食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『便利は喜び、有難さを奪う』

2012年12月12日 18時20分29秒 | 日記

今日は晴れ間を見せるものの時折パラついたり、昨晩の霙混じりで外仕事は出来る状

態にないから、山小屋でストーブ当番をしていた。山には薪があるから、集めてこうして

焚けば暖を取ることができる。しかし、一般的には電気か灯油、ガスなどがないと暖をと

ることはできないが、色々な事業者が提供してくれるから自分で調達することはない。自

分がするのは手配だけ。

身の回りにある品々は昔と比べれば格段に便利さは増している。人は工夫したり改良した

りして優れた物を作り出し、私たちはその便利さを享受している。最初は有難さが身に染み

ていたのに、改良されより便利になっても、最初に思ったほどの有難さはなくなる。

これは何かを経験して得る喜びにも通じている。昔は鉛筆削りなど自分の小刀で削ってい

た。缶ペンの中に肥後守なんて書かれた小刀を皆が持っていた。上手に削れなかった人も

上手になれば、それなりに喜びを感じることはできたと思う。昔は自分で経験し感動を得るこ

とが多かった。日常生活の中にある大半のことが対象だった。

風呂焚きを言われた子供は最初の内は火をつけるのも下手くそだったのに、上手になると大

人から褒められる。経験すべきことも多く、失敗・成功も多かった。こうしてみると、便利さ享受

するあまりとそれが当たり前になり、自分でする苦労がなくなるから、そこから受けることへの感

謝もなくなっているのではなかろうか。

日本人は魚が好きだ。自分で食べる物くらい自分でやれというのが自論。魚には骨があるか

ら面倒だとか、匂いがするから料理しないとかで、嫌なことはみな外国人にして貰い、食べる

だけが日本流。そこには外国人が骨を抜いてくれて有難うの感謝の意など全くなかろう。

いつまでも、こんなことを続けられるほど日本の経済はよくないし、世界が円を見離したら一発

でアウトになりかねない。異常な便利さの中で暮らし続ける、その中で育つ子供たちへの影響

はどうなるのか心配の種は尽きない。

私は何でも自分でやってみたい派だから、余計にそんなことを思うのかも…


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