越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の略譜 【15】

2012-09-10 20:47:47 | 上杉輝虎の年代記

永禄5年(1562)正月4月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼) 【33歳】

上野国三夜沢小屋(勢多郡)で年明けを迎えると、正月26日、関東越山する者たちへの制札を掲げ、上田の大手口(上田長尾氏の本拠地である坂戸城下。越後国魚沼郡上田荘坂戸郷)の通路に支障があるので、上・越国境を越える者共は、直路(上田長尾氏の一族と思われる直路長尾氏の本拠地である直路城下。同塩沢郷)筋の通路を往還するべきこと、大手口の往還は停止すること、もしこの旨に違犯する徒輩がいれば、罪科に処すること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』305号 上杉輝虎制札写【署名はなく、花押のみを据える】)。

2月9日、上野国館林城(邑楽郡佐貫荘)に攻め寄せると、しばらくして城主の赤井文六は、同じ上野国衆の「大源」(『新潟県史 資料編3』212号 須田栄定書状の注解によると、『新編埼玉県史』は上野国大室城主の大室源三郎としている)と横瀬雅楽助成繁(同金山城主)を頼んで和睦を嘆願してきたことから、赤井同心の石田某の許へ使者を立てて交渉に臨んだ。

11日、上野国館林攻略に参戦している関東味方中の簗田中務大輔晴助(下総国関宿城主)に証状を与え、このたび要望通りに小山の下郷ならびに河原田郷(いずれも下野国都賀郡小山荘)の地を宛行うので、相違なく御知行されるべきこと、今後ますます忠信を励まれ、またとない御奮闘をされるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』307号「簗田中務大輔殿」宛上杉「輝虎」安堵状写)。

17日、上野国館林城から赤井文六を追放して城を接収すると、28日までの間に館林領共々、味方中の足利長尾但馬守景長(この頃、輝虎から一字を付与されて当長から景長に実名を改めた。下野国足利城主)に預けた。

27日、本国の蔵田五郎左衛門尉(実名は秀家か。府内代官)へ宛てて書状を発し、伊勢神宮に代参して、御祓いの神札を送付してくれたこと、喜びもひとしおであること、よって、たちはやし(館林城)の防備をきつく申し付けた上で、たしまのかミ(足利長尾景長)に預け置いたこと、「ちやうい」(上意。関白近衛前久)の御身については、古河(下総国葛飾郡の古河城)から「こゝもと」に引き取ったこと、おおよそ関東の戦線を堅固に維持しているので、安心してほしいこと。ふない(府内)・かすか(春日町)の防火、かすかやま(春日山城)の防備、倉庫の管理については、なおへ(直江大和守実綱。大身の旗本衆)・おきハら(荻原伊賀守。同前)と談合して、きっちり指図するべきこと、以前に(蔵田が)寄越した使者については、用所を申し付けたいので、今なお「こゝもと」に留めていること、巨細は九郎大郎(のちの船見宮内少輔、須田満親か)・清介(鰺坂長実か)の方から書いて伝えること、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』309号「蔵田五郎左衛門尉とのへ」宛上杉輝虎書状写【署名はなく、花押(d)のみを据える】)。


28日、関東味方中の足利長尾但馬守景長の重臣である須田尾張守栄定から、越府の留守将を務める上田長尾政景(受領名は越前守。譜代衆。越後国坂戸城主)へ宛てて再便となる書状が発せられ、このたび幸便を得たので申し上げること、よって、去る9日に(輝虎が)立林(館林)の地へ御馬を寄せられたこと、そうしている間に、赤井文六方から様々な言葉を尽くして和睦の仲介を頼み込まれ、大源ならびによこせ方(横瀬成繁)も深く懇願してきたので、(輝虎は)赤井同心の石田の許へ御使者を立てて交渉に臨むと、赤文(赤井文六)が去る17日に開城したこと、そのまま立ち去った(赤井の)姿はとても哀れであり、その有様を御察ししてほしいこと、今現在の当国(上野国)については、ほぼ(輝虎の)御存分の通りに経略されたので、御安心してほしいこと、一旦は味方しておきながら離反した斎藤方(岩下斎藤越前守。上野国岩下城主)は、箕輪方(箕輪長野新五郎氏業。同箕輪城主)を通じ、ひたすら赦免を頼み込んできたこと、さてまた、爰元については、立林(館林)の所管を(足利長尾氏に)仰せ付けられたのち、やはり離反して相州北条方に属する佐野(小太郎昌綱。下野国衆。下野国唐沢山城主)に再び制裁を加えられてから、先ずは早々にまやはし(上野国群馬郡の厩橋城)へ御馬を納められるそうであること、言うまでもなく御留守中の御用心を油断されてはならず、このところを十分に心掛けられるべきように、恐れながらも申し述べたこと、これらを恐れ謹んで伝えられている。さらに追伸として、去る頃は御懇書を給わり、はなはだ恐悦して、とりもなおさず御返事を差し上げたので、何事もなければ、今頃は着府したではないかと思われることを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』310号「政景江 参人々御中」宛「須田尾張守栄定」書状)。


下野国佐野(安蘇郡佐野荘)に在陣中、留守衆の荻原伊賀守・蔵田五郎左衛門尉からの先月12日付の条書が到来し、甲州武田軍による越府侵攻の情報などを受けると、3月4日、荻原伊賀守・蔵田五郎左衛門尉へ宛てて返書を発し、このほど到来した先月12日付の条書の趣旨については、委細を聞き届けたこと、一、うえ田衆はいとう(配当)の日記(上田長尾越前守政景の一族・同心・被官集団に給付する土地の目録)を内容を見直すべきこと、一、春日山城下の蔵荷を全て実城(主郭)へ移すべきこと、越前守(上田長尾政景)・なをへ(直江大和守実綱。越後国与板城主)、それから遠江守(下田長尾藤景。譜代衆。越後国下田(高)城主)、其方(荻原・蔵田)らが留守を守っているので安心はしているが、本隊に先駆けて柿崎(和泉守景家。譜代衆。越後国柿崎城主)に二、三の部将を添えて帰府させること、「はちかみね(鉢峰。春日山城)」は修繕を怠りさえしなければ、不落の堅城であり、万一を考えて、移動に時間を要するかもしれない女性らを速やかに収容しておくべきこと、肝心なのは死命を賭して戦う心構えであり、華美な身支度は必要ないので、覚悟の据わっている心身の充実した将兵で籠城に臨むべきこと、取り分け防火に努めるべきこと、倉庫番の者と協力して「はちかみね(鉢峰)」の倉庫に荷物を搬入し、管理を厳重にするべきこと、一、大宮坊の所領については、今は配慮する必要のないこと、一、この方(輝虎)から指示するまでもなく、空地・闕所地を両名で調査し、一括してくら田(蔵田)が管理するべきこと、一、この20日頃には帰府する予定であり、戦線の再構築を成し遂げたので、ともかく安心してほしいこと、無事に対面したのち、存分に語り合いたいこと、取り急ぎこれらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』393号「荻原伊賀守殿・蔵田五郎左衛門(尉)とのへ」宛上杉輝「虎」書状写)。

この日のうちに野州佐野陣を撤収した。


5日、この日、和泉国久米田(南郡)の戦いにおいて、河州三好長慶(修理大夫。河内国飯盛山城主)の弟である三好豊前入道実休(物外軒。豊前守之虎。河内国高屋城主)を敗死させたばかりの紀州畠山高政(尾張守。もとは紀州・河内の守護を兼任した)の側近である安見宗房(美作守。内衆)から、年寄衆の直江大和守実綱・河田豊前守長親へ宛てて書状が発せられ、先年に御在京された折、上意(足利義輝)によって管領になれたそうであり、誠に稀有にめでたいと存ずること、御帰国された以降も、しばしば申し入れるべきところ、遠境ゆえにままならず、不本意ながら無沙汰をしてしまったこと、御祝儀として金襴織り二巻と紗織り一巻を進献したので、よしなに御披露してほしいこと、従って、此方の屋形(畠山高政)ならびに家宰の新次郎(遊佐信教)が直札をもって存念を示されること、今後も双方の交誼のために、なおいっそう取り成しに奔走するつもりであること、以上の趣旨について尊意が得られるように、ひたすら念願していること、これらを恐れ畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』311号「直井(江)大和守殿・川(河)田豊前守殿」宛安見「宗房」書状)。


※ 紀州畠山高政は、永禄4年7月に河州奪還のため、江州六角佐々木承禎(抜関斎。左京大夫義賢)と連携して兵を挙げ、この和泉国久米田の戦いに勝利し、一時的にではあるが、高屋城への復帰を果たしている。

※ 『上越市史 上杉氏文書集一』311号は「此方屋形」(尾州家畠山氏の当主)を畠山政頼(のち秋高)としているが、弓倉弘年氏の論集である『中世後期畿内近国守護の研究』(清文堂出版)の「第一部 畠山氏の紀伊支配 第一章 紀伊守護家畠山氏の家督変遷 十一 高政と秋高」に従って畠山高政とした。

※ 三好実休と畠山高政については、福島克彦氏の著書である『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館)の「Ⅲ 三好長慶の時代 1 長慶の台頭・3 長慶の畿内制圧」を参考にした。


7日、太閤近衛稙家から書状が発せられ、ここしばらくは不本意ながら書信を通じていなかったこと、関白(近衛前久)関東在国について、御懇待してくれているそうであること、祝着至極であり、感謝してもしきれないこと、もっと前からあれこれ謝意を表するべきところ、余りの遠路ゆえに機会を逃し続けてしまい、まさに非礼の極みであり、はなはだ悩ましい思いであること、思うがままに諸国の経略を遂げられたそうで、誠に稀有にめでたいこと、なお、改めて申し述べるつもりであること、これらを謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』312号「上杉殿」宛近衛植家書状【署名はなく、花押のみを据える】)。


18日、留守将の長尾越前守政景へ宛てて書状を発し、音信としてまめに飛脚を寄越してくれたので、喜びもひとしおであること、よって、このたび帰路に就く軍勢のため、通路の整備等を念入りに実施してくれたばかりか、速やかに陣夫を徴用して配置されたのは、喜ばしい限りであること、近日中に着府する予定なので、今しばらく留守衆と協力して、其元の国境辺りの警戒に努めるべきこと、これらを謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』396号「長尾越前守殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。


こうしたなか、古河公方足利藤氏は、輝虎が関白近衛前久と養父の山内上杉憲政を伴い、慌しく越後に帰国してしまうと、古河城を放棄して房州里見家を再び頼っている。



この間、甲州武田信玄は、2月10日、西上野先方衆の下諏方宰相へ宛てて証状を発し、昨年来の諏方城(碓氷郡安中)の乗っ取りの企てを、取り分けて奮闘するとの決意により、下弾正の知行地を宛行うこと、早々に計策を施すべきこと、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編一』770号「宰相殿」宛武田信玄判物【署名はなく、花押のみを据える】)。

3月26日、同じく鎌原宮内少輔(上野国鎌原城主)へ宛てて書状を発し、このたび其方(鎌原宮内少輔)が自身の進退について、斎藤越前入道(上野国衆。上野国岩下城主)へ存分を説明されたが、(斎藤越前入道は)承服しなかったので、(鎌原は)在所を退いて信州へと移住されるに至ったからには、先に宛行った上野国羽尾領内(吾妻郡三原荘)の知行地の替地を、いささかも相違なく信濃国海野領内(小県郡海野荘)において宛行うこと、いかほども当方へ忠節を尽くしてくれており、決して疎略に扱うつもりはない意趣を、(使者の)甘利(左衛門尉昌忠。譜代家老衆)が口上すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』775号「鎌原宮内少輔殿」宛武田「信玄」書状)。


相州北条氏康は相府小田原から越軍への対応を図るなか、3月14日、三男の大石源三氏照(武蔵国由井城主)が、下野国衆の佐野小太郎昌綱の族臣である天徳寺宝衍(佐野昌綱の叔父か)宛てて書状を発し、去る4日付の御注進状が同6日に到着したこと、されば、その地(下野国唐沢山城)へ向かって長尾弾正少弼(上杉輝虎)が攻めかかるも、鉄壁な防戦をされたので、(輝虎は)何ら得るところなく退散したのは、誠にもって拙者(大石氏照)一身にとっても満足であること、一、相府小田原よりの返札二通を届けること、一、(北条氏康は)このたび佐野の地へ敵が攻め寄せたところ、後詰を送ったこと、安心したとの仰せを頂いたこと、近頃は手立てを講じられないでいたこと、しかしながら、このたび敵がその地(佐野)へ攻め寄せたとの急報が忍(武蔵国衆の成田氏)から寄せられたので、(大石氏照は)翌日に後詰するため、成下(成田下総守長泰。武蔵国忍城主)と示し合わせて杣山(武蔵国多西郡)へ移り、されば、甲州衆も加勢として小山田(弥三郎信有。武田家に属する甲斐国衆で家老衆でもある。甲斐国谷村城主)・加藤(丹後守景忠。同国衆。同上野原城主)が半途まで打ち出してきたが、敵は退散したので、引き返されたこと、一、(北条)氏康から、その地(佐野)へ敵が攻め寄せた際には、昼夜兼行で河越城(武蔵国入間郡河越荘。準一家で家老の大道寺源六周勝が城代を務める)を経由して厩橋(上野国群馬郡)の地へ向かって後詰するように申し付けられていたにもかかわらず、塀を隔てて和田川に陣取らなければならなかったので、出馬が遅れてしまったところに、敵が敗走したのは遺憾であること、決して(佐野を)軽んじたわけではないこと、一、是非とも東口における御計略の進展具合を承りたいこと、一、(佐野と)簗中(輝虎に属する下総国関宿の簗田中務大輔晴助)が交換していたを証人を引き取ったそうで、兼約通りであるのかどうかを承りたく、これもまた、(簗田晴助との)交誼が維持されるように、(天徳寺宝衍には)尽力してもらいたいこと、一、近衛殿(関白近衛前久)が厩橋に引き取られたのは、どのような成り行きであるのかを承りたく、このうえは、来るべき戦陣に極まること、こちらでもその準備を進めるので、(佐野には)東口の味方中への手回しをしてもらいたいこと、一、赤文(赤井文六。もとは上野国館林城主)については、実に残念な結末であり、忍(成田長泰の居城。武蔵国埼玉郡)へ移られた旨を知らされたこと、その地(唐沢山城)へ引き取られるつもりなのかどうかを承りたいこと、なお、異変があれば、そのつど御注進してもらいたいこと、これらを恐れ敬って伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』746号号「天徳寺 参机下」宛北条「源三氏照」書状)。

4月2日、氏康四男の藤田乙千代(のち藤田新太郎氏邦。武蔵国花園城主)が、藤田一族の用土新左衛門尉業国(同用土城主)へ宛てて書状を発し、先月28日付の注進状が昨朔日に到着したので、つぶさに拝読したこと、憲政(山内上杉光徹)・景虎(輝虎)が越後へ帰国したのは疑いのない事実である旨を承ったこと、殊に厩橋(上野国群馬郡)の地を焼き払ってくれたので、すこぶる満足していること、よって、その地(花園城か)の修繕が計画通りに完成したようであるが、水筋の整備も忘れてはならないこと、各々の証人衆については、館沢(武蔵国秩父郡皆野)に置くのが最適であり、横地に相談して移すつもりなので、この旨を把握しておくべきこと、御嶽城(同児玉郡花園の御嶽城か)に将兵が抜かりなく詰めているのかどうか、一番の気掛かりであること、昌龍寺(同榛沢郡藤田)の周辺を敵勢が荒らし回るようであれば、適切に対処するべきこと、されば、右衛門佐(故藤田泰邦。乙千代の養父)の老母が昌龍寺に欠落したらしいが、事実であれば不可解であり、適当な場所に移されるべきこと、従って、大鉄砲と弓の注文については了解したこと、委細は三山(五郎兵衛尉綱定。乙千代の側近)が書面で伝えること、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、このたび高松衆(秩父郡高松の地衆である逸見氏)が格別な奮戦をしたようで、祝着であることと、たとえ彼の衆の活動が困難になっても、何とか当秋まで持ち堪えてくれれば、相応に扶助することを伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』752号「用土新左衛門尉殿」宛北条「乙千代」(氏邦)判物)。

同日、藤田乙千代が、山口上総守殿(武蔵国秩父郡上吉田の地衆)へ宛てて書状を発し、憲政・景虎が遁走した折、厩橋を焼き払い、取り分け横地において馬上一騎を討ち取ったこと、格別な殊勲であり、ひたすら満足していること、右衛門佐老母が昌龍寺へ欠落したそうで、不可解な事態であること(以降の故藤田泰邦の老母欠落および山口上総守一族の功績についての記述は、書写の際に一部が書き落とされてしまったらしい)、褒美として、息子の孫五郎と舎弟の大膳正に采配(大将分)を与え、大鉄砲・弓に指南書を添えて送付するので、在所の上吉田に一騎合衆を召し連れ、すばやく彼の地を相応に統治するべきこと、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編一』753号「山口上総守殿」宛北条乙千代(氏邦)判物写【署名はなく、花押のみを据える】)。



永禄5年(1562)5月 山内(越後国)上杉輝虎(弾正少弼) 【33歳】

3日、側近の河田長親(豊前守。大身の旗本衆)が、越後国見附(古志郡)の椿沢寺へ宛てて証状を発し、このたび上様(輝虎)の御判形の筋目に任せ、御寺領の守護不入を認める旨を申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』316号「椿沢寺 参」宛「河田長親」安堵状)。

5日、上野国厩橋城代の北条高広(丹後守。譜代衆)が、厩橋領内の善勝寺へ宛てて証状を発し、寺中の諸役免除について、しきりに懇願しているため、その儀に任せること、されば、毎月の祈念として千日観音経を絶え間なく読誦に励むべきこと、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』318号「善勝寺」宛「北条高広」安堵状)。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、5月8日、西上野先方衆の浦野中務少輔(上野国大戸城主)へ宛てて返書を発し、去る2日に味方に転じられ、権田(上野国群馬郡)に火を放ったのは、まさに並外れた忠節であること、こちらは今日、室田(同前)に火を放ち、長野三河入道をはじめとして八十余名の大身の者共を討ち取ったこと、どうか安心してほしいこと、なお、(浦野中務少輔からの)条目の返答については甘利(左衛門尉昌忠。譜代家老衆)が詳しく書面で伝えるので、要略したこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』781号「浦野中務少輔殿」宛武田「信玄」書状)。

17日、同じく鎌原宮内少輔(上野国鎌原城主)へ宛てて書状を発し、このたび其方(鎌原宮内少輔)の呼び掛けに応じ、浦中(浦野中務少輔。上野国大戸城主)が忠節を励んでくれたので、感じ入っていること、こちらは敵地(上野国)の麦作を刈り尽くし、味方中の和田(群馬郡の和田城)・天引(甘楽郡の天引城)・高田(同菅野荘の高田城)・高山(緑野郡の高山城)へ搬入したこと、さらには倉賀野(群馬郡)・諏訪(碓氷郡安中)・安中(同前)の苗代を薙ぎ払ったばかりか、本庄・久々宇(ともに武蔵国児玉郡)まで火を放ったこと、しばらく在陣する腹積もりではあったが、当初から今回の戦陣については、これ以上の活動は意図しておらず、取り分け民衆は農務の時期であるため、来月下旬の速やかな出張を期すること、今日は平原(信濃国佐久郡の平原城)まで帰陣したこと、その地(上野国吾妻郡三原荘の鎌原城)の番勢については、(信濃先方衆の)海野(三河守幸貞。信濃国海野城主)・祢津(宮内大輔政秀のことか。同祢津城主)・真田(弾正忠幸綱。同真田城主)の衆に申し付けたこと、先ずは初番として常田新六郎(真田家中)・小草野孫左衛門尉(祢津家中)・海野左馬允(海野家中)の上下を送り込むこと、委細は(取次の)甘利が書面で伝えること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』785号「鎌原宮内少輔殿」宛武田「信玄」書状)。

19日、浦野中務少輔へ宛てて再便となる書状を発し、このたび味方に属されたからには、その地(上野国大戸城主)へ番勢を送り込むこと、これについて其方の存分を聞かせてほしく、大井左馬允入道(道海。信濃先方衆)と原与左衛門尉(直参衆)をもって申し述べるので、十分に検討された回答を待っていること、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、遣わした酒肴を賞味してほしいことを伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』786号「浦野中務少輔殿」宛武田「信玄」書状写)。



◆『上越市史別編1上杉氏文書集一』
◆『新潟県史 資料編3 中世一』
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』

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