越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄10年10月~同年12月】

2013-01-04 18:22:29 | 上杉輝虎の年代記

永禄10年(1567)10月11月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


〔輝虎、尾州織田信長が美濃国を平定したとの情報を得て、とりあえずの祝意を表する〕

10月13日、尾州織田信長(尾張守)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ筆を走らせたこと、よって、聞き得た子細では、濃州(の形勢)を一変させ、殊に因幡山(濃州一色家の本拠である美濃国厚見郡井口の稲葉山城)を乗っ取られたそうであり、いつもながらとはいえ、類い稀な手当ては、めでたく、そのためにとりあえず脚力をもって申し送ったこと、何としても重ねて申し遣わすこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(図録『特別展 Gifu信長展 ーもてなし人信長⁉知られざる素顔』12号「織田尾張守殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。


※ 当文書の日付を、諸史料集は7月13日としているが、2017年に岐阜市歴史博物館で開催された『特別展 Gifu信長展 ーもてなし人信長!?知られざる素顔ー 織田信長公岐阜入城・岐阜命名450年記念事業』の図録は、当文書の原本である大阪城天守閣所蔵文書を掲げて10月13日と正しく記している。



〔輝虎、相州北条軍の攻撃を受けている下野国佐野の唐沢山在城衆を救うため、ただちに関東へ出馬する〕

10月半ば頃、下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野庄)に在城衆をはじめとする各所から、越府へ急報が届き、逆徒の佐野地衆に手引きされた佐野小太郎昌綱(元来の唐沢山城主。当時は別郭に居住していたか)と数千人規模の相州北条軍の猛攻により、在城衆は実城に追い詰められていることと、相州北条氏政の本隊(氏政は武蔵国岩付城に在陣しているようなので、実際は家老の大道寺駿河守資親(武蔵国河越城代)に率いられた増援軍か)が利根川に船橋を渡して上野国赤岩(邑楽郡佐貫庄)の地から佐野へ進軍中であることを知ると、相州北条軍と興亡の一戦を遂げて在城衆を救出するため、急いで出馬した(『上越市史 上杉氏文書集一』586号 上杉輝虎書状写 ●『戦国遺文 古河公方編』909号 足利義氏書状写)。


10月24日、上野国沼田城(利根郡沼田庄)に着陣した。


〔輝虎、相州北条軍を蹴散らし、下野国佐野の唐沢山城に入る〕

10月25日、上野国沼田城を出撃して上野国の中央部へと進み、厩橋(群馬郡)・新田(新田郡新田庄)・足利(下野国足利郡足利庄)をはじめとする二十余ヶ所の敵地を突っ切り、佐野一帯を取り巻く相州北条軍の本営に肉迫するほどの勢いで敵勢を蹴散らし、赤岩の船橋も切り落としたうえで、佐野唐沢山城へ駆け付けた。この時、少なくとも輝虎率いる本隊は、新たに切り開いた沼田・佐野間の直通路を使用していない。

10月27日、相州北条軍は夜中に武蔵国岩付城(埼玉郡)を目指して敗走し、佐野昌綱と佐野地衆は下野国藤岡城(都賀郡)へ逃げ込んだので、決戦するには至らなかった。

その後、佐野昌綱を降伏させると、戦後処理を行い、越後国から遠隔地であるために佐野唐沢山城の番城体制の継続を断念し、佐野昌綱の懇願を受け入れて城主への復帰を認めると、11月10日前後に、昌綱の息男である虎房丸と佐野家中の三十余名を人質として預かり、上野国沼田城へ向かった。


〔輝虎、上野国沼田城から帰国の途に就く〕

11月21日、佐野城番を務めた吉江佐渡守忠景・荻原伊賀守ら越後衆と佐野虎房丸ら佐野の証人衆を伴って帰国の途に就き、一月ほどで関東を後にした。末日には帰府したであろう。



〔輝虎、没落して東口味方中の佐竹義重を頼った関東衆の白井長尾憲景から、慰労したことへの謝意を表される〕

この間には、当年3月に甲州武田方の計略によって本拠の上野国群馬郡の白井城を失った関東譜代の白井長尾左衛門入道(没落を機に入道したが、永禄12年には俗名の左衛門尉憲景に復する)が東口味方中の佐竹次郎義重(常陸国久慈郡の太田城を本拠とする関東八家衆)の許に落ち着いたとの報告を寄越してきたので、見舞いの使者を派遣したところ、10月18日、白井長尾左衛門入道から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて書状が発せられ、御貴札を拝読して、ありがたい思いであること、誠にこのたび思いも寄らない巡り合わせをもって、当地(常陸国太田城)へ罷り移ったこと、殊に御祝儀を調えられ、 大鷹一居を配慮して下された御懇情のほどは、過当至極に存じ申し上げること、それからまた、両方(此方か)に様子は、先書に申し上げた通りで御座あるにより、ますます(佐竹)義重へ御懇切に接するのが御道理であろうこと、なお、(詳細は)御使いに頼み入るので、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』585号「越府 人々御中」宛「長尾左衛門入道」書状写)。


〔輝虎、甲州武田信玄との断交を決意した駿州今川氏真から提携を打診されて応諾する〕

11月25日、駿州今川家の家老衆である朝比奈備中守泰朝・三浦次郎左衛門尉氏満から、年寄衆の柿崎和泉守景家・直江大和守政綱へ宛てて返状が発せられ、重ねて要明寺(輝虎の使僧)をもって仰せ越された旨を、(今川氏真に)漏れなく披露したこと、殊に信国(信濃国)に向かって御出馬するそうであり、何よりも肝心であると存じ上げること、今後においては、互いに隠し事があってはならない旨も、これまた重要であると存じ上げること、このうえなお、(氏真の)存分を遊雲(永順。氏真の使僧)が申し述べられること、当方の(同盟に懸ける)思いにおいては、いささかも異議はないこと、もしこの旨に偽りがあれば、日本国中の諸神、殊に富士浅間大菩薩・八幡大菩薩の御罸を蒙り、黒白の二病を受け、来世においては、無間地獄に落ちるであろうこと、この旨をよろしく御取り次ぎに預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』621号「柿崎和泉守殿・直江大和守殿」宛「朝比奈備中守泰朝・三浦次郎左衛門尉氏満」連署状写)。


※ 当文書を、諸史料集は永禄11年に置いているが、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ー 文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第五章 信玄・勝頼の歩いた道 今川氏真の動きと駿河攻め」における年次比定に従い、当年の発給文書として引用した。



この間、敵対関係にある甲州武田陣営では、10月16日、甲州武田信玄(徳栄軒)が甲府の東光寺に籠居させていた世子の武田太郎義信が死去している(自害したらしい)。


同じく、敵対関係にある相州北条陣営では、鎌倉公方足利義氏(在鎌倉葛西谷)の下総国森屋城(相馬郡)へ御座を移す準備が進むなか、11月4日、鎌倉公方足利義義氏が、重臣の豊前山城守へ宛てて書状を発し、景虎(上杉輝虎)の出張について、取り急ぎの注進は、御喜悦であること、されば、佐野小太郎(昌綱)そのほかは、去る27日に(上野国都賀郡)藤岡へ取り退いたこと、大道寺(資親)以下も即時に(武蔵国埼玉郡)岩付へ引き退いたそうであり、やむを得ない次第であること、これにより、(相州北条)氏政は(下野国佐野の唐沢山城へ)乗り向かうと、申し越されているのか、(そうするのが)肝心であること、(豊前山城守が)申し上げた通り、相馬(森屋城)の件は、(足利義氏も)万事が御窮屈に思われていること、差配の様態は(相州北条)氏康・氏政父子へ御談合するつもりであること、相馬左近大夫方(治胤。下総国相馬郡の森屋城を本拠とする下総国衆)へも(義氏が)しっかりと仰せ出されること、(公方奉公衆の先番衆が入った)清光曲輪に(追加の番衆の)踞居の件は、先番衆も同前に申し上げていること、そうはいっても、番衆が不足しているわけで、(義氏は)仰せ出されないこと、これまた、左近大夫方へ仰せ付けられること、次いで、(敵が)小田筋へ進撃してくるについては、(常陸国筑波郡の小田城は)構えのない地であること、(小田)氏治は苦労であると、(義氏は)御推察していること、近日中に本間右衛門佐(公方重臣)が罷り帰るので、(義氏が聞き届けて小田の)様態を(相州北条父子へ)御懇切に仰せ出されること、その時分に其方(豊前山城守)へよくよく申し遣わすこと、情勢が目まぐるしく変転している時分の煩気(病気)が気懸かりであると、(義氏は)思われていること、是非とも養生を致して(葛西谷へ)参上するのが何よりであること、氏政の返札そのほかを御披読して返し遣わされること、これらをかしこみて申し伝えている(『戦国遺文 古河公方編』909号「豊前山城守殿」宛足利「義氏」書状写)。


※ 当文書の解釈は、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅲ部 第12章 古河公方・北条氏と国衆の政治的関係 ー 足利義氏の森屋城移座を素材としてー」を参考にした。

※ 当文書における相州北条軍と佐野昌綱の動向については、黒田基樹氏の論集である『古河公方と北条氏 地域の中世12』(岩田書院)の「Ⅲ 公方領国周辺の国衆 第九章 戦国時代の佐野氏」を参考にした。


相州北条氏政(左京大夫)は武蔵国岩付城に在陣して、去る8月に戦死した岩付太田源五郎氏資(大膳大夫。他国衆)の遺領を管理下に置いたのち、同国江戸城(豊嶋郡)まで帰ると、11月12日、相州北条氏政が、父氏康の側近である大草左近大夫康盛(御馬廻衆)へ宛てて書状を発し、輝虎が沼田まで退散したそうであり、毛利丹後守(北条高広。上野国群馬郡の厩橋城を本拠とする他国衆)・由良信濃守(成繁。同新田郡の金山城を本拠とする他国衆)の注進も同前なので、(岩付衆へ)岩付領の差配などをよくよく申し付け、昨日は(武蔵国豊嶋郡)岩淵まで罷り帰り、今12日未刻(午後3時前後)に江城(江戸城)へ罷り帰ったこと、御料人(太田氏資室。氏康の娘)を同道致したこと、(氏康においては)御安心に思われてほしいこと、この旨を(氏康へ)御披露に預かりたいこと、これらを恐れ畏まり謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1055号「大草左近大夫康盛」宛北条「氏政」書状)。
 

※ 当文書の解釈については、山口博氏の著書である『小田原ライブラリー13 北条氏康と東国の戦国世界』(夢工房)の「6 「武栄」を求めて 【出馬の停止】」を参考にした。

※ 当文書にみえる「御料人」を太田氏資室に比定したのは、下山治久氏の編著である『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版)を参考にした。



永禄10年(1567)12月 上杉輝虎(弾正少弼) 【38歳】


〔輝虎、初冬に蘆名家から使僧の游足庵淳相が派遣されたにもかかわらず、下野国佐野の在番衆の救援に取り紛れて応対できなかったことを弁明する〕

12月2日、奥州会津(会津郡門田庄黒川)の蘆名家の使僧である游足庵(淳相)へ宛てて書状を発し、先頃は(游足庵が)使者として(越府へ)打ち越されたところに、野州佐野の地衆がことごとく覚悟を替え、佐野小太郎(昌綱。もとの佐野唐沢山城の城主)をはじめとして、武・相の衆(相州北条軍)の数千騎を引き付け、(唐沢山城を)実城の一曲輪を残すのみの状態に至らせ、そのうえ、伊勢(北条)氏政父子が赤岩と号する地に船橋を架けて利根川を取り越え、彼の地(唐沢山城)の落居をつけるつもりであると、注進が届いたにより、一つには、連年の所存(鬱積な思い)から、一つには、東北(東・北関東)の安危(安全と危険)から、(相州北条父子と)興亡の一戦を遂げるために越山し、去る10月24日に沼田の地へ着陣、翌25日には国中(中央)へ出馬し、(10月27日までに)厩橋・新田・足利をはじめとする敵城二十余ヶ所を打ち通り、(佐野周辺を取り巻いた)氏政陣所の間近へ打ち懸かったところに、ついには船橋を切り落とし、佐城(唐沢山城)に詰め寄せたこと、凶徒(相州北条軍)は27日の夜中に敗北し、(追撃して)武具以下を残らず奪い取ったこと、しかしながら、決着をつけられなかったのは無念であること、されば、佐城(唐沢山城)の処置は、(越後国から)手遠(遠隔)の地といい、佐野の悃望といい、何はともあれ小太郎(佐野昌綱)に預け置き、彼の息男である虎房丸をはじめ、家中の証人を三十余人、ならびに越国(越後)から籠め置いた者共を召し連れ、去る(11月)21日に納馬したこと、倉内(沼田城)そのほか数ヶ所を堅持しているので、関左・前奥(関東・陸奥国南部)は安寧であること、本来であれば盛氏(蘆名止々斎)・盛興(平四郎)父子へ直札に及ぶべきであったとはいえ、やがて使者を立てて申し届けるので、(そのところを)よくよく心得られるのが何よりであること、なお、河田豊前守(長親。永禄9年の後半に上野国沼田城代の任を解かれ、輝虎側近に復帰している)が申し越すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』586号「游足庵」宛上杉「輝虎」書状写)。


〔輝虎、旗本衆に加増して軍役を改める〕

12月14日、旗本の大石右衛門尉に朱印状を与え、堪忍分(俸給)として、一、蒲原郡のうち 馬下分、一、頸城郡のうち 飛口(樋口か)分、軍役、鑓弐丁、小旗一本、糸毛の具足、金前後(馬鎧)、以上、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』588号「大石右衛門(尉)殿」宛上杉「輝虎」朱印状写)。

同日、同じく楠川左京亮将綱(揚北衆の新発田氏の庶族とされる。越後国蒲原郡の楠川城を本拠としていたらしい)に朱印状を与え、堪忍分として、一、古志郡のうち 石黒丹波(守)分福島村、一、(魚沼郡)藪神郷のうち 聖光寺分、軍役、鑓六丁、大小旗のうち腰差(数量を欠く)、糸毛の具足、金色前後(馬鎧)、以上、これらを申し渡した。


輝虎の中小の旗本衆は糸毛の具足と金の馬鎧で統一されていた。



〔輝虎、駿州今川氏真から、使僧の派遣に答謝される〕

12月21日、駿州今川氏真(上総介)から書状(謹上書)が発せられ、父である(今川)義元以来の筋目に任せられ、あらためて御使僧(要明寺)に預かり、祝着であること、殊に今後は格別に仰せ合わされるのは、勿論であること、なお、(詳細は)朝比奈備中守(泰朝)と三浦次郎左衛門尉(氏満)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』590号「謹上 上杉殿」宛「源 氏真」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)
◆『特別展 Gifu信長展 ーもてなし人信長!? 知られざる素顔ー』(岐阜市信長公450プロジェクト委員会)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする