【史料】年次未詳4月3日付丹後国侍中宛織田信長朱印状写(武家聞伝記)
此度謙信能州面出陣之由、其聞候、不日令進発可討果候、以海陸之間、其地之舟越前三国之浦令入津候、尤馳走此時候也、
四月三日 信長公御朱印
丹後国侍中
織田信長から丹後国侍中に対し、謙信が能州表に出陣したとの情報が耳に入ったので、速やかに彼の表へ進発して討ち果たすつもりであることが伝えられたものであり、能州方面に謙信が向かった時期となると、天正4年の11月と翌5年の9月なので、発給年次の特定が難しい。
天正5年2月中に謙信は能登国石動山城に在番衆を残して越中国内に本陣を移しているわけで、謙信が再び敵方の本拠である七尾城を攻める気配があったのだろうか。
それから、3月下旬に謙信が石動山城の在番衆からの増援要請を受けて、彼の地へ人数を向かわせた時の様子か、4月上旬に前線の直江景綱が独断で能州大吞口へ軍勢を動かしたのではないかと、謙信から誤解を受けた時の様子が、敵方に謙信の出馬と捉えられて情報が流れたという可能性もあるのだろうし、ただ単に日付が誤写された可能性もあるのだろう。
◆ 『岡山のアーカイブズ 5 ~記録資料館活動成果資料集~』(岡山県立記録資料館編)
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