越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【元亀2年5月〜同年8月】

2024-03-09 19:39:50 | 上杉輝虎の年代記

元亀2年(1571)5月6月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


5月2日、旗本部将の大石惣介芳綱と、上田衆(甥である上田長尾喜平次顕景の同名・同心・被官集団)を率いる栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、信玄の出張が延引するようであれば、早々に浅貝(信・越国境の越後国魚沼郡)へ上田衆を召し連れて向かい、寄居を取り立てるのが相当であること、さりながら、例の通り、人目を避けての手立てなので、人数は一騎一人も帰してはならないこと、当府まで注進していたら遅くなるので、信玄出張と聞き届けたならば、(上野国沼田城へ)加勢に向かうのが肝心であること、この件は河田伯耆守(重親。沼田城の城将)にも、(大石芳綱・栗林房頼から)知らせておくべきこと、以上、これらを申し伝えた。さらに追伸として、(味方に属すことになった)山鳥原(上野国群馬郡。上杉領の厩橋と武田領の倉賀野・和田の三角地帯の真ん中あたりに位置する境目の地)の者共が、(甲州武田家へ証人として差し出した)妻子を受け取りたいと言っているのであれば、厩橋へ(話を通すのは)無用であること、伯耆守(河田重親)に申し付け、(武田側と)話をまとめられ、(証人を)受け取らせるべきこと、(河田重親に)もしも手筋がないのであれば、惣介・小中彦兵衛尉(実名は清職か。謙信旗本)と相談し合って、(証人を)受け取らせるべきこと、万が一にも使いの者をあなた(彼方。敵方)へ連行されでもしたならば、痛ましい事態となるため、二郎左衛門尉の請け乞い(証人を引き取るための交渉)をもって、かのもの(栗林の手の者)壱人をこなか(小中)の者に差し添え、油断なく申し付けるべきこと、たれ(誰)にても無分別に敵から返事(拒否回答)が来たならば、妻子を差し出した(山鳥原の)者たちは上田(越後国魚沼郡の坂戸城)へ招き寄せ、浅かい(浅貝)には置いてはならないこと、偏った取り計らいは、どうにも危ぶまれること、これも二郎さえもんの請け乞い(山鳥原の者を納得させて上田へ移ってもらうための交渉)にて、うまく事が運ぶであろうこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1047号「大石惣介殿・栗林ニ郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。


当文書の解釈については、大貫茂紀氏の論集である『戦国期境目の研究 大名・領主・住人』(高志書院)の「第四章 越後国上田衆栗林氏と上杉氏権力 一 栗林氏の活動 (2)境目における栗林氏の活動」を参考にした。


16日、譜代の重臣である斎藤朝信(下野守。越後国刈羽郡の赤田城を本拠とする)が、領内の菊尾寺別当の分春へ宛てて証状を発し、菊尾寺のことは、まず別当の庇護に任せる旨を申し付けること、寺社役を無沙汰するにおいては、その意を汲むこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1048号「菊尾寺 分春へ」宛斎藤「朝信」判物)。


20日、上野国沼田(倉内)城の城将を任せている河田伯耆守重親へ宛てて書状を発し、わざわざ音信として樽肴をならびに脇差が到来し、めでたく祝着であること、なお、万事めでたく片が付いたあかつきには、重ねて申し越すつもりであること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、先衆は間違いなくその地(沼田城)へ打ち着くこと、諸軍すべてに、以前から触れ立てておいたので、諸衆も近日中に越山すること、身(謙信)の事も、明後日に当地春日山(越府)を打ち立ち、松山(越後国頸城郡松山保)を通り、昼夜兼行で塩沢(同魚沼郡上田荘)へ着馬するつもりであること、このたびは諸勢が連なって進むので、越山は瞬く間であること、安心してほしいこと、この旨を厩橋(上野国厩橋城の北条丹後守高広)へも申し越すべきこと、また、其許(河田重親)より目付を差し越し、(目付から)敵の様子を正確に聞き届けて、注進するのが第一であること、其方に限らず、その地の城衆が頼りであり、目付を差し越しては差し越し、敵の様子の実態を聞き届けて注進するべきように、(目付へ)申し付けるべきこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1049号「河田伯耆守殿」宛上杉「謙信」書状写)。


この頃に浅貝寄居が完成する。


28日、上田衆を率いる栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、沼田の加勢として、そのまま詰めると、浅貝の寄居の普請を成就させ、ことさら軍役のほかに五十余人の足軽を置いているとのこと、喜平次の者共(上田衆)には毎時の辛労をかけており、感じ入っていること、この旨を傍輩共に申し聞かせるべきこと、これらを畏んで伝えた。さらに追伸として、彼の地の城衆は例によって我儘に振る舞い、用心を怠り、凶事でも起こったならば、敵味方にあげつらわれるのは口惜しいこと、きつく(用心を)申し付けるべきこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1050号「栗林ニ郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。


この書状の内容からすると、謙信自身が関東越山した様子は窺えず、5月22日に出府したとしても、何らかの理由により、関東へ出ることはなく、途中で引き返したのではないか。いずれにしても、この間に、かつての越中国味方中で、甲州武田信玄と手を結んで敵対している越中国松倉(金山)の椎名右衛門大夫康胤との和睦交渉が行われているので、こうした動きが関係しているのかもしれない。


5月24日、椎名側の交渉人である「悳信」から、「左川」某へ宛てて書状が発せられ、越府と(椎名)康胤の和親の件について、再び貴札に預かり、本望の極みであること、最前より申し入れている通り、彼の表に対し、まったく疎んじる気持ちはないこと、神前孫兵衛尉・薗 新左衛門尉(椎名康胤の側近)の手腕に、越国(越後国上杉家)は疑心が拭い去れないそうであり、これにより、両人に利己心がないところを、誓詞をもって申し出でる場合は、以徳軒が御演説する旨、尊意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『富山県史 史料編Ⅱ』1740号「左川殿 参尊報」宛「悳信」書状写)。


椎名側の「悳信」を、『富山県史 通史編2 中世』の「第四章 戦国時代の越中 第二節 神保・椎名の角逐と上杉氏の越中進攻 三、謙信と一向一揆 上杉と椎名」では、史料の内容から推測すれば、椎名康胤に近い人物で、神前などよりも身分的に高貴な人物と推測される、として永禄7年9月16日に、椎名徳翁以来の祈願所であった小佐味万松寺に寺領を安堵している椎名源太憲信がおり、「悳」は「徳」であるから、「悳信」は徳翁、憲信に近い人物であろうと記しているが、「悳信」は「憲信」の誤記で、椎名憲信その人という可能性もあろう。

上杉側の「左川」は、上杉家の外交に関与するような有力者に「左川」という人物はおらず、こちらも誤記であると思われ、永禄12年から越中国代官を任されている河田豊前守長親、同年に上杉と椎名の間で和睦交渉が行われた際に交渉役を任された村上兵部少輔義清といった人物が考えられよう。


この和睦が一時的にでも成立したのかは分からない。



この間、甲州武田信玄(法性院)は、先月から今月にかけて、謙信が上野国の武田領内に攻め入って来るとの情報を得て、自ら出馬したが、実際には謙信は関東へ出てこなかったので、武蔵国の北条領へ攻め込むと、戦陣は翌月まで続き、6月12日、武蔵国の甘棠院(埼玉郡)に高札を立て、当手甲乙の軍勢の彼の寺中における濫妨狼藉については、一切を停められたこと、もしこれに背く者がいれば、厳科に処されるべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編二』1722号 武田家高札【奉者「土屋右衛門尉」昌続】)。

その後、間もなくして帰陣したようであり、18日、同盟関係にある常州太田の佐竹義重(次郎)へ宛てて書状を発し、去月2日付の書札、殊に目録表を給わったのは、過分の極みであること、その時分には、謙信が我等(信玄)の領分に出馬してきたと、領内境目から注進が届き、我等もその時分に出陣したにより、右の御報が延引してしまった旨を、このたびの帰陣により、御礼を申し述べること、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1556号「佐竹殿」宛武田「信玄」書状写)。


※ 当文書を『戦国遺文 武田氏編二』は元亀元年に置いているが、書中には「謙信」と記されており、輝虎から謙信の変わり目は8月から9月の間であること、元亀3年5月の加賀・越中両国一向一揆が越中国東部への進撃し、謙信が武田領へ出馬できる状況ではなかったこと、元亀4年(天正元年)4月に信玄は死去したこと、これらの理由から、いずれも除外できるため、当年の発給文書と考えた。



元亀2年(1571)7月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


7月29日、外様衆(揚北衆)の鮎川孫次郎盛長(越後国瀬波(岩船)郡の大場沢城を本拠とする。同族である本庄弥次郎繁長(雨順斎全長)が蟄居している猿沢城の監視のため、庄厳城に在番中)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、其方(鮎川盛長)の家中の証人を、吉江織部佑(景資。謙信の側近)に預け置いたところ、このうちの須河原証人(菅原太郎左衛門尉の息子であろう)が、織部佑の召し使う佐山という者の妻と密会していたのが歴然となったこと、残りの証人共が見聞して届け出たこと、そうは言っても、元来より其方は忠信を存続しているわけで、(証人が)たとえどのような大罪を犯したとしても、其方に免じるほかなく、色部弥三郎(顕長。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城を本拠とする。鮎川とは同族関係にある)に、彼の須河原の子を預け置いたこと、(菅原の子息は)馬鹿者なので、このうえ万が一にも欠落でもしてしまったならば、色部の方が、そうなっては困ると言っているので、吾分かた(鮎川)へ召し帰すのが相当であろうこと、そのため、一翰に及んだこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、あのような三ヶ条を申し述べたのは、(鮎川の)忠信に免じて助け置いたところを、よくよく其方は存じ忘れず、ますます忠信を励むのが肝心であること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1447号「鮎川孫二郎殿」宛上杉「謙信」書状【花押a】)。


※ 当文書は年次未詳とされているが、やはり鮎川家中の証人である菅原子息の不儀密通の件に触れている年次未詳6月27日付鮎川盛長宛謙信書状写(1439号)には、この件が「菅原兄之子去年徒を申候…」と昨年の出来事であることと、当該期に謙信が「大途之弓箭」を控えていたことが書かれており、「大途之弓箭」とは、甲州武田信玄と連帯する加賀・越中国の両一向一揆ならびに椎名康胤・神保長城の越中国東・西に分立する勢力の大攻勢を受け、謙信が総力を挙げて対決に臨もうとしていた状況であろうから、1439号の年次は元亀3年に比定できるため、菅原証人の不儀密通は元亀2年と考えられる。

謙信は、この7月に相州北条軍と共同で甲州武田軍と戦う予定であったはずだが、関東あるいは信州へ出馬した様子はない。2月の本庄繁長を巡る騒動では、鮎川盛長が本庄に手出しした軽挙妄動への忌々しい思いを露わにしていた謙信が、ことさら鮎川の忠信を理由に証人の過ちを不問に付して、彼の者を鮎川の許に帰したのは、8月に謙信が色部顕長の忠義に報い、顕長の望み通りに、今後は本庄の席次を下回らない約束をしていることからしても、7月に今度は本庄に非のある騒動が起こったのではないだろうか。


この前後に、友好関係にある織田信長へ音信を通じ、見せたい鷹があるので、鷹師を寄越すように伝えた。


この間、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)は、甲州武田軍の侵攻に備え、7月16日、準一家衆の玉縄北条左衛門大夫綱成(相模国東郡の玉縄領を管轄する)へ宛てて書状を発し、彦六(氏政側近の石巻康敬)の所へ届いた15日の一札を、今16日辰刻(御前8時前後)に披読したこと、返答を失念していたわけではないこと、よって、去る朔日に四郎人衆(相州北条家の一家衆である北条氏光が率いる小机衆)・其方人衆(北条綱成が率いる玉縄衆)は足柄(相模国西郡)へ駆け付け、5日に罷り帰ったこと、そうであれば、4日間は番に全力を注いだわけであること、また、大藤(式部丞政信。諸足軽衆の筆頭)は一日、番替えが遅くなり、先番を務めたこと、合わせて五日間に当番が延びたので、来る21日に人衆を立てられ、22日に置き替えるのが適当であること、従って、足柄の敷地は広大であるため、其方(北条綱成)の人衆では不足であるのは、仕方がないこと、我々も心底では深くその程度と見積もってはいても、どう考えても人衆の引き継ぎはないので、どうにもしようがない無衆(人手不足)が積りに積もっていること、第二には小田原に程近いので、小旗先を見たら、片時のうちに小田原からは駆け付ける覚悟であるゆえ、無衆が積もったままにしていること、いずれにしても敵味方の御戦陣の機会であるので、何としても人衆を増やすつもりであること、とにかく放生会(8月15日)までには、諸卒を小田原へ集める覚悟であること、委細と愚意は重ねて申し述べるつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1495号「左衛門大夫殿」宛北条「氏政」書状)。


15日、北条氏政の兄弟衆である北条氏規(助五郎。相模国三浦郡の三崎領を管轄する)の三崎衆に属し、氏規の側近でもある朝比奈甚内泰寄が、同じく三崎衆の山本信濃入道(俗名は家次。伊豆海賊衆の船頭)・同新七郎(実名は正次と伝わる。信濃入道の次男)へ宛てて書状を発し、(山本父子から)取り急ぎ飛脚を遣わされたこと、とりもなおさず(氏規へ)披露したこと、よって、このたびの御奮闘の事実については、類い稀ななされようなど、前代未聞の戦功であり、 殿様(氏規)の方から、この段をつぶさに仰せ下されるべきであるが、(氏規は)御城(小田原城)にしばらく居られるから、少しの御隙もないので、この趣は我々の方から詳細を申し届けるようにとの(氏規の)御意であること、なお、これからの次第については、海上での戦いにおける采配の全てを(山本)父子へ任せられるつもりであると、揺るぎない(氏規の)御意であること、我等(朝比奈泰寄)も満足そのものであること、ますますの御奔走が肝心であること、 御本城様(北条氏康)の煩いが急変する状況ではなく、とにかく昼夜にわたって御詰めなされているので、御支障はないこと、拙者(朝比奈)も韮山(伊豆国韮山城)の番を仰せ付けられていること、御用があり、一昨日に此方(相模国三崎城)へ罷り越したこと、明後日に(韮山城へ)罷り越すこと、重ねて御用があるならば、六大夫(朝比奈泰之)に仰せ渡されるべきこと、何事も近内の口上に申し含めるので、早々に申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』4059号「山信・同新 御報」宛「朝甚 泰寄」書状 ●『戦国人名辞典』山本家次の項)。


27日、同じく兄弟衆である藤田氏邦(新太郎。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)が、鉢形衆の山口物主・上吉田村の一騎衆・その外の衆中へ宛てて感状を発し、このたび日尾(武蔵国秩父郡)より野伏に触れを出したところに、いずれも罷り出で奮闘したそうであり、諏方部主水助が申し越したこと、意義深いこと、帰城してから褒美を与えるものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1496号「山口物主 上吉田壱騎衆 其外衆中」宛北条氏邦感状)。




元亀2年(1571)8月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


6日、外様衆(揚北衆)の色部弥三郎顕長(越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城を本拠とする)へ宛てて証状を発し、本庄弥次郎(繁長)が先年に逆心した折に、同名の縁故を差し捨て、父の修理進(勝長)以来、其方(色部顕長)の代においても、並びない忠義で愚老の手前を守っていること、これにより、望みに任せて、今後においては、本庄弥二郎座敷(席次)より下位には置いたりはしないものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1058号「色部弥三郎殿」宛上杉「謙信」書状)。


15日、代官の蔵田秀家が、越後国蒲原郡小吉条東嶋の中使である関根 某へ宛てて書状を発し、当年は日照り続きについて、様々に御嘆願されたこと、(謙信が)御承知されたのに伴い、六貫文の所の用捨が決まったので、安心してほしいこと、そのために一札をもって申し遣わすこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『白根市史 巻一 古代・中世・近世史料』168~169頁)。


こうしたなか、先月には、越後国奥郡や越府で起こった騒動の処理に追われて関東へ出馬できなかった謙信ではあるが、8月下旬に、甲州武田軍の脅威にさらされていたはずの相州北条氏政が下総国へ出馬する一方、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国厩橋城の城代)の世子である北条弥五郎景広が信州口から退却する上杉軍の殿を務めていることからして、謙信自身は関東へ出馬した様子は窺えないが、養子の上杉景虎が当年10月3日に謙信側近である山吉孫次郎豊守へ宛てた書状(『上越市史 上杉氏文書集一』1066号)によると、明らかに景虎は越府の謙信とは距離を遠く隔てた場所に居るので、謙信は景虎を早くから関東へ先行させていたようであり、景虎に預けた数手の越後衆と
北条高広・同景広父子が率いる関東衆を上野国西部の武田領へ攻め込ませたものと思われる。それを知った氏政は、昨年より下総国佐倉の千葉胤富から救援を求められていたので、それに応じる好機と捉えて下総へ向かったのであろう。


24日、北条高広の世子である北条弥五郎景広が、配下の村山惣八郎に感状を与え、このたび信州口において、(北条景広が)しんかり(殿)に及んだところに、馬廻として付き従ったのは、類い稀な振る舞いであったこと、今後もその嗜みに及ぶべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1061号「村山惣八郎とのへ」宛北条「景広」感状)。

同日、同じく北条景広が、やはり配下の下条玄鶴に感状を与え、このたび信州口において、しんかりに及んだところに、馬廻として付き従ったのは、類い稀な振る舞いであったこと、今後もその嗜みに及ぶべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1062号「下条玄鶴とのへ」宛北条「景広」感状写)。



この間、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)は、房州里見軍の攻勢に苦しんでいる味方中の下総国佐倉の千葉胤富(千葉介)を助けるため、まず上総国へ海賊衆を攻め込ませ、続いて自身も下総国へ向けて出馬する。

8月17日、北条氏政の兄弟衆で、伊豆国韮山城に在番中の北条氏規(助五郎)が、三崎衆の山本新七郎(実名は正次と伝わる。伊豆海賊衆の船頭である山本信濃守家次の次男)へ宛てて書状を発し、注進状を披読したこと、よって、向地(上総国。新七郎は父やほかの海賊衆たちと共に、別動隊として上総国へ侵攻したので、韮山城には入らなかった)へ攻め入り、高名を挙げたのは類い稀であること、ますます奮闘するべきこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』4022号「山本新七郎殿」宛北条「氏規」書状)。


28日、千葉胤富が、重臣(下総国森山城の城将を任されている海上蔵人・石毛大和守であろう)へ宛てて書状を発し、(北条)氏政が今日、江戸(武蔵国豊嶋郡の江戸城)へ打ち着かれたそうであり、ただ今、書状をもって申し越されたので、時日を移さず、明るいうちに御馬を出されるつもりであるとのこと、その地(下総国香取郡の森山城)は一円に浮衆(予備部隊)の者ばかりを、小見川(下総国香取郡の小見川城)とその地(森山城)に差し置き、(本隊は)払って、明後朔日に菱田まで、必ず必ず出立されるべきこと、このたびはその地(森山)と小見川の用心の必要はないので、各々がそれを心得て罷り立つべきこと、敵を根切りにされるつもりであるので、かかる吉事は間違いなく、本望であること、浮衆立てをして出立しないと申す者がいるのだとしたら、よくよく申し付けられるべきこと、(海上)蔵人はまずまず無用であること(海上蔵人は浮衆と残れということか)、重ねて一報次第によって出立されるべきこと、これらを謹んで申し伝えている。さらに追伸として、そなた(其方)より伝馬の件については、無用であると、嶋田図書に通告されておくべきこと、そしてまた、東徳寺と薬師堂の伝馬を催促し、(嶋田)図書を召し連れて参るべきこと、彼のニ疋の伝馬は用意すること、兵糧を上せるべき分は、兵庫助に道理を説かれるべきこと、以上、これらを申し添えている(『戦国遺文 房総編二』1393号 千葉「胤富」書状)。



一方、下総国関宿城への移座を図る安房国那古寺御所の足利藤政は、8月7日、常陸国太田の佐竹義重(次郎)へ宛てて書状を発し、去る春(正確には初夏の4月である)は、使節をもって申し遣わしたところ、懇切に言上してくれて、悦に入ったこと、御帰座の件については、ともあれ(佐竹義重に)任せられるにより、事がうまく運ぶように絶え間なく手段を講じて精励されるならば、いよいよ感悦であること、なお、(詳細は)簗田八郎(持助)が申し届けること、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1433号「佐竹次郎殿」宛足利「藤政」書状)。

同日、足利藤政は、佐竹義重の側近である岡本梅紅斎(禅哲)へ宛てて書状を発し、去る春は、使節をもって申し遣わしたところ、懇切に言上してくれて、悦に入ったこと、御帰座の件については、ともあれ(佐竹に)任せられるにより、事がうまく運ぶように絶え間なく手段を講じて精励されるならば、ますます感悦であること、なお、詳細は簗田八郎が申し届けること、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1434号「梅紅」宛足利藤政書状写【署名はなく、花押のみを据える】)。


同じく、甲州武田信玄(法性院)は、16日、佐竹義重へ宛てて書状を発し、(佐竹が)図らずも御出陣し、殊に敵とは甚近である様子を、梶原(政景)が申し越されたこと、とにかく御心配であること、すでに火急の攻勢に出られたところを、遼遠の境により、知らなかったゆえ、はじめて申し述べること、誠に本意ではなかったこと、万が一にも関東のうちで蘆名(奥州会津の蘆名止々斎・盛興父子)へ一味する者が、(佐竹)領中へ攻め入るようであれば、御指図通りに後詰めの備えに及ぶつもりであること、当方の事情については、ただ今は向かう敵もなく、隣国は指揮に服していること、御安心してほしいこと、なお、御報次第により、その旨を承知すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1735号「佐竹殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』(富山県)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)

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