼田の地へ着陣、翌25日には国中(中央)へ出馬し、(10月27日までに)厩橋・新田・足利をはじめとする敵城二十余ヶ所を打ち通り、(佐野周辺を取り巻いた)氏政陣所の間近へ攻め懸かったところに、ついには船橋を切り落とし、佐城(唐沢山城)に詰め寄せたこと、凶徒(相州北条軍)は27日の夜中に敗北し、(追撃して)武具以下をすべて奪い取ったこと、しかしながら、決着をつけられなかったのは無念であること、されば、佐城(唐沢山城)については、(越後国から)手遠(遠隔)の地といい、佐野の悃望といい、まずは小太郎(佐野昌綱)に預け置き、彼の子息である虎房丸をはじめ、家中の証人を三十余人、ならびに越国(越後)から籠め置いた者共を召し連れ、去る(11月)21日に納馬したこと、倉内(沼田城)そのほか数ヶ所を堅持しているので、関左・前奥(関東・陸奥国南部)は安寧であること、内々に盛氏(蘆名止々斎)・盛興(平四郎)父子へ直札に及ぶべきであったとはいえ、やがて使者を立てて申し届けるので、(そのところを)よくよく心得られるのが適当であること、なお、河田豊前守(長親。永禄9年の後半に沼田城代の任を解かれ、輝虎側近に復帰している)が申し越すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』586号「游足庵」宛上杉「輝虎」書状写)。
14日、旗本の大石右衛門尉に朱印状を与え、堪忍分として、一、蒲原郡内 馬下分、一、頸城郡内 飛口(樋口か)分、軍役として、鑓二丁、小旗一本、糸毛の具足、金前後(馬鎧)、以上、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』588号「大石右衛門(尉)殿」宛上杉「輝虎」朱印状写)。
同日、同じく楠川左京亮将綱(揚北衆の新発田氏の庶族とされる。越後国蒲原郡の楠川城を本拠としていたらしい)に朱印状を与え、堪忍分として、一、古志郡内 福島村石黒丹波(守)分、(魚沼郡)藪神内 聖光寺分、軍役として、鑓六丁、大小旗内腰差(数量を欠く)、糸毛の具足、金色前後(馬鎧)、以上、これらを申し渡した。
輝虎の馬廻衆は糸毛の具足と金の馬鎧で統一されていたことが分かる。
21日、駿州今川氏真から書状(謹上書)が発せられ、父であった義元以来の筋目に任せられ、あらためて御使僧(要明寺)に預かり、祝着であること、殊に今後は格別に仰せ合わされるのは、勿論であること、なお、(詳細は)朝比奈備中守(泰朝)と三浦次郎左衛門尉(氏満)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』590号「謹上 上杉殿」宛「源 氏真」書状写)。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)
◆『特別展 Gifu信長展 ーもてなし人信長!? 知られざる素顔ー』(岐阜市信長公450プロジェクト委員会)