越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【12】

2023-04-30 23:59:32 | 雑考


【史料1】天正5年9月26日付荻野悪右衛門尉宛下間頼廉書状(個人蔵)
内々従是被申度之刻、遮而貴簡、殊太刀一腰・馬一疋、被進之趣、遂披露候、一段被喜入候、誠連年籠城之儀、可有御高察候、随分中国申合、無越度様可令才覚候間、可被御心安候、先々牧雲御書中、御懇慮之至、不知所謝候、加州へハ同名侍従法橋、去二日無事令下著之由、注進候間、是又可御心安候、謙信被任御指南事候、能州之模様、属御勝手之由候間、珍重候、謙〔信脱ヵ〕御人数、至加州御加勢之儀候、就其、去十一日遂一戦、敵八百計加州へ討捕之由候、定而、貴辺不可有其穏候条、不能懇筆候、次紀州小倉監物与申者、一城計候ヲ、去廿四日令懇望、高野へ罷退、令落居候間、無残所、任存分候、此上根来寺申合、泉州へ可為出張候、芸州警固衆渡海次第、計策之方々可立色旨候間、公儀御入洛不可有程候、随而、貴国・丹波・雲・伯之儀、吉川殿(元春)御行之由、旁以目出度候、弥貴殿御一身相極御分別候、返々被思食寄御懇書、本望之至候、軈而、自是可被申入候、期後慶候、恐々謹言、
    九月廿六日                頼廉(花押)
    荻野悪右衛門尉殿
          御返報


 この【史料1】は、摂州大坂本願寺の筆頭坊官である下間頼廉が丹波国黒井の荻野直正へ宛てたもので、謙信が加賀国一向一揆への加勢として人数を遣わし、天正5年9月11日に一戦が行われ、八百ほどの敵勢を討ち取ったことが分かる。
 これについては、天正5年9月15日付北条安芸守・同丹後守宛謙信書状(『上越市史 上杉氏文書集』1387号 以下は『上越』と略す)における「七尾之凶徒、以数千人越・賀之間乗出、殊信長招出候、此度信長雖令出勢候、両越之諸勢、賀国依差使、不堪凶徒敗北、于今賀国助勢之者共差置候
」と同年9月10日付堀久太郎宛柴田修理亮・惟住五郎左衛門尉・瀧川左近允(ママ)・武藤宗右衛門尉連署書状(滋賀県 宮川文書)における「謙信人数、当国高松、越後之内七手組を為頭、人数三千計、当国之一揆を相加在之由、末森より申来候事」により、もう少し詳しい状況が分かる。
 ただし、1387号文書の謙信書状では信長とあり、確かに信長は閏7月20日の時点で来月8日の「加州出馬」を公言していたが、他方面の情勢によって出馬は叶わなかったようで、柴田勝家・惟住長秀・羽柴秀吉・瀧川一益たち織田家の有力部将による遠征軍が遣わされている。

 数千人規模の能州畠山軍が七尾城(鹿島郡)から越中・加賀両国の間の能登国末守城(羽咋郡)に移って織田軍を招き寄せ、このたびも信長が加賀国に出勢するとの情報を得た謙信が、越後衆の七手を主力とした越後・越中両衆から選んだ人数三千ほどを加勢として加賀国高松城(河北郡)へ遣わしたところ、9月11日に賀・能国境辺りで、加賀国一向一揆・両越の加勢衆と末守城を出撃した畠山軍との間で一戦が行われ、賀州衆・両越の加勢衆が畠山軍の八百ほどの人数を討ち取って勝利すると、両越の加勢衆は織田軍に備えてそのまま加賀国に在陣を命じられており、その織田軍はといえば、七尾城と連絡が取れないなかで、9月11日に加賀国宮越(石川郡)の地から攻め進むつもりでいたが、降雨による河川の増水で身動きできなった。
 この間、謙信自身は『上越市史 上杉氏文書集』1387号によれば、「馬廻」「越中手飼」の者だけを率いて能登国七尾城を昼夜にわたって激しく攻め立てている。「越中手飼」とは謙信寵臣の河田豊前守長親・鯵坂備中守長実であろうから、謙信と能州畠山家との間の取次を担っていた河田長親が七尾城攻略の前面に出たであろうことは想像に難くない。一方、織田軍と戦うことになるかもしれない、加賀国へ加勢として派遣された七手(敵方の情報なので数字が正確であるのかは分からない)からなる越後衆を率いたのは、謙信と織田信長との間の取次を担っていた直江大和守景綱ではないだろうか。

 直江景綱は、「御家中諸士略系譜」(『上杉家御年譜23 』)では天正5年3月5日に、「越後国供養帳」(高野山清浄心院蔵)では同年4月26日に死去したとされるが、同年に比定できる4月10日付吉江喜四郎宛直江大和守景綱書状写(『上越』1285号)、近年では同年の文書として扱われている7月28日付越後国上杉家宛伊達輝宗書状(『上越』1342号)に取次として見え、花ヶ前盛明氏が「上杉景勝関係人名事典」(『上杉景勝のすべて』)で言われているように同年12月23日付の分国中交名注文(『上越』1369号)に記載されているわけであるから、確かな没年とは言いがたい。
 1285号文書によれば、天正5年4月10日当時、謙信による北陸遠征中、能・越国境に在陣を命じられていた景綱には、能登国大吞口へ軍勢を独断で動かしたのではないかという越権行為が疑われており、謙信に対して弁明しなければならない事態に見舞われており、それが原因で不慮の結末を迎えた可能性もないとはいえないし、謙信直筆とされる1369号文書の「直江大和守」は次代の「直江与右兵衛尉」と書くべきところ、つい書き慣れていた大和守と書き損じてしまった可能性もないとはいえないが(事実、関東衆の倉賀野尚行の通称を左衛門五郎と書くべきところ、書き慣れていたであろう左衛門尉と誤っていたりもする)、しかし、くだんの書状の主旨は謙信が景綱に風物を調達させているもので、さほど深刻さは感じられず、却って略系譜と供養帳に誤字脱字が目立っており、何といっても、天正6年春に謙信が挙行する予定の関東大遠征では、同5年秋の能登国平定直後に同国代官を任された鯵坂備中守長実が能登衆を率いるのではなく、能州畠山家出身で謙信一家の上条弥五郎政繁が率いることが決まっており、それを補佐監視する立場に配されているのが「直江大和守」となると、その難役が務まるのは景綱をおいて他にあるまい。


※ 天正4年に仮定されている4月10日付吉江喜四郎直江景綱書状写を天正5年に比定した理由は、『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【9】に補足した。

https://blog.goo.ne.jp/komatsu_k_/e/309cc4414ad3c7c2f954bb114037539a


【史料2】天正5年10月11日付雑賀惣国一揆宛下間頼廉書状(和歌山県 浄土真宗本願寺派鷺森別院文書)
  以上、
態被差下飛脚候、松永(久秀・久通)色立付而、泉州表可有出張之由、先度申下候畢、然処、去夜十日亥刻、信長不慮之調略候て、落城候、絶言語候、然者、当表へ手遣之由、慥注進候間、鉄炮衆三百人可有早参候、時分柄之儀、又者毎度之造作、雖被痛思食候、既敵競来之由候間、被排御印判被仰出事候、無由〔油〕断可有馳参事、肝要候、次信貴之儀付而、相残所無越度様ニ、早々警固可有渡海之由、追々毛利家へ以早船被成御催促候事候、将亦、加州表之儀、能州七尾城就一著、敵敗北之由、御注進状本文一通、案文両通、則差下候、可被遂披見候、猶宮一兵(宮部一兵衛尉)可為演説候、恐々謹言、
    十月十一日                頼廉(花押)
   雑賀
    御坊惣中


  この【史料2】は、やはり下間頼廉が紀州の雑賀衆へ宛てたもので、「加州表」の上杉・織田の競合は、「能州七尾城」が落居し、大坂・雑賀にとっても共通の敵である織田勢が敗北したという情報が伝えられている。
 天正5年9月29日付けで関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子へ宛てられたであろう謙信書状写(『上越97』1349号)から、織田勢の敗北を見てみると、謙信は、9月15日に能州七尾城を思うがままに手中に収め、同17日に賀・能国境に位置する能州末守城も手中に収めて一家の山浦(村上)源五国清と重臣の斎藤下野守朝信に守らせ、能登国の形勢を一変させた。この状況を全く知らない織田軍が同18日に賀州湊川(手取川)を越えて数万騎が陣取ったという情報を得て、両越・能州の軍勢を先衆として遣わし、続いて自らも「直馬」に及んだところ、織田軍は謙信の「後詰」を知ってか知らずか、同23日の夜中に戦わずして遁走したので、勢い込んで千余人を討ち取り、残る軍勢を悉く川中へ追い込むと、折からの増水によって立つ瀬がない人馬は残らず押し流された。というようなものであり、こうして織田軍を退けた謙信は、誠にこのような万全な果報を受け、長年にわたって神仏の加護を信じ敬った祈りが通じたと歓喜している。
 続く「重而信長 (可ィ)打出候間」は「可」が付かないのか、それとも付くのかで解釈は変わってしまうが、前者であるならば、先の9月15日付謙信書状の「此度モ信長雖令出勢候」に懸り、今回もまた信長が打ち出してきたので、「一際(一戦ヵ)可有之令校量候処、安(案)外手弱之様体」(いよいよはっきりさせるべき時がきた(一戦になるはずヵ)と推量したところ、予想に反して信長は逃げ去ってしまう有様であった)、「此分ニ候ハ丶、向後天下迄之仕合心安候、」(この分であれば、これから先の天下までの道程は容易い)といったように、今後の見通しが明るいことへの手応えを感じて誇らしげではあるが、対決には至らなかった追撃戦での勝利についての物足りなさを表したものとなろうし、
後者であるならば、態勢を立て直した信長が打ち出してくるようなので、いよいよ決着をつけるべき時がきた(一戦になるはずヵ)と推量したところ、予想に反して信長は逃げ去ってしまう有様で、この分であれば、天下までの道程は容易いと、一度は失われてしまった対決の機会がまた巡ってきたので、湧き上がったところが、結局また機会は失われてしまったので、前途への手応えを得て意気揚々である反面、追撃戦後に行われるかもしれなかった対決が立ち消えとなったことへの物足りなさを表したものとなろう。もっと言えば、さすがに謙信も実際には信長が来ていないのは分かっていたであろうから、わざわざその名を書いたあたり、信長が逃げ去ったと触れ回るためではあろうが、直接対決ができなかった歯痒さが入り混じっているように思えてならない。
 いずれにしても、手取川の追撃戦直後に両軍は一戦を交えていたかもしれないという可能性があり、
9月24日付河田窓隣軒・岩船藤左衛門尉宛謙信書状写(『上越』1452号)によれば、北陸遠征中の謙信が、最前線の城砦に置いて敵勢と対向させている旗本部将の河田窓隣軒喜楽・岩船藤左衛門尉に対し、敵が一戦するべきと申しているのだとしたら、これこそ「願事」であるから、とにかく敵に戦う気があるのかないのか、意思をしっかりと確認し、敵が戦うというのであれば、相手の希望する日取りを聞いて寄越すように、と指示を送っているので、これより前、謙信は能登国へ向かっていた最中の閏7月8日に、越中国魚津城から飛州高原の江馬輝盛へ宛てて発した書状(『上越』1344号)において、信長が加賀国に出張すると触れ回っており、累年の望みを遂げられるのは今この時であるから、必ず「実否」を明らかにする覚悟を伝えていたことからしても、謙信がここで織田軍との一戦を待望していたことは確かであろう。


※ 9月24日付謙信書状写は、『上杉家御書集成1』において、謙信の越中出陣から天正4、5年のものとみられるが特定できない、とされているもので、4年の謙信は、9月に越中国を平定したあと、能登国を攻める11月までの間、この春に和睦して指揮下に加えた加賀国一向一揆の内紛を収めるために仲介の労をとっていたりしているので、日付からしても、発給年次は5年と考えられる。


◆『加能史料 戦国16』(加能史料編纂委員会編)332頁 堀秀政宛柴田勝家・惟住長秀・瀧川一益・武藤舜秀連署書状、340頁 雑賀御坊惣中宛下間頼廉書状、荻野直正宛下間頼廉書状
◆『上越市史叢書6 上杉家御書集成1』(上越市史編纂委員会編)8号 河田窓隣軒・
岩船藤左衛門尉宛上杉謙信書状写
◆『上杉家御年譜23 御家中諸士略系譜 上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜(1)』(米沢温故会編)
◆ 山本隆志・皆川義孝【史料紹介】高野山清浄心院蔵「越後国供養帳」(『上越市史研究 第9号』上越市史専門委員会)
◆『新修七尾市史14 通史編1 原始・古代・中世』(七尾市史編纂専門委員会編)「中世  第三章  戦国の動乱と大名領国  第五節  能登畠山氏の滅亡と上杉氏の支配」
◆ 柴 裕之「織田・上杉開戦への過程と展開  ーその政治要因と追究ー」(『戦国史研究 第79号』戦国史研究会)
◆ 竹間芳明「本願寺・加賀一向一揆と上杉謙信  ー敵対から和談・提携への道程ー」(『戦国史研究 第79号』戦国史研究会)
◆ 竹間芳明『戦国時代と一向一揆』(日本史史料研究会ブックス)
◆ 花ヶ前盛明編『上杉景勝のすべて』(新人物往来社)

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