越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

【年次改訂】永禄7年改め同10年8月24日付蔵田五郎左衛門尉宛上杉輝虎書状

2023-02-25 23:48:50 | 雑考


 越後国上杉輝虎が永禄7年秋に催した信濃国川中嶋陣の最中の8月24日に、越府の蔵田五郎左衛門尉へ宛てて発したとされている書状(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』431号 以下は『上越』と略す)ですが、新潟歴史博物館の企画展示図録『川中島の戦い ー上杉謙信と武田信玄』における前嶋敏氏の論考「謙信・信玄と「川中島の戦い」」によりますと、年次が永禄10年に改められるとのことでした。
 やはり前嶋氏の「上杉輝虎発給文書の花押とその変更」(『新潟史学』73)に付されている〔長尾景虎・上杉輝虎発給文書一覧〕には、『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』などの史料集において永禄8年に仮定されている上杉輝虎が9月18日に信・越国境の越後国頸城郡西浜地域の祢知城在番衆へ宛てた書状(『上越』474号)が永禄10年に年次比定されていまして、この書状に据えられた輝虎の花押はd型であり、蔵田へ宛てた輝虎書状もまさしくそれと一致していますから、当ブログの『上杉輝虎の略譜【23】』で引用しました当該文書を永禄10年に移します。
 また、永禄7年10月2日付堀江駿河守・岩船藤左衛門尉宛上杉輝虎書状写(『上越』436号)も同10年に改められるとのことですが、この書状には「昨日納馬候」、永禄7年7月29日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(『上越』426号)には「今日廿九、至于河中島進陣候」、同年10月20日付河上式部丞宛河田長親書状写(『上越』440号)には「至于河中島、七月以往及六十日立旗」とありまして、輝虎の川中嶋陣は、7月29日に陣を進め、10月朔日に馬を納めたわけですから、60日(8・9月の二ヶ月)にわたって旗を立てたという記述とほぼ合致していますので、このまま永禄7年に留めておきます。

【史料1】8月24日付蔵田五郎左衛門尉宛上杉輝虎書状
細々音問喜悦候、府内・春日火之用心無油断、其心懸専一候、大門・大手門、何急度可申付候、普請以下、是又堅不可油断候、当口之事、晴信塩崎迄出張候得共、無差行、徒数日送候、此上猶以不可有差義候、敵之刷、言語不似躰候、可心安候、巨細各可申遣候也、謹言、
  追而、門番以下急度可申付候、新発田尾張守小使之者共ニも、能々加意見尤候、以上、
    八月廿四日      輝虎(花押d)
      蔵田五郎左衛門尉殿

【史料2】9月18日付斎藤下野守・赤見六郎左衛門尉・小野主計助宛上杉輝虎書状
▢(信ヵ)州口目付差越敵陣所之量見届、急度注進祝着候、従爰許遣候目付▢▢▢覚同前候、自関東申越分、尾州・濃州有▢▢▢統、甲府被及調義、断而彼口動揺之由、▢▢(定而ヵ)可為実義歟校量候、重而目付然▢(与ヵ)▢(置)、甲・信之様躰并越中口之事、節々注進専▢▢(一候)、雖無申迄候、其地普請用心以下油断有▢▢(敷候)、謹言、
    九月十八日      輝虎(花押d)
      赤見六郎左衛門尉殿
      小野主計助殿
      斎藤下野守殿

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