小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本の自死の心理的背景

2019年02月01日 19時12分45秒 | 思想


昨年九月に、このブログで、稀勢の里と大坂なおみ選手を比べながら、ルーツやアイデンティティの異なる有名人を無理やり日本人にしたがる日本の習性のおかしさについて述べました。
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20180928/

その後4か月、ほぼ同時期に、稀勢の里は引退、大坂選手は見事に全豪オープンで優勝し、世界ランキング一位を獲得しました。
明暗がくっきり分かれたわけです。
前記事における筆者の論理からすれば、これは極めて情けない事態だということになります。
それ見たことかとまでは言いませんが、稀勢の里の引退には横綱を続けるだけの実力がないことが証明されたのです。
一方、大坂選手は、ルーツもアイデンティティも日本人ではないのに(だからこそ?)、21歳でテニス界の女王に輝いたのです。

ところが、日本のマスメディアは、こぞって強引にも彼女を日本人として遇し、このたびの栄冠を、あたかも日本人の名誉であるかのごとくに扱いました。
NHKなどは、レギュラー番組を中止してまで、全試合を放送したのです(じつは筆者も、ほんの少しは彼女を応援したい気持ちがあったので、一部見たのですが)。

ところで、1月31日付で書かれた窪田順生氏というノンフィクションライターの、次のようなネット記事を見つけました。
https://diamond.jp/articles/-/192484

この人が書いていることの「思想」にはまったく共鳴できませんが(事の困難を見ない単純な多文化共生主義なので)、指摘されている「事実」には信頼がおけます。
ことの発端は、日清食品のCMのイラストです。
このCMは、人気漫画『テニスの王子様』にもとづいており、この漫画に登場する「アメリカ代表候補のC・リデル」が、大坂選手と同じような褐色の肌で描かれているのに、大坂選手のほうは、錦織選手と同じ白色で描かれているというのです。
ニューヨーク・タイムズが「ホワイト・ウォッシュ」ではないかという批判記事を載せて、大騒ぎになりました。
https://www.j-cast.com/2019/01/23348707.html?p=all

いかにもNYタイムズがつつきそうなネタです。
日清食品は、「多様性に配慮が足りなかった」として謝罪し、CMを削除しました。

その後、時事通信が、「なぜ多くの人が騒いでいるのかわからない」という大坂選手のコメントを載せた記事を配信し、朝日新聞もそれに追随するような発言内容を載せたそうです。
ところが窪田氏によると、これは「デマ」だったということです。
時事通信も朝日も、その後訂正記事を載せました。
窪田氏の記事から引用しましょう。

 《例えば、先ほどの「なぜ多くの人が騒いでいるのか分からない」というのは、訂正後は「このことで心を乱される人たちのことも理解はできる」と、180度逆の意味になってしまっているのだ。
  しかも、時事通信とほぼ同じ内容の報道をした朝日新聞の「訂正して、お詫びします」という記事を見ると、先ほどの言葉の後に、「この件についてはあまり気にしてこなかった。答えるのはきちんと調べてからにしたい」と述べている。気にしないどころか、これを契機にホワイトウォッシュや差別という問題について意識をすると述べているのだ。ちなみに当初、朝日ではこのコメントを「この件についてはあまり関心が無いし、悪く言いたく無い」と「誤訳」していた。


この後、窪田氏は、こうした現象の背後に、悪意はなくとも、大坂選手のアイデンティティや心情を無視して、勝手にこちらが望むように「日本人化」していく日本人の無意識の意図があると指摘します。
次の記述を見ると、そのことを示す「事実」の指摘にいっそう賛同できます。

 《幼い頃からアメリカで育って日本語に不慣れな大坂さんにとって、自分の気持ちを正確かつストレートに伝えるのには英語がもっとも適していることは言うまでもない。しかし、日本のメディアはこんな質問を繰り返した。
「今の気持ちを日本語で表現するとしたらどんな気持ちですか」
「クビトバ選手、左利きの選手だった。大変だったと思うんですけど対応が。まずは日本語でどれぐらい大変で難しかったかって一言、お気持ちどうでしたか」
 大坂さんに一言でも二言でもポロッと日本語で語ってもらい、それで「出ました!なおみ節」という日本の伝統芸能のような大騒ぎをしたいというメディア側の事情もよくわかるが、どう考えてもやりすぎだ。実際、「大坂さんは英語で言わせていただく」と拒否している。


大坂選手の「拒否」は、複雑なことを日本語で言えない以上、当然のことで、「日本人化」を強いる記者たちのアホぶりが目立ちます。

ところで窪田氏は、同記事の中で、このような「日本人化」を強いることは、「非常に恐ろしいことだ」と述べています。
なぜ「非常に恐ろしいこと」なのかというと、多様性を無視した日本人中心主義がそうさせているからだというのがその理由のようです。
しかし、筆者はこれには全然同意できません
窪田氏に限らず、いま日本の知識人、政治家、マスコミは、「ナショナリスト」とか「人種差別主義者」とかレッテルを張られるのを極度に恐れており、その怖れに目を塞ぐために、「多様性の尊重」という欧州由来の新しいイデオロギーに、あっという間に洗脳されてしまったのです。
しかし「多様性の尊重」という態度が原理主義と化した結果、欧州がどんな惨状を呈しているかは、かの地域の移民・難民問題を見れば一目瞭然です。
日本は、まだ欧州ほど移民・難民問題が深刻化していないので(一部ではしていますが)、「多様性の尊重」とか「多文化共生」といったイデオロギーをのんきに受け入れていられるのです。

先のブログで、筆者(小浜)は、次のように述べています。

筆者が気になるのは、日本で起きている「なおみフィーバー」では、彼女が人種的に中米系の血が濃厚であり、育ちがアメリカであり、母語が英語であり、二重国籍者であり、現在もアメリカ在住者であるという事実をまったく気に留めず、ひたすら日本人としてしか扱っていないという点なのです。
つまり、そこに、はしゃいでいる日本人たちの強引さを感じるわけです。
このフィーバーの背景には、彼女は何が何でも根っからの日本人、と思いたがっている日本人たちの深層心理が作用してはいないか。
(中略)
この傾向は、自国の文化や存在感が世界にあまり認めてもらえないので、無理にでも国際的日本人を作り出そうとする、一種の「弱さのナショナリズム」ではないでしょうか。
またこれは、日本人力士を、その実力のほども正確に見積もらずに、彼がただ日本人であるという「観念」だけで異様なほどに応援する心理と背中合わせではないでしょうか。


引用でわかる通り、筆者は、窪田氏とは違って、日本人が「多様性」や「多文化共生主義」を認めないから、大坂選手に対する日本人の態度に違和感を持つのではありません。
逆に、ちょっとでも日本人にかかわりがあれば、その人を日本人と思いたがってしまう安易な傾向のうちに、対世界コンプレックスと、健全でない、弱さのナショナリズムを見出すからなのです。
これは、その大きな弊害も問わず、管理体制も整わず、ろくな審議もせずに、移民法(出入国管理法案)を安易に国会通過させてしまう集団心理と表裏一体です。
なぜなら、このたびの移民法案の国会通過を許してしまった事態のなかには、「日本に来さえすれば、四分の一か五分の一くらいは日本人になるのだから、とにかくあとは来てから何とかしましょう」といった、何の国家戦略もない、安直極まる空気が感じられるからです。
そんなに甘いものではないことは、いま欧州の例で述べたとおりです。
つまり、国際社会に対峙する時の、ものの見方が根本的に甘いのです。

遅ればせながらダグラス・マレー氏の『西洋の自死』を読みました。
西欧近代のイデオロギーである「人権と自由と平等と寛容さ」が、イスラム系の人たちを中心とした移民・難民の急激な増大を許しました。
この本では、これによって、いかに自分たちの実存とアイデンティティを根底から侵されつつあるか、その恐るべき実態が、これでもかこれでもかと言わんばかりにリアルに表現されています。
つまりそれは、EU委員会やメルケル独首相をはじめとする西欧のエリートたちが、「多文化共生」という麗しい名目に隠れて、真実を隠蔽し、何らの有効策も打たないままに安手の人道主義という欺瞞を続けてきたツケなのです。

日清食品のCMを批判のまな板に乗せたNYタイムズは、西欧ではなく、アメリカの新聞ですが、その批判の思想的な基盤は、西欧の移民・難民の無際限の受け入れを可能にしたものと同じです。
つまり、褐色の肌を白い肌に置き換えて表現することは、たとえ何気なくそうしたことでも、その差別性を糾弾されなくてはならないのであり、ポリティカル・コレクトネスに違反することなのです。
この非妥協的な原理主義が、いま欧米先進諸国を後戻り不可能なほどに荒れ狂っています。
これに異議を唱えることはおろか、疑問を持つことさえ許されていません。
要するに、人権や平等や自由という名の全体主義が支配しているのです。
もちろん、この支配に対する抵抗と逆襲がヨーロッパ各国で起きてはいますが、その行く末は混沌としています。

日本は、こうした恐ろしい事態を「他山の石」として学ぶのではなく、反対に、いつもの「出羽守」によって、見習おうとしています。
なおみフィーバーによって大坂選手を是が非でも「日本人」にしたがる日本人の心理は、裏を返せば、大量移民受け入れが何をもたらすのかについて、何の危機感も抱いていないことの一つの証左なのです。


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5 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-02-02 00:31:00
とても勉強になりました。私も大坂なおみさんを何が何でも日本人として見なす風潮に違和感を抱いていました。
 彼女を日本人ではないとは言いませんが、パーソナルデータから鑑みれば明らかにアメリカ人です。国籍だけで良ければ五輪も強い外国人を連れてきて日本国籍にさせて出せばよくなります。
それに一体なんの意味があるのか?
国民がこのような意識では移民大国化していく日本を止めるのも大変困難です。
返信する
凡庸な日本人 (HIROMITI)
2019-02-02 03:02:25
「大坂なおみ」という名前があって、どうして日本人であると認めてもらえないのですか?
普通に、日本人でしょう。
日本人だって、色の白い人白くない人、太っている人痩せている人、背の高い人低い人、顔の丸い人細長い人、健常者と障害者、美男美女とブスブオトコ、色々いるじゃないですか。
ブラジル移民でブラジル国籍になって、日本語のしゃべれない二世や三世でも自分のことを日本人だと思っている人は少なからずいるでしょう。
大坂なおみの身体が何であれ、彼女から日本的なハートとは何かということを教えられていたりする。
日本人であることの嘆きやかなしみは日本人の伝統だし、日本人は日本人であることを超えたいと願っていたりする。だからバイリンガルがうらやましがられるし、いろんな意味で「日本人離れした日本人」はみんなのあこがれです。日本人のくせにおっぱいの大きなギャルと、肌の色が濃い大坂なおみと、どれほどの違いがあるのですか。
現在の日本女子陸上界の中長距離で売り出し中の高松智美ムセンビという選手は、ケニア人とのハーフで、顔や肌の色もその跳ねるようなバネのきいた走り方も大いにアフリカ的で日本人離れしています。この娘も、あなたたちからすると日本人ではないのですか。
大坂なおみを日本人として応援しようとする気持ちも、それ自体とても日本的で、「日本人離れ」していることこそ日本人の普遍的なあこがれなのですよ。
「凡庸な悪」などという言葉があるが、「凡庸な日本人」であることに居直り、「日本人に生まれてよかった」などと思考停止しているのは日本人としてとても恥ずかしくいじましいことで、「日本人離れ」していることに対するあこがれを失ったら、日本人であることができない。
ヨーロッパであれこの国であれ、移民問題の根本は、移民がいけないのではなく、移民と仲良くできないことにあり、そのことについてわれわれはもっと考える必要がある。もちろんそれには移民の側にもそれなりの節度を持ってもらいたいのだが、「日本人に生まれてよかった」などとほざいている「凡庸な日本人」にも問題がないわけではない。
現在のイギリスは、「凡庸なイギリス人」が移民拒否を叫んでブレグジットを決めたあげく、大きな社会不安と混乱を引き起こしている。
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純粋日本人錦織圭の弱さへの反動が、似非日本人の大坂ナオミ頼りに繋がる (肱雲)
2019-02-02 06:01:40
小浜氏のこの記事の最後の下りで、純潔日本人で無い大坂ナオミ選手を日本人と見做したがる事と、先般の入管法改定で外国人労働者(移民)受け入れ許容が同質な性向を有すものであり、それは今後の日本にとり危うさを伴うものとなるとする結びには、違和感を抱く。私も入管法改悪を、日本人労働者の低賃金に利用しようとする経団連と安倍官邸の悪巧みは見え見えである事は理解している。だが、スポーツ界全体を見渡せば、純潔日本人だけでは世界と闘えないのは、否めない現実だ。ケンブリッジ飛鳥抜きで、果たして日本のリレーは勝てたのだろうか。高校駅伝・箱根駅伝など、至る所でアフリカ等からの黒人留学生を使い、あの手この手で勝ち残ろうとしているのが今の日本の現状ではないか。純潔日本は最早、今の時代、在り得ないのである。更に、大坂ナオミ選手自体も、小浜氏の様な日本人のエゴを見抜いていて、最終的にはアメリカ国籍取得を選択するだろう。
返信する
自明の理 (デオキシリボ核)
2019-02-04 05:09:31
多文化共生主義は、他文化強制主義。

論理的にマルチカルチュアリズムは、成り立つ訳がない。群れの中に「一神教徒」が一人でも混じった場合、マルチカルチュアリズムは一瞬で崩壊し、モノカルチュアリズムに転換する。

日本人は、一神教の怖さが分っていない。
返信する
多文化共生とは何か (HIROMITI)
2019-02-07 00:51:16
知ったかぶりして何を偉そうなことをいってるんだかか。
一神教は怖いに決まっているさ。たいていの日本人はそのことを知っているし、しかしそれを排除することはできないということも知っている。なぜなら「おかみ=権力」とはモノカルチャリズム=一神教そのものだからです。
この世の一神教はもはや宗教だけに限らない一つの観念のかたちになっており、日本人がそういうことに寛容であるのは、それすらも攪拌してしまう文化の伝統を持っているからです。
その純血主義そのものが一神教でしょう。
一神教が一人でも入り込むとマルチカルチュアリズムが壊されるだなんてただの強迫観念で、その一神教の怖さをいう強迫観念それ自体が一神教でしかない。怖いのはそういう一神教という強迫観念の持ち主がリーダーになって支配しにかかることで、それが、ナチス・ドイツであり、大日本帝国主義だった。
純血主義も拝金主義も右翼が正しいというのもつまるところ一神教で、正義正論で支配しようとするそのこと自体が一神教で、正義正論を振りかざすことがアイデンティティの国家も宗教もすべて一神教だといえる。資本主義であろうと共産主義であろうと、一神教だろうと多神教だろうと、正義正論という「唯一神」に縛られたら一神教に決まっている
人類はもはや一神教的観念から逃れられないのであり、その観念を排除するのではなくどのように攪拌してゆくかというのが現在の人類社会の課題であり、その課題を負って現在のEUが困難な道を歩み続けている。それはいつか挫折するかもしれないが、おまえらみたいな観念的一神教徒が偉そうなことをいうな。彼らは、けんめいに一神教を克服し超えようとしている。模試もその試みが成功すれば、それは世界中の希望になる。
一神教が怖いことなんか当たり前だが、それを排除すればいいというようなものではない。それを克服し超えてゆかねばならない。お前らみたいなアホと違って世界は今、その難題に挑戦している。
現在の「ヨーロッパの苦悩」に寄り添ってものを考えてみる、ということがなぜできないのか。
多文化共生なんて個人的にはあまり好きな言葉ではないが、世界中の人類の血が混じり合ってしまうこととそれぞれの地域で独自の文化が生成していることは人類史普遍の法則であり、おもしろいことに両者は矛盾しないのですよ。一神教徒が千人二千人入って来ても、現実には「モノカルチュアリズム」に転換することない。相互扶助のミツバチの群れの中にエゴイストが一人入ってきたら、みんなエゴイストになってしまうのですか。ミツバチはミツバチのままだし、日本人は日本人のままなのですよ。古代の大陸文化や移民の受け入れの帰結は平安時代の国風文化だったのであり、平仮名は漢字という基礎がなければ生まれてこなかった。
多文化共生とは、棲み分けつつ連携してゆこうとする思想であり、その基礎原理は「生物多様性」にある。ここでいう「共生」とは棲み分けつつ連携してゆくということであって、別別になることでも同じになることでもない。「マルチカルチュア」か「モノカルチュア」かというような二項対立で考えてもしょうがない。
日本人どうしだって、みんなが同じ趣味思想になるのではなく、それぞれ違いを認め合いながら仲良く連携してゆこうということ。個人と個人の関係だって「棲み分けつつ連携」してゆこうとしている。
同じになるなんてうんざりだけど、連携しないと生きていられない。「カルチャー=文化」とは人々の思考や感性を同じにするものではなく、人々が連携するための触媒である。音楽が好きだといっても、クラシックが好きな人もいればジャズが好きな人もいるし演歌が好きな人もいる。また、クラシックが好きだといっても、ベートーベンが好きな人もいればブラームスが好きな人もいる。文化は、文化であることを自己否定し乗り越えてゆこうとする。そうやって新しい文化や新しい作者がどんどんあらわれてくる。もともとのジャズとは即興の変奏曲=バリエーションであり、そうやってジャズを超えてゆくことがジャズという文化運動だともいえる。大阪なおみは、日本人の変奏曲=バリエーションであるがゆえに、もっとも日本人的であり、人々はそこに「新しい日本人」を見ているのかもしれない。
この世に正しいことなんか何もないという「混沌」を生きるのがマルチカルチュアリズムであり多文化共生主義であり、身体的血統的なルーツとかアイデンティティなんか「カルチャー」でもなんでもない。そうやって我が家は天皇家の末裔だとか朝鮮貴族の末裔だとか平家の落人の子孫だとかと嘘はっぱちを宣言しても許されてきたのが日本列島の伝統の精神風土なのです。
純血日本人を名乗るあなたたちが、どれほど「日本的」であるというのか。純血などどうでもいい、ということこそもっとも「日本的」なのですよ。
日本人が一神教の怖さを知らないのは、一神教すらも攪拌してしまう文化の伝統を持っているからであり、そんなに怖いのなら、そんなに純血が大事だというのなら、おまえら、クリスマスもハロウィンもバレンタインもするな。マルチカルチュアリズムなどという横文字も使うな。中華料理も西洋料理も食うな。キムチも食うな。
そのように多文化を受け入れて移民は受け入れないというのは無理があり、「移民」は、人類の歴史始まって以来の普遍的な生態であり、それはもう、どう「拒否」するかではなく、どう「克服」するかという問題なのだ。
つまり、日本人がそういう無原則的無国籍的な思考や感性を持っているということは、日本人であることを超えようとしているのが日本人である、ということであり、そうでなければ一神教という正義・正論を攪拌してしまうことはできないし、年月や季節とともに移ろい流れてゆくことはできない。
日本列島の古代も中世も明治維新の近代化も、すべて外国文化や移民を受け入れるというかたちではじまったのだし、それらを攪拌しながら新しい国風文化が生まれてきた。
小浜さん、「大坂なおみは日本人じゃない」だなんて、そんな失礼でくそ厚かましいことをいっちゃだめですよ。
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