【史料】安田顕元宛上杉輝虎一字状
今度隠遁之供神妙候、依之、一字望候間、顕与出候、当家ニ有謂字之由、仰出候也、仍如件、
七月廿三日 輝虎(花押a)
安田惣八郎殿
この年次未詳文書は、上杉輝虎が何らかの理由によって隠遁を図るも、思い直して復帰したのち、隠遁の供をした譜代家臣の毛利安田惣八郎を忠賞して、山内上杉家に縁の「顕」の一字を付与した際のものである。
上杉輝虎の隠遁と言えば、長尾景虎当時の天文23年と弘治2年の隠遁騒動が思い起こされる。それゆえに当文書を、大きな騒動となった弘治2年に比定している編纂物もある。しかしながら、山内上杉家に縁の一字を安田顕元に与えている以上、上杉輝虎期の永禄4年末から元亀元年9月の間に発給された文書に他ならない。そこで当該期に於ける隠遁の動機を探ってみたところ、思い当たったのは、盟友の関白近衛前久との決別である。
永禄5年の7月初め頃、輝虎は近衛前久が盟約を破って帰洛したことにより、ひどく面目を失って三度目の隠遁を思い立ったけれども、とても関東・信州経略を投げ出せる状況になく、今また隣国越中で椎名と神保の東西領主の間で抗争が起こり、心ならずも隠遁を思い止まる他なかったのではないだろうか。
『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』115号 上野家成書状、134号 長尾宗心書状写、136号 長尾景虎書状、996号 上杉輝虎書状
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