越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年4月下旬】

2013-06-07 10:13:25 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)4月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


越・相和睦の交渉を進めるにあたり、関東味方中の佐竹義重(次郎。常陸国久慈郡の太田城を本拠とする)と太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。佐竹氏から常陸国北郡の片野城を与えられた)・梶原源太政景父子らの許へ、使者の大石右衛門尉(旗本衆)を派遣すると、太田道誉・梶原政景父子から、21日以降にまとめて返書が発せられる。

21日、梶原政景が、取次の山吉孫次郎豊守・河田豊前守長親へ宛てた返状を認め、先日は御懇答を繰り返し披読できたので、祝着であること、何よりも本庄(繁長。雨順斎全長。外様衆。越後国猿沢城に蟄居中)を思うがままに落着させて御馬を納められたのは、各々方は大悦であり、我等(梶原政景)も満足そのもであること、よって、氏政(相州北条氏政)が御当国(越後国上杉家)へ無事を懇望された件について、佐竹(義重)そのほかの御味方中へ様子を御尋ねのため、(使者の)大石(右衛門尉)を差し越されたこと、まずもって御賢明であること、(佐竹)義重からは小佐(佐竹氏の宿老の小貫佐渡守頼安)が御申し述べられること、拙夫(梶原政景)からも重ねて管雲斎を差し添えること、言うまでもなく適宜な御取り成しを、つまりは任せ入るだけであること、彼方(大石右衛門尉)が詳しく申し述べられるので、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、前日に佐竹から(こちらへ)車信(車信濃守)が参られた折、(佐竹)義重が貴所(山吉豊守・河田長親)へ越・相無事の是非を仰せ届けないつもりであったものか、そうではあっても、拙夫(梶原)が様子を申し届けるにあたり、御馳走は真実を懸けられるのをもっては申し述べ難いこと、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』710号「山孫・志山(本来は河豊であったろう)」宛「梶原 政景」書状写)。

同日、太田三楽斎道誉・梶原源太政景父子が、河田豊前守長親へ宛てた管雲斎が口述するための条書を認め、覚、一、(輝虎の)御越山に極まること、この補足として、口上、一、南方(相州北条家)との御無為は、都鄙の覚えも良い御様子であること、この補足として、国分け(領土の画定)のこと、一、先頃に申し届けた通り、(輝虎から佐竹)義重への御懇切な配慮には、某父子(太田道誉・梶原政景)においても恐縮しきっていること、一、武・上・常・野州の一切を御処置されるべきこと、一、関宿城(下総国葛飾郡下河辺荘)の状況も待ったなしであること、一、(太田)父子の処遇にまつわること、この補足として、近年(太田父子が佐竹氏の客将となって以降、佐竹氏)に属した馬寄之衆(外様衆)の交名は、注文をもって申し達すること、一、越・相御無為が御落着してからのこと、これらの条々について申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』707号「河田豊前守殿」宛「(太田)三楽斎道誉・梶原源太政景」連署条書)。

同日、太田三楽斎道誉が、山吉孫次郎豊守・河田豊前守長親へ宛てた管雲斎が口述するための条書を整え、覚、一、(鎌倉公方の)御座所を古河(下総国葛飾郡下河辺荘)が相応しいこと、一、公方様の御名跡のこと、一、武・上・常・野州のこと、この補足として、両条のこと、一、西方河内守(下野国西方城を本拠とする下野国衆。下野国宇都宮の宇都宮氏の親類衆でもある)を引き立てられるべきこと、この補足として、常に表裏を弄する人物であること、一、これらの一儀については誓詞をもって申し達すること、これらの条々について説明している(『上越市史 上杉氏文書集一』708号「山吉孫次郎殿・河田豊前守殿」宛太田「三楽斎道誉」条書案)。


23日、房州里見左馬頭義弘から書状が発せられ、あらためて申し達すること、よって、(北条)氏政は薩埵山に押し上られるも、難儀に及ぶについて、越・相無事を懇望してきたとのこと、(下総国関宿の)簗田中務大輔(洗心斎道忠。俗名は晴助)の飛脚が御懇書を持参したについて、弁才のある者を寄越すようにと、仰せを受けたとはいえ、(北条)氏康の指図により、下総路において封鎖を行っているので、形通りの使いの往来は不可能であること、様子については、条目をもって詳しく申し達すること、それにもかかわらず(北条)氏康からしきりに(房・相和談を打診する使者を)差し越されるとはいえ、そのつどはねつけていること、ただし、(相州が)越国と御無事に至るのであれば、(房・相一和に)御同意するべきと考えていること、御和談が御落着されるまでは、渡海は足繁く行うこと、御和談には強気な姿勢で交渉に臨んでほしいこと、また我等(里見義弘)をはじめとする忠信の者たちは(越・相無事に)懸念を抱いており、それでもなお御無事を御取り扱われるのであれば、詳細の御知らせを待ち入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えらている。さらに追伸として、中風を患っているゆえ、(花押を書けず)印判にて申し達したこと、以上、これを申し添えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』711号「山内殿 御宿所」宛「里見左馬頭義弘」書状写)。




〔越中味方中の神保長職との交信〕

26日、越中国増山の神保長職(惣右衛門尉)の一族である神保覚広(近江守)から、越後国上杉家側の取次である直江大和守景綱(輝虎の最側近)へ宛てて書状が発せられ、あらためて言上致すこと、もとより、本庄表(越後国瀬波(岩船)郡小泉荘)に戦陣については、(輝虎は)御本意を遂げられ、 御馬を納められたのは、この国(越中国)までも大慶であると存知申し上げること、すぐにでも祝意を申し上げるべきところ、路次の不通により、遅延してしまったこと、そこで、些少に極まるとはいえ、杉原紙百帖を進上致すこと、これらの趣を御披露願うところであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』714号「直江大和守殿」宛神保「覚広」書状)。

同日、神保長職の宿老である小嶋職鎮(六郎左衛門尉)から、直江大和守景綱へ宛てて書状が発せられ、あらためて申し達すること、よって、瀬波郡村上山の戦陣について、 御屋形様(輝虎)が尊慮を達せられ、落着されたのは、誠にこの国(越中国)までの大慶であり、筆墨に尽くし難いとの思いであること、当然ながら御在陣の折に祝意を申し上げるべきであるとはいえ、海陸の路次が不通により、遅延してしまったもので、(越後国上杉家を)まったく軽んじたつもりはないこと、とりわけ、この国の様子については、各々が頭書をもって申し入れること、この機会の御戦陣が遅延されないように、 (輝虎の)上聞に達せられれば、ありがたい思いであること、かねてまた、自訴の一件については、最前の一書の通りを重ねて申し入れること、分けても御便宜を図ってくれるように願うところであること、従って、軽少とはいえ、
紅糸二縷、間に合い紙百枚を進献すること、詳細は彼の口上に附与するにより、(この紙面を)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』715号「直太 まいる御宿所」宛小嶋「職鎮」書状)。

同日、小嶋職鎮から、取次の鯵坂清介長実(輝虎の側近)へ宛てて書状が発せられ、あらためて啓上致すこと、よって、村上山は(輝虎の)尊慮の通りに落着し、御馬を納められたとのこと、誠にこの口(越中国)までの大慶であるのは、愚筆には尽くし難い思いであること、当然ながら御在陣の折に、脚力をもって祝意を申し上げるべきであったとはいえ、海陸の路次が不自由により、どうにもならかった次第で、まったく軽んじたつもりはないこと、そこで、太刀一腰、手綱・腹帯五具を進上申し上げること、この趣の適切な御披露を頼み申し上げること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』716号「鯵清」宛小嶋「職鎮」書状)。


※ 当文書は宛所を欠損しているが、『謙信公御書集』巻十により補ったとのこと。直江景綱宛と同様に「まいる御宿所」の脇付けも書かれていたであろう。



この間、同盟交渉中である相州北条氏政(左京大夫)は、友好関係にある羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達輝宗(次郎)から使僧が到来したのを受け、4月23日、伊達輝宗へ宛てた返状(謹上書)を米府へ帰る使僧に託し、当口の様子を詳しく申し述べるために、(伊達輝宗からの)御使僧に(北条氏政の)使いを差し添えたこと、もとより、甲・相両国の間で抗争が起こったうえは、越国(越後国上杉家)から、(越・相両国が)一味するのが当然であろうと言ってきたこと、御承知しておいてもらうために申し届けたこと、なお、遠国であろうとも、終始一貫して御入魂の間柄でいられれば本望であること、委細は玉龍坊(乗与)の口上のうちにあること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、誘弓(拵弓)廿張を贈ること、遠方から入手した品であること、以上、これらを申し添えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1199号「謹上 伊達殿」宛北条「左京大夫氏政」書状【懸紙ウハ書「米澤江 小田原本城」】)。


4月上旬から中旬にかけて、越・相両国の使者(上杉側は松本景繁、北条側は遠山康光・垪和康忠)が上野国新田金山城へ出向き、同盟条件を巡って折衝したことを受け、相州北条氏康・同氏政が越後国上杉家の各所へ宛てた条目・書状を27日以降にまとめて発する。


24日、相州北条氏康・同氏政父子が条書(これよりは輝虎を山内殿と宛名書きする)を認め、〇前欠、一、松山(武蔵国比企郡)についてのこと、以上、上田(安独斎宗調。没落した扇谷上杉氏の旧臣で、現在は相州北条家の他国衆)の本地であるのは疑いのないこと、申歳(永禄3年)一乱の折は、(上田は)父子共に小田原在城であったこと、御存知の通りであること、右の筋目は、いささかも違えないようにするのが肝心であること、よって、今朝寅刻(午前4時前後)に信玄は敗北したこと、貴国の御指図次第で、このまま甲州へ押し入るので、この好機を逃されず、信州に向けての御出馬に極まるのは、この状に前記した通りであること、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』713号「山内殿」宛北条「氏康」・北条「氏政」連署条書)。


27日、相州北条氏康(相模守)が書状を認め、このたび半途(上野国新田金山城)において、越・相両国の使者が対談し、(輝虎から)仰せを受けた筋目は、その意に任せること、ただし、国々の立分け(国分け)の件については、いささかの嘆願があること、御承知においては、芳情を給わるものであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』717号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。

別紙の追伸にて、遠方より入手した三種三荷を贈ったこと、御賞味においては、本望であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』718号「山内殿」宛北条「氏康」書状写)。

同日、相州北条氏康が、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てた書状を認め、北丹(北条丹後守高広。もとは越後国上杉家の関東代官で、当時は相州北条家の他国衆。上野国厩橋城を本拠とする)の進退の件について、越・相両国が一味するからには、御赦免あり、御配慮を加えられてほしいこと、この一儀を其方(山吉豊守)に頼み入る所存であること、委細は源三(北条氏照。氏康の三男。北条高広の指南を務める)が申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』720号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏康」書状写)。

同日、相州北条氏康から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である松本石見守景繁へ宛てて書状が認められ、このたび(北条)氏政が窮状を申し越したこと、親子の間柄を抜きにしても、彼の所存はそのように訴えたのはやむを得なかったのではないかと、愚老(氏康)も同意していること、そうではあっても、不安の一ヶ条があり、(越後国上杉家に)一国(上野国)を任せ置くところは、名利と一緒に本意が失われかねないのはどうかと、輝虎の御作意に勝るものはないとはいえ、ひとえに御取り成しをもって、越・相両国で上州半国づつを分け合えるように念願していること、とりわけ、(武田)信玄の敗北について、氏政の心中は勝ちに乗じるのかどうか、爰元(氏康)が問いただしたところ、一度は筋目を申し合わせた敵が敗北したからには、いよいよ(勝ちに乗じるのは)確かであるとのこと、愚老においても満足していること、つまりは信玄が敗北の鉾で落胆した状態から正気に戻られないうちに、信州に向かって御出張されれば、氏政はとりもなおさず甲州へ乱入するつもりであること、越・相両国の連帯は今この時であること、少しでも延べられては、行き詰ってしまうこと、次に遠州(今川氏真)の状況については、兵粮が確実に断絶すること、来月中旬まで持ちこたえられないと、使者共が見届けたこと、こうした状況でも御戦陣の催促は似非ものと思われるであろうか、八幡大菩薩と三嶋大明神の御罰を蒙ること、一点も虚説はないこと、そうして、遠州が御滅亡に至っては、誠に賊徒が侵入したあとでの弓矢では無意味であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』721号「松本石見守殿」宛北条「氏康」書状)。

同じ頃、相州北条氏康が条書を認め、條目、遠路の口上では届け難く思えたので、このたび無礼を省みず、糊付(大事の書状)をもって申し入れること、御存分を糊付の御返答を寄せてもらえれば本望であること、一、(関東管領職について)先年に亡父の氏綱が、 上意(古河御所足利晴氏)に応じて進発し、総州国府台(葛飾郡)において一戦を遂げ、 稀世 御父子三人(小弓御所足利義明、その嫡男某、義明の弟である基頼)を討ち取ったこと、その勲功によって管領職を仰せ付けられ、 御内書両通を頂戴したこと、この筋目を詳しく申し上げる所存であったとはいえ、すでに氏政の実子を(輝虎の)御名跡に定め置かれるとのこと、このように御入魂を遂げるからには、言うべき点はないこと、貴意(輝虎)に任せ置くこと、一、(国分けについて)河内(上野国東部)においては、長年にわたって氏政の下知に従い、唯一無二の奉仕をした輩は数ヶ所あること、ただ今、氏政の手前から離してしまっては、外聞を保つのが困難であること、彼の所々を此方(相州北条家)へ付けられるにおいては、ありがたく芳志であること、ただし、御納得してもらえないについては、仕方がないこと、とりわけ、このたび松石(松本景繁)が遠山左衛門尉(康光。氏康の側近)・垪和(刑部丞康忠。氏政の側近)に対し、書き立てられた(武蔵国内)六ヶ所は、先年の申歳(永禄3年)に越府の御陣下へ馳せ参じたとのこと、ただ今、越・相が和融して一味となるので、申歳の是非は無益ではないかと、すでに一切合切を御作意に任せるからには、彼の六ヶ所は武州のうちであること、豆・相・武三ヶ国においては、当家の歴代が戦功をもって得たものであるにより、御承知してもらえれば、本望であること、一、公方様の、 御移座の件については、 藤氏様(足利晴氏の長男)の御進退の件を、松石(松本景繁)から示されたこと、遠国ゆえに事情は伝わっていないものか、去る刁歳(永禄9年)に御他界していること、 義氏様(晴氏の末男)へ、 晴氏様から御相続は疑いないこと、すでに越・相御和融したからには、 義氏様の御筋目は紛れもないにより、(義氏のままが)適切ではないかと、御斟酌に勝るものはないこと、右の条々を申し合わせたからには、一日も急速に信州に向かって御出張してもらいたく、さすれば氏政自身も甲州へ乱入すること、このたびの信玄敗北の折、意気消沈する(武田)信玄が気力を取り戻さないうちに、信・甲を御退治されるのを念願する以外にはないこと、もしもしこのうえにも御遅延されては、報われないこと、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』723号 北条氏康条書)。


同じく相州北条氏政が条書を認め、一、御手立てについてのこと、この補足として、個々については手日記にて示すこと、一、関東 公方様についてのこと、一、氏康の立案した計儀についてのこと、一、愚息壱人を(越後国上杉家へ)遣わすこと、一、書札礼についてのこと、一、晴信(甲州武田信玄)が仕掛けてくる計儀についてのこと、一、小田(常陸国土浦の小田氏治)・佐竹間の御周旋についてのこと、一、八正院殿(小弓御所足利義明)の御連枝の復権についてのこと、一、下総国の諸氏の帰属についてのこと、一、太田美濃守を引き付けられるべきこと、この補足として、扇谷(扇谷上杉氏)の復活についてのこと、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』709号 北条氏政条書写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『謙信公御書集』(臨川書店)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)

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