「縦横無尽」 フローレ21社長のコラム

花の仲卸フローレ21社長小池潔がつれづれに語ります 快調に更新中

「高き住居は児孫の和楽・・・・」

2012-10-01 14:17:06 | Weblog
「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」さくら並木ネットワークの案内書パンフにも記載されている、岩手県宮古市姉吉地区明治三陸地震での大津波記念碑。
さくら並木ネットワークの活動の出発点となった石碑と言ってもいい。
この石碑の想いを桜に託し100年200年先まで東日本大震災の津波被害伝える。

明治三陸地震(明治29年)姉吉を襲った津波は全集落のたった2人を残し全てを奪った。
昭和三陸地震(昭和8年)では住民4人が生き残った。東日本大震災(平成23年)の津波では11世帯34人、隣の地区の学校に子どもを迎えに行った親子4人の安否が分からず行方不明となっている。
津波は今回、漁港から坂道を約800メートル上った場所にある石碑の約70メートル手前まで迫ったという。
海辺にいた住民らは地震後、坂を駆け上がって自宅に戻り、難を逃れた。
明治から昭和へ全滅状態を2度も繰り返した姉吉地区は、少なくとも津波時に姉吉にいた住民全ての命が救われた。
大きな犠牲を払い守った命である。ワカメ、コンブなどの養殖で生計をたてている住民が標高60メートル、距離にして900メートルの坂道を上り下りし、毎日通うのはひと仕事で、平穏な毎日が続くと、近くに仕事場や住居を作りたくなる。
石碑の教えを守り続けて78年、自治会長は「これからも津波の恐ろしさを伝えなくてはいけない」と言われた。
美しいリアス式海岸のモデルのような風光明媚な美しさであると共に、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台として知られるトドケ埼灯台は、約4kmの距離である。

大船渡市三陸町吉浜地区は、同じように、過去の大津波を教訓に家屋を高台に移設して、津波被害を逃れた。
高台への集団移転が行われたきっかけは、明治、昭和の大津波で壊滅的な津波被害に住民は高地への集団移転を繰り返してきた。
山を切り崩して宅地を造成し、低地の集落跡地を水田として活用した。県道を海抜20mほどの高さに移し、この県道が津波から家を守る一つの目安になるようにした。
今回の震災で、吉浜湾には10メートル前後の津波が襲来。被害は県道より低い場所に集中し行方不明1人。
吉浜地区は被災した祖先の教えが石碑により今も脈々と受け継がれている。
高地に住居を構え、低地で農業や漁業を営むまちづくりは、沿岸部の将来像を描く三陸の復興のお手本にもなり得る。

残念なことに石碑の教えが生きていたのは、百数十本あるといわれている三陸にある石碑のたった2本だけだった。
東日本大震災の津波被害を、明治、昭和の被害を教訓にして難を逃れた典型的な二つの村落。いずれの住民も平成の大津波を後世へ伝える手段として、桜を選んでくれた。
二つの地区の住民は津波被害と津波の来襲を桜で伝え、住民が美しい桜の花を愛でる。
そのようなさくら並木の造成の依頼が当会に届いた。さくら並木ネットワークの役員会で全員一致でこの植樹を来春実施することを決定。
100年後、150年後必ず三陸にやってくる津波、さくら並木がその被害を防ぐ、最強の防波堤に成ることだけは間違いない。

一人でも多くの善意が三陸のさくら並木に姿を変え、100年先まで見守って欲しい。

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