小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源20

2014年02月06日 18時50分22秒 | 哲学
倫理の起源20




 以上の指摘によって、カントが、意志と行為の関係をいかなる場合にも必然的に結びついたものとしか考えていない点が明らかとなる。
 行為という概念の広がり、外延について、私たちの日常的な営みをよく想像しながら考えてみよう。「行為」を(英)action (独)Handlungと考えるか、(英)behavior (独)Benehmen と考えるかで、そのニュアンスはずいぶん違ってくる。
 前者は明確な意志にもとづく能動的な行動を指しており、後者は、さほど意識的ではない振る舞い、作法、日常の習慣にのっとって何となくやってしまっている行動、さらには、寝ているとかただ座っているとか、食べているとか性愛行動をしているとか、ボーっとしているとかも含むであろう。ところがカントが道徳との関連で問題にしているのは、もっぱら前者であると考えられる。
 さて、それでは、私たちの現実生活で、ある行為(ふるまい)が道徳的か非道徳的か、責任があるかないか、義務を果たしたか果たしていなかったか、もっと明示的な場合を例にとるなら、合法的か非合法的かが問われるのは、前者の、自覚された意志的な行為の場合だけだろうか。
 そうではあるまい。
 そうではないケースをいくつか挙げてみよう。

①管理職についている人が、部下が引き起こした不祥事に直接かかわってはいず、あとからそれを知らされただけなのに、彼は監督責任を怠ったとして非難され、辞職に追い込まれる。
②運転中にふと脇見をしたために、人身事故を起こしてしまった。またきちんと注意していたのに、横の路地から子供が飛び出してきたために轢いてしまった。
③母親が疲れて何となくボーっとしていた隙に、自分の子どもがベランダから落ちてしまった。夫から「なんでもっと注意していなかったんだ」と非難され、本人も一生悔やみつづける。
④未成年の子どもが犯罪を犯したために、ただその子の親であるという理由だけで周囲から養育責任を追及されたり、自ら良心の呵責に悩まされたりする。
⑤ジャン・バルジャンのように、家庭環境、生育環境が厳しかったために盗みなどに手を出し、それが癖になってしまう。
⑥政治家や公務員がその職業柄、当然やらなくてはいけないことをやらずにいたために、不作為の責任を問われる。
⑦軍隊など、規律の拘束力が強い組織の中にいて、命令に従ったために人を殺めたり傷つけたりしてしまった。
⑧親愛の情を表現するつもりがつい悪乗りして友人の心を傷つけてしまった。
⑨生活の方便のために口実をもうけて申し出を断ったり、心にもないお世辞を言ったり、もっと大事な価値を守るために仕方なく嘘をついたりする。

 そのほか、こうしたたぐいの「行為」(actionではなくbehaviorに属する「行為」)をなすか、または逆になさなかったために、罪に問われたり責任を負わなくてはならなかったり、自ら良心の呵責に苦しめられたりする例というのは、この世にはいくらでもある。
 特に最後の例では、カント自身の通称「ウソ論文」が有名である。刺客に追われて逃げてきた友人をかくまったが、刺客が来て「やつがここに来ただろう。隠すな」と迫られたとき、たとえ友人をかばうためでも嘘をついてはいけない、なぜなら嘘を場合によっては許されることと規定してしまったら、道徳的義務一般が成り立たなくなるからだというのである。私はこれを初めて知った時、カントという哲学者はなんてバカなやつなんだと直感的に思った。
 しかし問題は、カントが底抜けの世間知らずだったかどうかではない。おそらくカントはそれほど世間知らずではなく、義務というものの形式的本質を明確に規定しようという十分な意図があってあえてこういうことを言っているのである。ところで重要なのは、彼が「行為」の概念をどこまでも明確な「意志」の必然的な結果として構成しようとしている、その思想の偏頗さ、人間生活全般を見渡す視野の欠如である。
 ここには、人間の行為がすべて「個人」の自由意志の結果であるという近代特有のフィクション性が最も象徴的にあらわれている。人間生活の現実、日常的なふるまいは、あらかじめ個人の内面によってそのつど意図された自由意志の結果などではない場合が圧倒的に多いにもかかわらず、である。
 浄土真宗の祖、親鸞は弟子の唯円が書き残した『歎異抄』のなかで、「わがこころのよくてころさぬにはあらず」と言っている。人は殺すまいと思っていても千人も殺してしまうことがある、逆にいくら殺そうと思っても一人も殺せないことがある。人の振る舞いは善意の持ち主か悪意の持ち主かによるのではなく、すべて「業縁」のなせる技なのだ、と。思想としては、このほうがはるかに深い。つまり人間生活の真実に届いている。
 それでは、「個人の自由意志の結果としての行為」という、近代道徳の図式の基礎にあるフィクション性には何の根拠もないのかといえば、そうではない。そこにはフィクションを構成せざるを得なかったそれなりの理由がある。また私たちは、人と交わりつつ生活していくうえで、このフィクションを設定せずにはすまない。
 それは、簡単に言えば、私たちが関係を編みながら生活しているとさまざまな摩擦葛藤が生まれ、やがてそれが高じて取り返しのつかない不幸な事件や解決不能な不祥事が引き起こされることがあるからである。つまり自由意志から行為へという因果関係は、じつは逆なので、まず不幸や不祥事が起きた時に私たちの感情が混乱し、自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われるのだ。それを何とか収拾して未来に臨むために、私たちは、「ある個人の行為は、その人の自由で理性的な選択意志を原因としている」というフィクションを必要とするのである。この点について、哲学者の中島義道氏は、次のような鮮やかな論理を展開している。

 私があるときに Aを選んだことを承認しながら、「まさにそのときにこの同じ私がAを選ばないこともできたはずだ」と主張することは、よく考えてみますと、きわめて不思議な想定なのです。
 しかし、この想定が不思議だ不思議だと言っても、依然としてみな(私も)取り返しのつかない過去の自他の行為を責め続ける。まさにそのとき「それをしない自由もあったはずだ」という思い込みを捨てることはありません。とすると、この想定の根は、証明可能性とか何とかという理論のレベルにではなく、もっと生活に密着したところにあるにちがいない。それは何でしょうか。
 これだ! と言えるものはここでは出せませんし、出すのが目的でもありませんが、どうもこの思い込みは、われわれ人間が過去に何らかの決着をつけたいという要求、過去を「清算する」態度とでも言えましょうか、その要求から生まれたもののように思われます。つまり、われわれが過去の自他の行為に対して何らかの責任を追及するというところに「自由」や「意志」の根っこがあるわけで、もしわれわれがある日、責任をまったく追及しないような存在物に変質してしまえば、「自由」や「意志」は不可解な概念となるかもしれません
。(『哲学の教科書』講談社学術文庫)

「これだ! と言えるものはここでは出せません」と中島氏は控え目に構えているが、それは出せるはずである。私たちは、取り返しのつかない不測の事態が発生した時、自分たちの生が崩壊する感覚に襲われる。それを何とか弥縫し修復して先に進みたい、進まなくてはならぬという生きた感情が、「過去に何らかの決着をつけたいという要求」を生むのである。
 しかし私たちは、それぞれ周囲から孤立した「個」として生きているのではないので、「個」としての自分の過去をただ見つめているだけでは、この要求は満足されない。ひとつは事態にかかわる人間関係の網の目のどこに、その事態と最も深く結びつく中心点があるか(空間的関心)、もう一つは過去から現在の事態に至る過程のどのような経緯が、その事態に最も深く結びつくか(時間的関心)、おおざっぱに言ってこの二つの関心を事態そのものに差し向けることによって、崩壊感情の弥縫と修復とを図ろうとするのである。
 この関心のあり方は、私たちがまさに共同性を生きる存在であることを如実にあらわしている。しかし感情の修復は言葉による新たな分節と秩序づけによってなされるほかはないので、特定の個人や集団の特定の過去時点における意志や無意志、行為や不作為を、言葉によって事態の「原因」として固定させて炙り出させざるを得ないのである。「あの時、もし彼や私がああしないでいたなら、もしこうしていたなら……」
 これはもともと感情を基底においているから、後悔や責任のなすりつけは意味がないと論理的にわかっていても、どうしようもない。かくて「ある人間の行為には、そうしないことも可能である自由意志が存在した」というフィクションは、論理的な必然性は持たないが、一定の感情的な必然性をもつのである。
 しかしカントが道徳の根拠づけのために強調している「自由な選択意志」の想定では、どんな行為もそこに至る意志との間に論理的な結びつきがあるということが前提とされている。それは、彼が、行為と呼ばれるものの全貌のなかにはその行為をする個人にとっては無自覚的な日常的ふるまい、behavior、 Benehmenといったものが無数に存在し、しかもそれらも道徳的テーマとの間に深いかかわりを持つのだという事実に視線を巡らせていないからである。そこに彼の道徳論の過激な近代個人主義の性格と限界とがよくあらわれている。彼はこの個人主義的道徳論によって、道徳がじつは共同存在としての人間の長きにわたる慣習の存在を基礎としているという事実を断ち切ってしまうのである。


*さらにカント批判を続けます。

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