越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄11年正月~同年3月】

2013-01-13 12:14:39 | 上杉輝虎の年代記

永禄11年(1568)正月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


旧冬に関東遠征から帰陣して以来、上野国沼田城(利根郡沼田荘)を巡る情勢に不安を感じていたところ、沼田城衆から敵方の様子について報告が寄せられたので、8日、沼田城衆の松本石見守景繁(旗本部将。越後国山東(西古志)郡の小木城を本拠とする)・河田伯耆守重親(旗本部将。河田長親の叔父)・小中大蔵丞(実名は光清か。もとは上野国勢多郡小中の地衆と伝わる)・小国刑部少輔(実名は重頼か。譜代衆。越後国蒲原郡弥彦の天神山城を本拠とする)・新発田右衛門大夫(実名は綱成か。外様衆の新発田尾張守忠敦の弟か)へ宛てて書状を発し、(関東から)納馬して以来、その口の様子が、胸の内では心配に思っていたところ、敵情を聞き届け、注進に及んでくれて、祝着であること、重ねて那波筋(上野国那波郡)へ人(目付)を向かわせ、新田(上野国新田郡新田荘)・館林(同邑楽郡佐貫荘)のほか、南方の(相州北条氏)の動向を深く探り、言って寄越すべきこと、一、信州から言って寄越した通りでは、(甲州武田信玄は)岩櫃(上野国吾妻郡)へ人数を移し、その地(沼田城)へ不意打ちするのを合議で決めたそうであること、その地(沼田)は用心は言うに及ばず、猿京(吾妻郡)・小河(利根郡)・森下(同前)の用心を怠ってはならないこと、(加勢の)諏訪左近允(旗本部将)・山岸隼人佑(譜代衆。越後国蒲原郡の黒滝城を本拠とする)の人数を穿鑿(員数調査)を致し、(越府へ)日記を寄越すこと、ならびにその地に当国から差し置いている者共の人数をも、よくよく記して寄越すべきこと、およそ、いつものような怠慢によって、関東・越後に凶事を招いてしまい、後悔したところで、それは取り返しはつかないこと、一、当国(越後国)から差し置いている一騎合(地下侍)の者共、あるいは、このたび佐野(小太郎昌綱。下野国安蘇郡の唐沢山城を本拠とする下野国衆)から預かり、残し置いている者共(人質)も、城外に在宿していると、そう聞こえていること、それでは、緊急の場合には役に立たないこと、皆々を城外に引き寄せ、以前に申し付けた曲輪(郭)に差し置くべきこと、一、敵地からやってくる諸商人の出入りするのは妥当であること、しかしながら、よくよく人の喧嘩口論を用心するのが適当であること、一、もしかしたらその地に不意に敵が攻め懸けてくるかもしれないので、上田衆に指図を致し、かならず加勢に及ぶように、堅く申し付けてあるにより、安心してほしいこと、一、吾分共(沼田在城衆)を見込んで、その地を預け置いたところ、皆々が存じ受けなかったゆえ、武具・軍馬・馬鎧といった軍装の嗜みがないので、その下々の者共も、何もかも未熟であると、聞こえていること、豊前守(かつて沼田城代を任されていた河田長親)が役目に当たっていたなか、(一時帰国した)不在時には、あまりにも(沼田城衆が)油断していたと、耳にしていたので、このように(城代制から城将制への変更を)致したところ、前体制と変わらず、油断して醜態をさらすにおいては、関東は言うに及ばず、越国(越後国)までの物笑いとなるのは明らかであること、その地での役目に当たり、関左(関東)の是非をつけて本意を遂げる所存は、各々(沼田城衆)においても弁えてはいないものか、口惜しい次第であること、爰元にては、年明けから五日も過ぎていないとはいえ、馬・武具の用意を申し付けたところ、長年にわたる労兵でありながらも、上下は闘志を奮い立たせ、ことごとく準備に余念がないこと、旧冬に佐城(下野国唐沢山城)を打ち明けたこと(番城体制の放棄)さえ、無念であるところに、重ねてその地(沼田城)に万が一の事態にでもなれば、天下の嘲笑はこの一事であること、今後のためであるので、あえて申し遣わしたこと、よくよく斟酌されるのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』591号「松本石見守殿・河田伯耆守殿・小中大蔵少輔殿・小国刑部少輔殿・新発田右衛門大夫殿」宛上杉「輝虎」書状写)。



永禄11年(1568)2月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


4日、最側近の山吉孫次郎豊守(越後国蒲原郡の三条城を本拠とする)が、与力の飯田与七郎(もとは上郡か中郡の国衆)に証状を与え、蒲原郡内の瀬原田分を進め置くので、これから以後においても保証するものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』593号「飯田与七郎殿 参」宛山吉「孫次郎豊守」判物)。


飯田与七郎は、永禄元年から翌2年にかけて、京都御要脚公田段銭の徴収が行われた際、頸城郡夷守郷赤沢内の富田与三左衛門尉分を取り立てて納入した人物であり(『上越市史 上杉氏文書集一』162号)、元亀2年には与三右衛門尉を称し、嫡男の与七郎と共に、山吉豊守の重臣として活動している(同前1017・1072号ほか)。



8日、濃(尾)州織田尾張守信長から、越後国上杉家側の取次である直江大和守政綱へ宛てて書状が発せられ、あらためて使者をもって申し達すること、それ以来は、路次が不通であったゆえ、無沙汰したのは、本意のほかであること、されば、見立てに自信はないとはいえ、糸毛の腹巻・同毛の甲を進覧すること、誠に御音信ばかりであること、なお、重ねて申し述べるものであり、(こうしたところを輝虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』594号「謹上 直江大和守殿」宛織田「尾張守信長」書状写)。



25日、越後国頸城郡の日光寺に証状を与え、越後国頸城郡五十公郷内の杉壺日光寺別当職の件は、右を、常春院(上杉房朝)以来の御判に任せ、保証するものであること、よって、前記した通りであること、これを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』595号「頸城郡 日光寺」宛上杉輝虎判物【署名はなく、花押(a)のみを据える】)。



永禄11年(1568)3月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


近江国に流寓中の能州畠山悳祐・同義綱父子の本国復帰を支援すると称して、越中国へ出馬した(2月25日以降)。

15日、越中国中郡まで進むと、城砦の構築に取り掛かる。こうしたなか、ひそかに甲州武田信玄と通じていた揚北衆の本庄繁長(通称は弥次郎)が、輝虎に遺恨の一理があると称し、13日に、留守居していた越府を抜け出して本拠の越後国瀬波(岩船)郡の村上城へ向かうという事態が発生していた。

その後、自身は越中国射水郡の放生津まで進んだところ、本庄繁長の越府離脱の報に接し、25日、未明に放生津陣を引き払う。




〔足利義秋からの越・甲・相三和の勧告


昨年の11月に越前国朝倉義景(左衛門督)の本拠地である一乗谷(足羽郡)へと移った左馬頭足利義秋が越・甲・相三和を勧告するため、越後国上杉家へ御内書を携えた使者の柳沢新右衛門尉元政を立てるにあたり、3月6日、御内書を認め、何度も仰せられている、越・甲・相三ヶ国の和与の件を、甲・相両国に対して堅く申し付けたところ、請状の旨を承知されたこと、されば、(輝虎に)存分があるといえ、ここは(両国への)是非をなげうち、同心して、(足利義秋が)入洛を遂げられるように、(輝虎に)奔走してほしいと、思われていること、ひとえに輝虎の活躍に懸かっていること、よって、助長の太刀一腰、紫・肩紅・三物の腹巻一領を遣わすこと、なお、(詳細は朝倉)義景が申し届けること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』596号「上杉弾正少弼とのへ」宛足利義秋御内書【署名はなく、花押のみを据える】【封紙ウハ書「上杉弾正少弼とのへ」】)。

同日、随臣の一色藤長(式部大輔)・飯河信堅(肥後守)・細川藤孝(兵部大輔)が、越後国上杉家の年寄衆へ宛てて副状を認め、何度も仰せ出されている、越・甲・相三ヶ国の和融の件を、甲・相両国に対せられ、御下知を加えられたところ、請状の趣を承知されたこと、されば、(輝虎に)御存分があるとはいえ、この機会に(両国への)是非をなげうたれて、その志を遂げられ、(足利義秋が)御入洛を遂げられるように、御奔走してほしいと、頼みに思われていること、よって、御内書を認められ、助長の御太刀一腰、紫・肩紅・三物が揃った御腹巻一領を御拝領されること、(詳細は朝倉)義景をもって仰せ出されるとはいえ、さらに理解を得たく、(一色・飯河・細川からも)申し入れるようにとのこと、委細は智光院(頼慶)が申し達せられること、これらの通りを適宜に御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』597号「弾正少弼殿 人々御中」宛「(一色)藤長・(細川)藤孝・(飯河)信堅」連署状写)。

同日、一色藤長・細川藤孝・飯河信堅が条書を認め、一、越・相・甲三ヶ国の無事の件を、まずは相・甲両国が御請けになり、何事においても上意に背かれない趣を言上されたこと、一、輝虎に存分があるとはいえ、これまで言上されてきた筋目通りに、ここは(両国への)是非をなげうち、(足利義秋が)御入洛を遂げられるように御奔走し、ひとえに御当家再興のために尽くされるべきこと、一、(足利義秋の)御入洛の件は、隣国の諸侍も異議なく御請けになったこと、されば、いまほどの好機はないにより、このたび輝虎の御奔走を格別に頼まれたいと、(義秋は)思われていること、一、上杉殿の受領のこと、一、輝虎の存分により、かならず重ねて御使節を差し下されること、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』598号「(一色)藤長・(細川)藤孝・(飯河)信堅」連署条書写)。

同日、随臣の杉原祐阿が、直江大和守政綱・河田豊前守長親・神余隼人佑へ宛てて副状を認め、その国(越後国)の様子を、(足利義秋は)御心配に思われ、柳沢(新右衛門尉元政)を差し下されたこと、よって、御音信として、御内書ならびに御太刀一腰と御腹巻一領を、太守(輝虎)へ御拝領のこと、適切に申し入れること、それからまた、(越・甲・相)三和の件を御取り扱われたいと、(義秋は)思われ、彼の両国へ尋ねられたところ、 上意に応ずると、内々に言上されたので、取り急ぎ確かな人物を差し下されようとしたところ、若しも(輝虎が)御請けにならないとしたら、かえってどうなのかと、まずは尋ねられるために、このように(柳沢元政の派遣)なったこと、各々(直江景綱・河田長親ら)で相談し合い、事(三和)が調うように、御奔走が専一であること、委細については、この人物(柳沢)が申し述べられるので、詳しい御返答を寄せてほしいとの仰せであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』599号「直江大和守殿・河田豊前守殿・神余隼人佑殿 御宿所」宛杉原「祐阿」副状)。


神余氏は長尾・上杉家の在京雑掌の家柄であるが、神余隼人佑も天文の末から父の隼人佑実綱(隼人入道)と並んで活動が見られる頃には、京都から引き上げさせられており、以後は輝虎(長尾景虎)の旗本に転身していた。ここで直江・河田と並んで取り次ぎを依頼されているのは、京都で神余の名が知られていたからであり、神余隼人佑は越後国上杉家の年寄衆に列しているわけではない。



この間、敵対関係にある越中国一向一揆の勝興寺顕栄(越中国婦負郡末友の安養寺御坊(城郭伽藍)を本拠とする)は、3月16日、賀州金沢御堂(摂州大坂本願寺の別院)の坊官である坪坂伯耆入道へ宛てて書状を発し、それ以後は無音であったのは、不本意な思いであること、よって、 大様(本願寺の坊官で賀州大将の七里頼周か)から何がしかの御指図が近日中に発せられるのかどうか、御様子はどうなのかと、恐れながら案じ申し上げること、路次の様子も相変わらず不都合であるのか、これまた承りたい思いであること、従って、輝虎がこの国(越中国)へ出張する旨、一昨日は俄かに一両所から申し来るとはいえ、いつものように噂に過ぎないと思っていたところ、昨日午刻(正午前後)の時分から中郡へ現し出したこと、地利等を築き始めたものだから、仰天してしまったこと、このたび長尾(上杉輝虎)が出馬してきた意趣は、守山城(越中国射水郡二上山。反畠山氏である畠山年寄衆方の拠点)を攻め伏せ、能州之屋形(先年に年寄衆によって領国から追放された畠山徳祐・同義綱父子)の(能登)入国させるというようなもので、計り兼ねている次第であること、なおもって様子を承り届け、重ねて申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、輝虎の出張の意図が、守山と能州を見据えたものというのは、どうにも意外な目論みであると思え、武士の間での計略は、何れも同じようなものとはいいながらも、いざとなると、その本性は刀槍の戦いよりも謀略であること、このようにあえて申し届けたのは、(輝虎が)この表へ手立てに及ぶのは確かだと思っているからであること、なおもって様子を承り届け、重ねて注進すること、これらを申し添えている(『富山県史 資料編Ⅱ』1677号「坪坂伯耆入道殿 進之候」宛「勝興寺顕栄」書状写)。

能州畠山家の年寄衆である温井兵庫頭景隆は、26日、坪坂伯耆入道・広済寺へ宛てて書状を発し、あらためて申し入れること、長尾(上杉輝虎)が昨25日未明に放生津陣を払って、総人数を引き上げたこと、今もって松倉(越中国新川郡金山)に滞陣しているらしいこと、未だにその実否ははっきりと聞こえてこないこと、越後内輪の本城(本庄繁長)が甲州(武田信玄)へ一味して、去る13日に色を立てた(叛乱)そうであること、そういうわけで俄かに馬を入れられたものか、半信半疑であること、なお、異変があれば、重ねて注進を申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、端書はないことを申し添えている(『富山県史 資料編Ⅱ』1678号「坪坂伯耆入道殿・広済寺 まいる御宿所」宛「温井兵庫助景隆」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』(富山県)

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