【史料】永禄10年2月9日付北条右衛門尉宛「景虎」宛行状写(『歴代古案 巻十七』◆『上越市史 上杉氏文書集』549号 以下は上越と略す)
本知行相添今度奉公不浅候条、為新地小串新助分并矢田両地を、新役・本役を差添進之候、軍役奉公不可有油断候、(仍如件を欠くか)
永禄十年
二月九日 景虎
北条右衛門尉殿
この宛行状の発給者は「景虎」となっており、付年号が永禄10年であることから、上杉輝虎に人物比定され、輝虎が別に用いた「旱虎」の誤写と考えられているようですが、これに疑問を覚え、実際の発給者は、越後国上杉輝虎から関東代官を任された越後衆の北条丹後守高広(安芸守。安芸入道芳林)の世子で、謙信期には父に代わって代官を任された北条弥五郎景広(丹後守)ではないかと思われることから、その根拠を示します。
受給者の北条右衛門尉親富(『戦国遺文 後北条氏編』4112号 ◆『上越』817号)は、北条毛利高広の一族で、まだ北条親富が源八郎を称していた永禄6年4月6日に惣領の北条高広から、高広の嫡男である景広に「指添」えるのに伴って知行を与えられている(『上越市史 上杉氏文書集』338号 ◆ 栗原修「厩橋北条氏の族縁関係」〔武田・織田領国下の北条氏〕)のですが、くだんの宛行状では、高広から景広の補佐役としての「奉公」を命じられているはずの親富に対し、上杉輝虎が自身への「奉公不浅」と褒めていることに違和感を覚え、発給者は別の人物ではないかと思い、謙信没後の御館の乱中に上杉三郎景虎が支持者の北条毛利一族へ与えた宛行状のうちの一つではないかと考えたりするなかで、上杉景虎が発給したとされている元亀2年8月24日付下条玄鶴宛「景虎」感状写(『白川風土記 十六』◆『上越』1062号)は、同年月日で同内容の村山惣八郎宛北条景広感状(『上越』1061号)との比較により、景広の発給文書として比定し直されていた(栗原修「厩橋北条氏の族縁関係」〔註16〕)ことを、ふと思い出して、二つの「景虎」文書写が重なり合いました。
永禄10年2月といえば、前年末に高広が越後国上杉家を離れて相州北条・甲州武田陣営に加わると、景広は父と袂を分かち、上野国勢多郡の棚下寄居に移って、父が拠る同国群馬郡の厩橋城と対向していた時期になりますから(栗原修「厩橋北条氏の族縁関係」〔越相同盟前の北条氏〕)、景広が親富の忠信に報いて発給した宛行状なのではないでしょうか(その後、なぜだか親富は高広方に転身しています)。
永禄12年に長門守を称するようになった親富(栗原修「厩橋北条氏の族縁関係」〔武田・織田領国下の北条氏〕)は、謙信期には惣領家から独立し、上杉家の部将へと転身しており(『上越』1378号)、上杉輝虎期に当たる永禄6年から同9年の間に独立・転身していた可能性もないとはいえませんが、北条高広の弟と伝わる下総守高定(助三郎。高広の上杉家離反にも従った)がやはり惣領家から独立して謙信の近臣へと転身したのは元亀2年4月から同3年9月の間である(『上越』1043・1122号)ことからすると、親富の独立・転身がこれより早いとは考えにくいのです。
というわけで、当ブログの「上杉輝虎の略譜【35】」において当該文書を引用した箇所に、上杉輝虎ではなく、北条景広が発給した宛行状の可能性があることを追記しました。
【参考文献】栗原修「厩橋北条氏の族縁関係」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配 戦国史研究叢書6』岩田書院)
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