元亀2年(1571)9月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】
〔謙信、徳川家康と親交を深める〕
9月5日、同盟関係にある三州徳川家康(三河守。遠江国敷知郡の浜松城に本拠を置いている)と親交を深めるために使者を派遣した。
9月5日、三州徳川家の家老である石川日向守家成へ宛てて書状を発し、一翰に及んだ意趣は、昨年以後に権現堂(叶坊光幡)をもって、色々と(徳川)家康と交わした入魂の旨は真実であること、愚老(謙信)においても太慶であること、このところを申し届け、唯一無二に(家康と)申し合わせる心中に余念がないこと、よくよく彼の口上を御聞き届けなされて、(そのうえで取り次ぎを)頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1063号「石川日向守殿」宛上杉「謙信」書状写)。
9月5日、越後国上杉家と三州徳川家との間の上杉家側の取次を任されている信濃衆の村上源五国清(妻は謙信養女で、実父は越前国朝倉義景と伝わる)が、松平左近允真乗へ宛てて書状を発し、これまで申し交わしてこなかったとはいえ、(今より)申し上げること、よって、当府から御音信に及ばれるのに当たり、細大漏らさず伝えるための使僧を差し添えたこと、今後は格別に貴国と当方の入魂を、御甚深とするために万端を御同心してもらえるように、御取り成しを仰ぐところであること、それからまた、爰許においては拙夫へ必要な用件を仰せ下さってほしいこと、疎意にはしないこと、委細はなお後音を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』1064号「松平左近将監殿(左近允の誤写)」宛「村上源五国清」書状写)。
これを受けて、月は不明であるが、冬中に謙信の許へ徳川家康から使僧の権現堂叶坊光幡が派遣されることになる(『上越市史 上杉氏文書集一』1085号)。
〔謙信、織田信長から、稀有の鴘鷹を譲られたことへの謝意を示されるとともに、畿内に異状はないことを伝えられる〕
9月25日、友好関係にある濃(尾)州織田信長(弾正忠)から書状が発せられ、(謙信が)換羽した鴘鷹(生後二歳の若鷹)を御随身(所持)しているにより、見せ給う(くれるという意味らしい)との御内意の旨に任せ、鷹師を差し下したこと、即時に一覧を遂げたこと、誠に稀有の次第で有り、目を驚かせたこと、大事に飼育し、寵愛しており、まったくほかの(鷹)とは比べ物にならないこと、迅速に使者をもって御礼を申し述べなければならなかったところ、上意の趣について、先月中旬に上洛したこと、畿内の状況に異変はないので、この一両日以前に納馬する次第であること、これにより、御礼が延引してしまったにより、まずは一翰を染め、飛脚をもって申し届けること、いつもながら御懇情の極みであり、感謝してもしきれないこと、かならずや追って使者を向かわせるつもりであること、なお、その時節を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1065号「上杉弾正少弼殿 進覧之候」宛織田「信長」書状)。
謙信は若鷹を見せたいとして、信長へ連絡を入れたにもかかわらず、結局のところ信長は若鷹を手に入れており、このあたりよく分からないが、謙信は譲るつもりで連絡したということなのだろう。
この間、同盟関係にある相州北条陣営では、相州北条氏政(左京大夫)が、昨年来、房州里見軍の攻勢を受けて苦境に立たされている他国衆の千葉胤富(下総国印旛郡の佐倉城を本拠とする下総国衆)を助けるために出馬しており、9月2日、千葉郡の濱村の地に禁制(同地の本行寺に伝わる)を掲げ、右の地における当手軍勢甲乙人等の濫暴狼藉を堅く停止すること、もしも違犯の輩がいれば、速やかに搦め捕り披露を遂げるべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1509号宛 北条家禁制 奉者「遠山」政景)。
相州北条軍は遅くとも9月8日には撤退している。
同じ頃、氏政兄弟衆の藤田氏邦(新太郎)の本拠である武蔵国鉢形領(男衾郡)へ甲州武田軍が侵攻しており、9月15日、相州北条氏政が、氏邦の重臣で、在地の吉田和泉守政重へ宛てて感状を発し、このたび(甲州武田)信玄が出張した折に、遠物見として罷り出ると、榛沢(榛沢郡)の地において敵一人を討ち取ったこと、類い稀な高名であること、ますます粉骨を励むべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1510号「吉田和泉守殿」宛北条氏政感状【署名はなく、花押のみを据える】 懸紙ウワ書「吉田和泉守殿」●『戦国人名辞典』吉田政重の項)。
9月15日、藤田氏邦が、在地の鉢形衆である吉橋大膳亮へ宛てて感状を発し、このたび信玄が出張した折に、遠物見として罷り出ると、榛沢の地において敵一人を討ち取ったこと、類い稀な高名であること、ますます粉骨を励むべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1511号「吉橋大膳亮殿」宛藤田氏邦朱印状写 ●『戦国人名辞典』吉橋和泉守の項)。
9月17日、同じく氏政兄弟衆である北条氏規(助五郎。相模国三浦郡の三崎領を管轄する)が、三崎衆の山本信濃入道(俗名は家次。伊豆海賊衆の船大将)へ宛てて書状を発し、注進状を披読したこと、よって、向地(上総国)へ出動し、新七郎(家次の次男で、実名は正次と伝わる)も自身で高名を挙げたそうであり、心地好い事の次第で感悦であること、されば、敵が攻めに転じるようであり、心配していること、さりながら、敵が攻勢に出るにおいては、(氏政が)その地へ御加勢を差し向けるそうであり、日を経るにつれて(今ではということか)安心していること、殊に(氏政が)小田原に御馬を立てられるうちは、郡内へは攻め込んではこないと推察していること、昼夜を問わず油断しないように申し付けられるべきであること、一、当城(伊豆国田方郡の韮山城)へ敵が毎日攻め懸かり、このたびは手厳しく詰め寄せてはいながらも、諸口はいずれも堅固な防戦に及んでいること、とりわけ此方(北条氏規)の持ち口である和田嶋は、いかにも堅固であること、安心に思われてほしいこと、(氏規は)取り込んでいるので、(使者の)口上に委細を含めること、これらを謹んで申し伝えている。さらに追伸として、海賊衆が駆けずり回るのが肝心であること、各々には苦労を懸けていること、これらを申し添えている(『戦国遺文 後北条氏編五』4023号「山本信濃入道殿」宛北条「氏規」書状)。
一方、このところ疎遠となっている東方の味方中では、安房国那古寺御所足利藤政の下総国関宿城移座への協力要請に応じ、9月2日、佐竹義重(常陸国久慈郡の太田城を本拠とする関東八家衆の系譜)が、下総国関宿城を本拠とする下総国衆の簗田八郎持助(鎌倉公方家宰の系譜)へ宛てて書状を発し、(足利藤政の)御書を謹んで拝読申し上げ、上意の通り、去春(正確には初夏)に条々を、 (藤政が)仰せ出されたこと、重ねて御帰座についての御内書の趣は、それを承知致したこと、何としても各々と申し合わせて立ち回り申し上げるつもりであること、この旨をもって御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1402号「簗田八郎殿」宛佐竹「義重」書状写)。
同じく、このところ疎遠となっている関東味方中の房州里見家(当主の里見義弘は上総国天羽郡の佐貫城に本拠を置く)では、下総国において相州北条軍を退けると、9月8日、隠居の里見正五(岱叟院。俗名は義堯。上総国望陀郡の久留里城に拠る)が、房州里見家の本拠である安房国岡本城の里見太郎義継(正五の孫)へ宛てて書状を発し、敵(北条軍)は退散し、我々の満足と(里見義継も)同前に思われているであろうこと、よって、十左衛門を与大郎(安田広(弘)秀)が討ち殺し、延命寺へ駆け込んだのは、どうしようもない始末であること、(安田を)延命寺には決して留まらせてはならないこと、義弘も入道(里見正五)との懇談に訪れた時分に、入道の陣屋にて姫君様(義弘の後妻である故足利晴氏の息女か)の文、其方(義頼)の御切紙をも披読したこと、委細は使いを立てて申し届けること、早々に、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1403号「太郎殿」宛里見「正五」書状 ●『戦国人名辞典』安田与太郎の項)。
9月9日、房州里見義弘(左馬頭)が、里見義継(義弘の嫡男)へ宛てて書状を発し、敵は退散し、(義弘が義継へ)再三にわたって申し届けたた通り、大慶であること、一昨日から普請の工夫を設けたこと、よって、安田与太郎が十左衛門を討ち殺し、延命寺へ駆け込んだのは、どうしようもないこと、法度を下すので、激しく憂慮しているのは当然であること、委細は三浦平五方(義弘側近)が申し届けるので、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編』1404号「太郎殿」宛里見「義弘」書状 ●『戦国人名辞典』安田与太郎の項)。
『戦国人名辞典』(吉川弘文館)をはじめ、安田与太郎の実名は広秀とされているが、滝川恒昭氏の著書である『人物叢書 里見義堯』(吉川弘文館)216頁によれば、里見義弘から「弘」の一字を授けられた家臣として挙げられており、弘秀が正しいようである。
房州里見軍が、撤退した相州北条軍を追うなかで、9月17日、下総国府中六所宮に制札を掲げ、制札、下総国諏訪田において、当手軍勢甲乙人の濫妨狼藉(を停止する)の事、この旨に違犯する輩に至っては、罪科に処するべきものであり、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 房総編』1407号「苻中六所宮 神主」宛里見家制札)。
同じく、安房国那古寺御所足利藤政は、9月26日、佐竹義重に従う茂木上総介(実名は治房か。下野国芳賀郡の茂木城を本拠とする下野国衆)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ仰せ出されたこと、(藤政は)このほど(房州里見)義弘の精励をもって関宿へ御座を移されるつもりであること、各々で談合致し、一途に駆けずり回るに至っては、御悦喜であること、委細は(簗田)持助が申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1408号「茂木上総介殿」宛 足利藤政書状【署名はなく、花押のみを据える】)。
元亀2年(1571)10月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】
10月3日、同盟関係にある相州北条家の御本城様・上様こと北条氏康が死去する。
〔謙信、関東在陣の景虎を通じて北条氏政と同陣の協議を重ねる〕
10月3日、養子の上杉景虎(三郎)が、謙信最側近の山吉孫次郎豊守(越後国蒲原郡の三条城を本拠とする蒲原郡司の系譜)へ宛てて書状を発し、相州(北条氏政)からの脚力が此方(上杉景虎の許)へ差し越されたこと、そして悴者(下級の侍)を添えて差し越したこと、(景虎による)相州(氏政)への書中ならびに遠左(遠山左衛門尉康光。北条氏康の側近)の所への文(手紙)、両通を(相府小田原へ)差し越すこと、(謙信の)御披見に入れて、それで構わないと、仰せであるについては、(景虎が)そのまま調えて(小田原へ)届けられること、もしまた(謙信の)御意に召さないについては、御案文を寄越されてほしいこと、書き直して(小田原へ)差し越すこと(脚力と悴者は小田原へ戻ったことになろう)、以上、これらを申し渡している。さらに追伸として、(北条)氏政が下総へ出馬した件については、実城(謙信)の御意をもって相州へ飛脚を差し越したこと、前日に(飛脚が相州北条家から謙信へ宛てた返書を携えて)帰ってきたので、相州からの返札を御披見のために(謙信へ)差し越すこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』1066号「山吉孫二郎殿」宛上杉「景虎」書状)。
この10月3日以前に上杉景虎は、相州北条氏政が8月下旬に下総国へ出馬したとの知らせを受け、越府の謙信へ報告を入れ、それについて謙信から氏政へ宛てた書状を受けると、氏政の許へ謙信の書状を携えた飛脚を遣わし、そして10月2日に氏政からの謙信へ宛てた返書を携えた飛脚が景虎の許へ戻り、さらには翌日に氏政からの景虎へ宛てられた書状を携えた脚力と悴者が景虎の許へ到来したので、景虎は氏政・遠山康光主従へ送ることになる書状の文面に差し障りがないかを、謙信に確認してもらうための案書と、氏政から謙信へ宛てられた返書(氏政が下総へ出馬した件について)を一緒に、当日か数日のうちに越府へ発送したわけである。
こうした流れからすると、今回の謙信と氏政の間におけるやり取りでは、去る正月20日付けの謙信・景虎へ宛てられたような氏政の書状や、同じく3月25日付けの謙信へ宛てられたような氏政の書状と一緒に出された景虎へ宛てたような氏政の条書(同前1039号)が発せられることもなく、景虎が謙信と氏政の間に立って双方がやり取りを重ねている状況が見て取れる。
よって、景虎を中心とした脚力・飛脚の動きと時間差の程度からすると、景虎は謙信とは離れていて、謙信と氏政の中間点に居たのであろうから、謙信は越・相の盟約による7月の大調儀に出馬できなかった自分に代わって、景虎に数手の越後衆を預けて関東へ出陣させたのだと思われる。そして謙信は、11月10日付の謙信書状や同月13日の小田氏治覚書からすると、遅くとも11月初めには関東に出ていたであろうから、景虎の書状が発せられた前後に関東へ向かったのであろう。
この10月中、先月に謙信が徳川家康と親交を深めるために派遣した使者および村上国清の使僧が家康の許に到着したであろうし、同じく織田信長が謙信へ畿内に異状はないことなどを伝えるために雇った飛脚が謙信の許に到着したであろう。
この間、敵対関係に甲州武田陣営では、先月以来、甲州武田信玄(法性院)が、相州北条氏政の兄弟衆である藤田氏邦(新太郎)の武蔵国鉢形領へ攻め入ったなかで、10月朔日、武蔵国阿熊(秩父郡)の地に高札を立て、高札、当手甲乙の軍勢は、彼の郷中において濫妨狼藉を働いてはならず、もしこの旨に背けば、厳科に処せられるべきものであり、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編二』1742号 武田家高札写【奉者「内藤修理亮」昌秀】)。
甲州武田信玄は当月中には帰陣したようである。
元亀2年(1571)11月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】
〔謙信、越・相一和の破談を覚悟する〕
関東越山して甲州武田領の上野国惣社城(群馬郡)へ攻め寄せたが、越・相同盟は破綻を迎えたので、甲州武田家との同盟を図るなか、11月10日、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国厩橋城の城代)へ宛てて書状を発し、〇前欠 無事であること、身(謙信)のかたへは引くべきであろうか、そのゆえは、相・甲一緒になって攻め懸けてきたとしても、身(謙信)の滅亡しない現実を目の当たりにしているうちに、小田原(北条氏政)は信玄に不安を感じるようにでもなれば、(北条氏政が心変わりし)近いうちにたとえ身(謙信)の前へ信玄とは手切れしたと言ってきたとしても、(その時は)まずは越・甲が無事を遂げるまでで、相・豆を信玄が攻めるにより、ここは相・越の運比べであること、(北条氏政が)このように馬鹿者と兼ねてより知っていながら、房州(里見家)・佐竹(義重)・太美(太田道誉)と手切れをしてしまい、(謙信は)後悔していること、小田原の形姿はどうにでもなってしまえば良く、其方(北条高広)も存じている通り、道七(長尾為景。謙信の実父)から身(謙信)の代まで、儀礼にかなった応対で劣ったりは、ほんのわずかでもなかったこと、(北条家へ贈った)樽肴・馬・太刀は、まったく弓箭の際には無駄なものであったこと、どれほども小田原を見損なっていようとも、切りがないので、まずは越山してから見計らうこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、昨日までは、(藤田)氏邦をかならずや(弁明のために)寄越されるのではないかと、あるいは氏政は見込みが外れて、ひたすらに言って寄越されるのではと、思っていたところ、そのようにはならず、いずれもの馬鹿にはっきりと言ってやる必要もないこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1068号「北条丹後守殿」宛上杉「謙信」書状)。
一方、同盟を持ち掛けられた甲州武田信玄(法性院)は、11月10日、西上野先方衆の小幡上総介信真(上野国国峯城を本拠とする)の一族である小幡民部助(実名は昌高と伝わる)へ宛てて書状を発し、このたび厩橋(上野国厩橋城の城代である北条丹後守高広)の件について、雨宮淡路守(号存哲。諸国御使者衆)を遣わしたところ、其方(小幡民部助)が格別に世話をしてくれたそうであり、祝着であること、これにより、刀一腰を渡すこと、されば、北丹(北条高広)の対応といささか食い違いがあったところを、密談するために雨宮淡路守を遣わしたこと、ますます面倒を見てくれれば本望であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1747号「小幡民部助殿」宛武田「信玄」書状)。
〔謙信、関東味方中の小田氏治から東方陣の挙行を求められる〕
11月13日、常陸国木田余の小田氏治(太郎。本拠であった小田城は佐竹氏に攻め取られており、重臣の菅谷氏の居城である木田余城を本拠としていた)から条書が発せられ、覚、一、このたびの(謙信からの)御懇答に歓喜している事、一、(小田氏治は)中筋の味方中と(謙信の)御指図通りに相談した事、一、(謙信は)西上州へ御戦陣を催されたのち、当口へ御陣を進められるとの事、一、(下総国結城の結城)晴朝・(下野国烏山の那須)資胤へ意見するべきとの仰せについては、それを心得た事、一、本地の事、口上、御陣底(陣庭)の事、口上、一、(常陸国真壁の)真壁(久幹)の事、口上、一、(常陸国下妻の)多賀谷(祥聯。俗名は政経)、一、結城の各々が言って寄越した子細は不審である事、以上、これらの条々を申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1069号「越御陣所」宛小田「氏治」覚書写)。
11月吉日、小田氏治の側近である菅谷摂津入道全久(俗名は政貞)から、越後国上杉家側の取次である山吉孫次郎豊守へ宛てて条書が発せられ、一、昨年に御内談された通り、今後においては御当方(上杉家)と唯一無二に申し合わされるつもりである事、一、御厚誼を永続する事、口上、一、所領の事、口上、これらの条々を申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1070号「山孫江 参御宿所」宛「菅摂津入道全久」条書写)。
この間、11月10日、安房国那古寺御所足利藤政の下総国関宿城移座に向けて、簗田洗心斎道忠(俗名は晴助)が、茂木上総介(実名は治房か)へ宛てて書状を発し、あらためて申し上げること、近年は世上に思慮が多いので、申し交わしていなかったこと、覚えのほかの極みで、蔑ろにしていたわけではこと、太田(佐竹義重)・那荘(那須荘。那須資胤)と仰せ合わされたうえで、諸方が無事を成就されるのが肝心と思われること、きっと御同意であろうこと、よって、房州から御使節をもって、 (足利藤政が)仰せになられたこと、世外の次第を思慮しているとはいえ、(茂木上総介へ簗田)父子同前に、 (足利藤政が)仰せ付けられたにより、一翰を差し添えること、委細においては子である八郎が申し述べるにより、よくよく御塩味あって御請けに及ばれる時節は、(佐竹・那須へ)御進言されるのが適当であること、余事は後音を約束すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1411号「茂木上総介殿」宛簗田「洗心斎道忠」書状 封紙ウハ書「茂木上総介殿 洗心斎」)。
同日、簗田八郎持助が、茂木上総介へ宛てて書状を発し、あらためて申し上げること、今般は房州から御使節をもって、(足利藤政の)御書を下されたこと、何としてでも当年中に、 (関宿城へ)御座を移されたいとの、 上意であること、適切に御受けなされるのが肝心であること、委細は彼の口門に申し含めたので、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1410号「茂木上総介殿」宛簗田「八郎持助」書状 封紙ウハ書「茂木上総介殿 八郎」)。
元亀2年(1571)12月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】
〔謙信、引き続き小田氏治と東方陣について協議する〕
12月10日、小田氏治から、山吉豊守の側近である飯田与三右衛門尉へ宛てて書状が発せられ、いささか申し述べること、このたび使いをもって申し達したところ、当口への御出馬が落着となり、安堵の時を迎えたこと、されば、其方(飯田与三右衛門尉)が奔走してくれたそうであり、実にありがたいこと、山吉方へ格別に頼み入るからには、今後については、なお相応に任せ置くこと、かならずや、(謙信が)御陣を進められた時分に、あれやこれや詳しく申し上げること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』1071号「井(飯)田与三右衛門尉殿」宛小田「氏治」書状写 封紙ウハ書「井田与三右衛門尉殿 従喜多里(木田余)」これには異筆で、元亀二年十二月廿六日、御ひきやく(飛脚)二被申下候、と書き添えられている)。
同日、菅谷摂津入道全久から、飯田与七郎(与三右衛門尉の世子)へ宛てて書状が発せられ、このたび真河入道方をもって、氏治が申し達せられたところ、貴所(飯田)の御取り成しをもって、山孫(山吉豊守)が色々と御念を入れられた御披露ゆえ、 屋形様(謙信)の御懇答があり、氏治の歓喜している様子を御推察してほしいこと、彼の向地(上野国西部の甲州武田領)を攻め平らげられ、そのうえにおいては、早速にも東方(佐竹攻略)へ御旗を進められ、氏治が本意を達する時節を迎えるように、さらなる御精励を、孫二郎殿へ御進言してもらいたく、貴所(飯田与七郎)の御手並みにかかっていること、かならず面述の時分に、これらの御礼を詳しく申し述べるので、諸々を省略させてもらったこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1072号「井田与七郎殿 御陣所」宛「菅摂津入道全久」書状写 封紙ウハ書「井田与七郎殿 御陣所 菅谷」これには異筆で、元亀弐年十二月十六日(十は廿の書き誤りであろう)、くわんとうそうしや(関東惣社)御陣所へたまはり候、と書き添えられている)。
12月16日、菅谷摂津入道全久から、飯田与三右衛門尉へ宛てて書状が発せられ、御陣下の御様子を伺うため、前日に書状を差し上げたこと、(書状を託した)飛脚が未だに帰ってこないこと、世間の噂が色々と入ってくるとはいえ、当然ながら正否は明らかではないこと、(小田氏治は)それではあまりに心許ないと思われて、氏治の所から、 御屋形様(謙信)へ重ねて申し達せられること、山吉殿・北条殿としっかり御相談して(謙信へ)御披露に及ばれてほしいこと、再三にわたって申し述べた通り、つまりは氏治が本意を達したうえは、(謙信も)急速に思召される通りとなるわけで、東方の御戦陣は、我々以下に至るまで念願申し上げるばかりであること、なお、詳細を申し入れたいとはいえ、(小田氏治は)物極(物裏か)の御張陣により、御手が塞がってしまうと思われるので、早々に申し上げたこと、そうではあっても、おおよその御知らせを伺えれば、祝着であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、孫二郎殿(山吉豊守)へ適切に御理解してもらえるよう、ひたすら任せ入る思いであること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』1074号「井田与三左(右)衛門尉殿 御陣所」宛「菅谷摂津入道全久」書状写 封紙ウハ書「井田与三左(右)衛門尉殿 御陣所 菅摂津入道」)。
12月17日、小田氏治から、飯田与三右衛門尉へ宛てて書状が発せられ、去る10日に(越陣へ)向かわせた脚力が未だに帰着しないため、重ねて申し届けること、御陣中の現状の委細を承りたいという(氏治の)要望を、山孫(山吉豊守)へ申し届けること、適切に(取り成しに)努めてもらいたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1075号「井田与三右衛門尉殿」宛小田「氏治」書状写 封紙ウハ書「井田与三右衛門尉殿 従喜多里」これには異筆で、元亀二年十二月廿六日、御ひきやく被下候、と書き添えられている)。
〔謙信、隣国の会津蘆名父子と東方陣について協議を重ねる〕
友好関係にある奥州会津の蘆名止々斎(俗名は盛氏)・盛興父子と佐竹攻めについて相談し合うなか、12月19日、蘆名盛興(平四郎)へ宛てて返状を発し、(謙信の)関東越山について、(蘆名父子から)わざわざ脚力が参ったこと、本望であること、当口(上野国西部)の様子は、盛氏の方へ直報に及ぶつもりなので、(この盛興宛書状には)再筆はしないこと、何としても当口を平らげたのちに東方の戦陣を催すので、(蘆名父子の)御手合わせ(連動)を頼み入ること、なお、重ねて申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1077号「蘆名四郎殿」宛上杉「謙信」書状写)。
12月26日、上野国惣社陣へ小田氏治の書状を携えた飛脚が到着する。
この間、越中国の代官を任せている河田長親(豊前守)が、12月11日、重臣の河田孫五郎(実名不詳。のちに右衛門佐を称する)へ証状を与え、(越中国新川郡)上条保内の中村分を進め置くこと、知行を保証するものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1073号「河田孫五郎殿」宛河田「長親」宛行状写)。
河田孫五郎は、栗原修氏の論集である『戦国期上杉・武田氏の上野支配 戦国史研究叢書6』(岩田書院)の「第一編 上杉氏の関東進出とその拠点 第二章 上杉氏の隣国経営と河田長親」によれば、越中国の一勢力である土肥孫十郎の弟で、河田長親に仕え、河田名字を与えられて河田の一族に加えられたという(鳥取県立博物館所蔵「土肥莠家譜」)。
同じく、関東代官を任せている北条丹後守高広を通じて、甲州武田家と一和の交渉をしているなか、17日、甲州武田信玄の側近である跡部大炊助勝資から、北条丹後守高広・同弥五郎景広へ宛てて書状が発せられ、思いも寄らなかったところ、先日は御札に預かり、珍重であること、よって、御密談するべき旨があるにより、雨宮存哲を寄越してほしいとの趣を、仰せを承ったので、御意向に従い、内藤修理亮(昌秀。甲州武田家の家老で上野国箕輪城の城代を任されている)と相談し合ったうえで、(厩橋城へ)向かわせたこと、そこで三ヶ条の御書付をもって承った通り、すべて漏れなくその意図を理解したこと、ただし、彼の修理(内藤昌秀)が言うには、去る頃に殖野陣(上野国群馬郡惣社の植野)で話し合いを尽くされた筋目と変わらず、それゆえに信玄・勝頼に申し聞かせるには及ばないとのことなので、(武田父子に)黙っていたこと、およそ当時は甲・相入魂をひたむきに申し合わされたからには、(甲・相・越の)三和一統のほかは成就し難いこと、つまりこのところは御分別を誤らないでもらいたいこと、委細は金井淡路守が申し達すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1076号「北丹・同弥 御宿所」宛「跡大 勝資」書状)。
植野陣とは、先月あたりから上野国惣社城を攻撃していた上杉軍に対する武田軍(西上野衆)の戦陣であろう。
越中味方中であった神保宗昌(俗名は長職)・同長城父子は、甲州武田家と同盟関係にある越中国一向一揆と再び手を結んだようであり、12月2日、越中国八尾の聞名寺へ宛てて証状を発し、数年にわたる瑞泉寺殿(越中国両一向一揆の一方)からの御懇望により、聞名寺の不入を申し付ける事、一、押買・狼藉を禁ずる事、一、棟別・徳米を用捨する事、一、催促しての人頭取り、ならびに兵糧懸けをしてはならない事、右の条々を厳しく停止するこ事、万が一にも違犯する輩がいれば、速やかに罪科に処するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『富山県史 史料編Ⅱ』1743号 神保「長城」・同「宗昌」禁制)。
越・相同盟がほぼ破談となったなか、12月3日、相州北条氏政の兄弟衆である藤田氏邦(小田原滞在中)が、9月に在地の鉢形衆が甲州武田軍を迎え撃った際の戦功を忠賞し、高岸対馬守へ宛てて感状を発し、このたび(甲州武田)信玄が出張した折、野伏以下を集めての奮闘は飛び抜けていたそうであり、諏方部主水助(氏邦の重臣)が申し上げたこと、実に感悦であること、ますます今後も武具等を用意し、奮闘するについては、扶持を加えること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1563号「高岸対馬守殿」宛藤田「氏邦」感状写 )。
同日、藤田氏邦が、在地の鉢形衆である栗原宮内左衛門尉へ宛てて感状を発し、このたび信玄が出張した折、郡内において、馬上一騎を討ち落としたそうであり、諏訪部主水助が申し上げたこと、感悦であること、ますます今後も奮闘を励むについては、扶持を加えるものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1564号「栗原宮内左衛門尉殿」宛藤田「氏邦」感状写)。
同日、藤田氏邦が、在地の鉢形衆である新井新二郎へ宛てて感状を発し、このたび信玄が出張した折に、郡内において、歩兵一人を討ち取ったそうであり、誠に心地良いこと、ますます忠信を励んで奮闘するにおいては、褒美を与えるものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1565号 藤田氏邦感状写 奉者「諏訪部主水助」)。
藤田氏邦の重臣である諏訪部主水助は、実名は定勝と伝わるが書状等では確認できない。のちに遠江守を称する。氏邦本拠の武蔵国鉢形城(男衾郡)の支城である日尾城(秩父郡)の城主(『戦国遺文 後北条氏編四』2841号 法養寺所蔵「薬師堂十二神将像胎内銘」 ●『戦国人名辞典』諏訪部遠江守の項)。
下総国関宿城移座を目指す足利藤政による関東衆への奔走を促す呼び掛けが続くなか、12月4日、下野国宇都宮の宇都宮広綱(弥三郎)が、簗田八郎持助へ宛てて書状(謹上書)を発し、(足利藤政の)御書を謹んで拝読したこと、もとより里見義弘の奮励をもって、去る夏に、御帰座される心積もりを仰せになられたこと、御めでたいこと、このようになったからには、忠信を励むべきとの仰せを、当然ながら懈怠なく務めさせて頂くこと、この旨を御披露してほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1417号「謹上 簗田八郎殿」宛「藤原広綱」書状写)。
12月20日、下野国佐野の佐野昌綱(小太郎)が、やはり簗田八郎持助へ宛てて書状を発し、御書を謹んで拝読したこと、もとよりこのたび(里見)義弘の奮励をもって、御座を帰される心積もりを仰せになられたこと、御めでたく御肝心との思いであること、御威光を仰ぐ以外に余事はないこと、この旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1418号「簗田八郎殿」宛「佐野 昌綱」書状写)。
〔越・相一和が破談となる〕
12月27日、越・相両国の間で絶縁状が取り交わされて同盟が正式に破談となった。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』(富山県)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第四巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)