退院して、翌日にシンガポールから来日していたEさんが見舞いに来るというから、
出雲空港に迎えに行き、久方ぶりの再会を果たす。元々、痩せていたのにもっと痩
せたからEさんの最初の印象は弱々しく映ったのかもしれない。しかし、フォー
ゲルパークや近くの施設を案内する内に、意外と元気なので安堵していた。
帰る途中に寄ったスーパーでEさんが国際演劇祭で来ていた時、通訳のボランテ
ィアをしていた人パッタリ出会う。その人は余りにも突然の出来事で、今にも泣きそ
うな顔をしているではないか。それはそうだろう、シンガポールにいる人と松江市内
で偶然に出会うことなどあり得ないのに、ここでそれが起こっているのだから。
そして夜は、入院中にいつも眺めていた、中華料理店に出掛けた。賑やかな方が
いいだろうと、娘たちの家族も全員参加で食事会を開催する。
孫たちは英語が話せなくても何やら一緒に遊んだり、娘たちはたどたどしい英語
で会話を楽しんでいるのを横目に、私は医者に内緒でちょっぴり、ほんのちょっ
ぴりビールを飲んでみた。
苦い、焼酎のお湯割りもほんのちょっぴり、こちらの方が飲みやすい。米焼酎は
元々、味がないから飲み易いものの美味しいという感じはしない。
いずれにしても、昔の酒の味とは全然違ってしまい『術後に煙草、酒のことを考え
る』・・・はまた一歩遠くに行ったようだ。
目出度く2回目の抗がん剤治療を終え、家で療養を続けることになるが、病院は看
護師さんや色々な人のお世話になり、至れり尽くせり、おまけに室温はいつも温か
く快適だったのに、家では甘えてばかりはおられない環境だ。病院では自分の寝
床管理は自分ですることになっていたので、朝起きたら布団を片付け、寝る時に
は自分でセットする。
病院で調教された成果として退院後は自分のものは勿論、妻の分も布団の片付け
を自発的にするようになっていた。招かれざる客の訪問でその年の半分近くは、お
客の相手を余儀なくさせらたれたが、予想された難局には出会わず無事に新しい
年を迎えられた。ああ、何と有難いことか。代償として失ったものがあるにしても食
べる苦痛から解放されたことは、それだけでも大きな価値を持っている。
寒さは身体にメスを入れた者には堪えるものだから、温かいところに避寒は如何と
考える。近場で温かい所はやはり東南アジアの国になる。初めての国だからタイに
行って見るかと米子AP発のツアーを調べてみると、料金は手頃だし自分でアレンジ
できそうだからやる気満々で、旅行会社に申し込んでみる。
ところが、米子から韓国の仁川APまでのチケットは取れるが仁川AP~タイまでのチ
ケットが取れないと言う。韓国経済、中国経済が好調になり出かける人で一杯にな
り、キャンセル待ちも望みは薄い状況。
別のコースへの可能性やらやっている内に、タイ国内の政治情勢がおかしくなって
きた。赤シャツと黄シャツに分かれ首相退陣、続行でバンコックは大荒れになり、渡
航情報も段々と厳しくなり遂にはツアー会社も政情安定まで募集中止を打ち出した。