越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

訂正【1】

2018-10-19 21:05:05 | 雑考

 上杉謙信が使用した数種の花押型のうち、『新潟県史 資料編5』が4型、『同通史編2』がE型、『上越市史 上杉氏文書集』がd型と呼称している円形が特徴的な花押の据えられた文書が、輝虎期に5点、謙信期に1点が残っており、その写真や書写された画像を見ていた際、さらに型が二種に分けられることに気が付いたので、それらを整理してみたところ、当ブログにおいて永禄7年に年次比定をした9月18日付斎藤下野守・赤見六郎左衛門尉・小野主計助宛書状写(『上越市史 上杉氏文書集』474号。以下、文書番号だけのものは同集からの引用となる)の比定を改めなければならなくなりました。

※『新潟県史 通史編2 中世』(736頁)では、Eは「真久」という二字の草体を少し形象化したもの、としている。

 この花押型が据えられた輝虎期の文書の内訳は、1.永禄5年2月27日付蔵田五郎左衛門尉宛書状(309号)、2.当ブログで同7年に比定した3月15日付金津新兵衛尉・本田右近允・吉江織部佑・高梨修理亮・小中大蔵丞・吉江民部少輔・岩船藤左衛門尉・吉江中務丞宛書状(313号)、3.同年8月24日付蔵田五郎左衛門尉宛書状(431号)、4.当ブログで永禄7年に比定し、それを改めなければならない9月18日付斎藤・赤見・小野宛書状写、5.当ブログで永禄9年に比定した11月17日付千手院宛書状(1009号)となり、主に近臣たちへ宛てられた書状に据えられていた特例の花押であることが分かります。

※ 関東遠征中の輝虎が3月15日付けで越府留守衆の金津ほか7名へ宛てて、越府の防災などについての指示を送った書状(313号)を永禄7年に比定したのは、永禄4年12月21日付吉江忠景宛行状(301号)や年月日未詳計見出雲守・吉江中務丞宛上杉輝虎書状(『武家手鑑 解題』目録30頁)からすると、輝虎旗本の吉江中務丞忠景は永禄5年3月には関東に駐在していたようであり、金津以下は当時の越府留守衆ではなく、輝虎が永禄7年3月13日に留守衆の重鎮である本庄美作入道宗緩・金津新右兵衛尉・吉江中務丞へ宛てた書状(395号)からして、永禄6年冬から同7年夏にかけて挙行された関東遠征時に編成された越府留守衆ではないかと考えたからである。

※ やはり関東遠征中の輝虎が11月17日付けで下野国足利の鑁阿寺の子院である千手院へ宛てて、越後国上杉軍の在陣中における輝虎の武運を祈念してくれたことへの謝意を伝えた書状(1009号)を永禄9年に比定したのは、その書状で取次を務めている河田豊前守長親は、越後国上杉軍が下野国佐野の唐沢山城に在陣中の同年2月3日に千手院へ書状(484号)を送っており、それは河田長親の花押型から永禄8・9年に期間が限定される( 栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』67~78頁)ので、8年の方では11月17日は関東出陣の直前であり、輝虎が足利を経て佐野に在陣したのは9年の冬にも認められるからである。



 【ァ】 【ァ】
 【ィ】 【ィ】


 上に示した画像を見て分かるように、この花押のァ型(『上越市史 上杉氏文書集 別冊』33頁 ◆『新潟県史 資料編4 付録』98頁)とィ型(『上越市史 同別冊』82頁 ◆『越佐史料 巻五』443頁)では、花押主部の円形の左側に添えられた「久」とされる部分の三画目の払いから線が伸び、これが途切れずに跳ね上がっているかいないか、その跳ね上がった線が円形部の下に強く引かれた横線を跨いで上部に段だらを描き、これがはっきり書かれているかいないかの違いがあります。このように二種に分けられる花押形をそれぞれの文書に当てはめますと、1から3までの書状に据えられた花押がァ型、4と5の書状に据えられた花押がィ型となることから、絶対にないとは言い切れませんが、永禄7年秋から冬にかけて挙行された信濃国川中嶋陣の期間中に輝虎がいきなり花押をァ型からィ型に変えたとは考えにくいので、3と4の書状は切り離した方が妥当であると考えました。

※ ここには画像を載せていないが、1の書状である永禄5年2月27日付蔵田五郎左衛門尉宛書状のァ型花押は二つ目(1009号)の方に近い(『伊佐早謙採集文書 蔵田文書』15齣)。

※ 厳密にはァ型の両花押も、横線の長短と微かな段だらの有無といった違いがあるので、二種に分けるべきなのかもしれない。


【史料】斎藤下野守朝信・赤見六郎左衛門尉・小野主計助宛上杉輝虎書状写
▢(信ヵ)州口目付差越、敵陣所行之量見届、急度注進祝着候、従爰許遣候目付▢▢▢覚同前候、自関東申越分、尾州・濃州有▢統、甲府被及調義、断彼口動揺之由候、▢▢(定而ヵ)可為実義歟校量候、重目付▢(然ヵ)付▢(置ヵ)、甲・信之様躰越中口之事、節々註進専▢▢(一候ヵ)、雖無申迄候、其地普請用心以下油断有間▢▢(敷候)、謹言、
    九月十八日      輝虎(花押【ィ】
      赤見六郎左衛門尉殿
      小野主計助殿
      斎藤下野守殿

 この書状を当ブログの「上杉輝虎の略譜【24】」において、「信・越国境の越後国祢知城(頸城郡)の城衆である「斎藤下野守(朝信。譜代衆。越後国赤田城主)・赤見六郎左衛門尉殿(信濃衆)・小野主計助殿」に宛てて書信を発し、祢知城衆の目付がもたらした甲州武田軍の陣容は、当陣の目付が得た情報と一致しており、尾州(織田信長)と濃州(斎藤龍興)の間で一統が成立し、両軍が甲府へ侵攻するといった噂が流れ、彼の表では動揺が拡がっているとの情報についても、関東から寄せられた情報と一致しているので、恐らく事実であろうとの見解を示すとともに、今後も目付を活用して甲・信州及び、越中口の様子を注視し、要害の維持管理を徹底するように指示を与えた」というような解釈を記しました。
 これは「尾州・濃州有▢統」の欠けた部分は「一」の字に他ならないと考え、永禄7年当時、甲州武田信玄が、濃州斎藤龍興とその族臣の長井隼人佑が対立していて、その長井隼人佑と甲州武田信玄が提携している時期であり(『戦国遺文 武田氏編』899・913号)、もう一方の斎藤龍興が尾州織田信長と和睦して甲府へ侵攻するといった噂が流れてもおかしくないことや、輝虎が目付を駆使して「敵陣所」の動向を探っている状況が、9月5日付堀江駿河守・岩船藤左衛門尉宛直江大和守政綱書状写と10月2日堀江・岩船宛上杉輝虎書状写においても確認されることなどから、この年に比定しました。
 しかし、花押形の違いによって同年に比定できないとなると、「一統」には、いくつかの国が一つにまとまる(一統に和睦する)という意味のほかに、分裂していた国を一つに統べる(諸国が統一される)といった意味もあるので、織田信長が永禄10年に美濃国を平定していることから、この年に比定を改めます。


『越佐史料 巻五』〔北越華押叢〕上杉輝虎 天寧寺文書(丹波)年次未詳9月18日 ◆『新潟県史 資料編5 中世三』4237号 上杉輝虎書状写 ◆『新潟県史 資料編4 中世二 文書編Ⅱ 付録』2116号 上杉輝虎書状 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』300号 上杉輝虎書状(影写)、301号 吉江忠景宛行状(影写)、309・313号 上杉輝虎書状、395号 上杉輝虎書状(写)、431号 上杉輝虎書状、433号 直江政綱書状(写)、436・474号 上杉輝虎書状(写)、484号 河田長親書状、1009号 上杉輝虎書状、1463号 上杉謙信書状(影写) ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 別冊』313・431・1009号 上杉輝虎書状、『戦国遺文 武田氏編』(東京堂出版)899・913号 武田信玄書状 ◆ 太田晶二郎『武家手鑑 解題』(前田育徳会尊経閣文庫)◆ 中野豈任「上杉家の花押と印章(花押と花押判)」(『新潟県史 通史編2 中世』)◆ 栗原修「上杉氏の隣国経略と河田長親(長親発給関係文書について)」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)◆ 室町時代語辞典編修委員会(編)『時代別国語大辞典 室町時代一(あ~お)』(三省堂)◆『伊佐早謙採集文書 蔵田文書』(〔東京大学史料編纂所データベース〕)
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