食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『父の生家を探して』

2012年11月16日 18時39分25秒 | 日記

父はとうに他界しており今更その生家に何の用もあろうはずはない。母から聞いた生

家は鳥取の山奥で、それは大変な僻地ということだけ。父は60歳過ぎから凡そ20年、

寝たきりの生活をしており大半は母の厄介になりながら静かな余生を送った。父が存

のある時、母に『父はずっと寝たきりだし、自分の生まれ育った場所は懐かしかろう

し、俳句や絵の題材に事欠かないようだから、連れて行ってやろうか』と持ちかけたら

『長時間の車は、とても持たないから無理』と尤もな返事。

それから、父の生家のことは今年の従兄弟会まで話題にのることはなく、先日そのこと

を辛うじて思い出した次第。それでは出かけてみようと妻とドライブがてら、晴天のもと

父の生家探しへ出陣。ここから鳥取まで自動車道はもう2~3区間の工事を残し繋がっ

ている。その中で安来と米子の間10kmほどが唯一の有料区間で僅か10分ほどの距離

なのに650円もする。

私の所から米子へは裏道が便利だから、この区間を避けて米子から自動車道に乗ると

只のドライブが可能になる。自動車道の完成は嬉しいことばかりではない。

古い道の駅は旧道沿いに作られているから、新しい道が出来ると車の流れは、そちらに

移ってしまい死活問題になりかねない。それでも山陰の道路は整備が遅れているから新

しい自動車道を待ち望む声は強い。私がよく通っていた頃に着工したが橋脚の盛り土を

した場所は今でもそのままになっており、勘定してみると20年は軽く越えている。いつに

なったら、松江~鳥取の全線が出来ることやら。一応、自動車道をメインに走り、途中で

昼食休憩をとったりして13時頃に現着となった。

話に聞いていたように、どえらい田舎で生家と思われる近くに登ると車1台がやっと通れる

道幅、日陰には雪がうっすらと残っている。人家はあるが廃屋も目につき限界集落の様相

がありありのと見える。人に出会うこともなかろうと思ったら家の前で配管工事をしている人と

出会い、父の番地に該当しそうな所を知っているか尋ねたが分からなかった。

未だ、上の方に登ることが出来ると聞いたので、行ける所まで行ってみようと車を走らせるが

道幅は一杯々、しかも電柱はないからこの先は人家がないことになるから、ここで諦めて下

山することにした。すると先ほどの人が手を振り『家の場所が分かりました。この人のお爺さん

が知っておられたので聞いてあります』とお爺さんの連れ合いの方を紹介してくれた。

自分たちがその土地を手にした経緯を簡単に説明してくれ、今では自分が畑にしていると

生家跡に案内して下さった。『お婆ちゃんは優しい人だったとか、家は立派であの辺りに蔵

があった』と言われたが、畑の広さはそんなに広くないから立派な家というのはお世辞だろ

うと思う。それに父の家は親方でもなかったはずだから、『ぼろ屋敷でした』とは言えないから

のお世辞に違いない。昔は50軒くらいの集落で小学校の分校もあったが、今は年寄りだけ

の過疎の集落になり、しかも大半が一人暮らしだ。こんな山奥だから昨年も2~3mも雪が積

もったそうだ。

昨日、雪が降り今朝は一面真っ白だったが、陽が照り始めたので今は溶けてしまったそうだ。

だから北向きの屋根からは雪解け後の水がポタポタと落ちていた。

人懐かしかったのかお婆さんは『家にお爺さんがいるが目が見えなくなっている。目は見え

いが話はできるからお茶でも飲みに来ませんか』と誘われる始末。私たちは場所が分かり

せて貰うだけで十分と固辞すると今度は『白菜や大根があるから持って帰らないか』と親

切な言葉。帰りかけると断片的に思い出した昔のこと、若い者が地域に残らないことを語り

掛けられ、帰りづらい感じがした。

こんな田舎でも、自分の生まれ育った場所は住めば都。しかし、ここから下の集落に行くだ

けでも昔は歩くしかなかったろうから、多分行は下りで2時間、帰りは・・・・

直線距離で4~5Km先の峠を越せば、そこは兵庫県養父市だ。鳥取市なんて泊りがけ?


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