ちょっと野暮なことを書きます。お許しください。
私は産経新聞の購読者ですが、これは、それ以外の大手メディアがあまりにひどいので、一種の消去法でとっている方策です。けっしてこの新聞を全面的に支持しているわけではありません。いろいろと不満もあります。とはいえ、記者陣営に優秀な書き手が多いことはたしかで、比較相対的にマシな新聞と言えるでしょう。
一面に「産経抄」という有名なコラムがあります。いつも必ず読んでいます。ニュースの取り上げ方の的確さ、限られた字数での文章のさばき方のうまさ、背後に見え隠れする教養の高さなど、なかなか優れたコラムです。ふぬけた「天声人語」など及びもつきません。
そうではあるのですが、何人かの執筆者が入れ替わりで担当しているせいか、やはりすごく決まっていると感じる時、そうでもないと感じる時、こういう切り口はちょっと違うんじゃないかと違和感を感じる時など、いろいろあります。
今回は、これらの最後の場合について述べます。2016年1月22日付のもので、例の軽井沢町バス転落事故について書かれています。冒頭で日本航空第2代社長・松尾静磨の「臆病者と言われる勇気をもて」という名言を取り上げ、次に、昭和41年3月の羽田におけるカナダ旅客機炎上の際、日航機の機長が悪天候に不安を感じて着陸をあきらめた経緯について記しています。
日航機はそのまま福岡に飛んだ。機長は翌日、自らの疲労を考慮して、他の機長に操縦を代わってもらい、客席に座って乗客とともに東京に帰ってきた。松尾が機長の対応を喜んだのは、言うまでもない。
ここまでは大賛成です。問題はそのあと、軽井沢事故と東京都内での観光バスの中央分離帯衝突事故とに言及し、バス業界一般に上記の教訓の大切さをかみしめてもらいたいと敷衍している部分です。最後の部分を引用しましょう。
松尾は毎年元日には、交通安全の川崎大師に参拝に行き、その足で羽田の整備工場の現場に向かっていた。評論家の大宅壮一はそんな松尾を、「祈りの気持ちをもつ人」と呼んだ。安さと便利さばかりが追求される昨今、「祈り」が忘れられている。
最近のバス事故の頻発は、運転手が「祈り」の気持ちを忘れているからではありません。これは要するに、二つの要因に起因しています。一つは、外国人(主として中国人)観光客の激増によるバス不足と運転手不足によって、長時間を要する観光バスの運転に不慣れな運転手が駆り出されていることです。
もう一つは、こちらの方が重要ですが、アベノミクス第三の矢の規制緩和政策によって、低賃金競争が激化して格安料金のバスツアーが続出し、無理な労働を運転手に強いる結果を招いていることです。軽井沢事故でも、おそらく大して高くもない高速料金の節約のためでしょう、正規のルートである信越自動車道から外れて、わざわざ暗く走りにくい碓井バイパスを通っていました。時間調整のためという理由も挙げられていましたが、それならサービスエリアで休憩すれば済む話です。
ここには、バス業界のブラック企業化の実態が浮き彫りになっています。つまり、不況脱却と真逆の政策を採っている政府に最終的な責任があるのです。人によっては、こういう見方を「風が吹けば桶屋が儲かる」式と評するかもしれませんが、ことは、今回の事故にだけ限定されません。政府の進める規制緩和が、事件や事故に直接にはつながらないまでも、中小企業にさまざまな無理を強いていることは明らかなのです。
ところで、こうした現実的・経済的な理由があることはすぐわかるはずなのに、「産経抄」氏は、そのことを見ずに「祈り」の欠落といった精神論、道義論に原因を帰着させています。これは、批判すべき論点を見えなくさせるという意味で、あまり感心できる話ではありません。
産経新聞には、保守系メディアの一特徴として、とかく問題を精神論や道義論で解釈する傾向があるのですが、今回の記事は、その典型的な例と言えましょう。「産経抄」の愛読者の一人として、あえて苦言を呈してみました。
明快な分析に敬服いたしました。あの「祈り」発言は、産経の新自由主義的な半身が不明瞭なかたちでにじみ出てしまったものだったのですね。考えてみれば、産経は親米、親安倍を崩すわけにはいかず、TPP賛成で、労働者派遣法改悪、農協改革法などのアメリカの圧力の所産には頬かむりを決め込んでいますから、そこにねじれが生じてくるのは当然ともいえるわけですね。そういえば、屋山太郎氏のみならず、相変わらず伊藤元重氏や竹中平蔵氏も「正論」欄に登場させています。
上野氏の「ねじれ」については、どうしようもないとしか評しようがありません。フェミニズムはもともとアメリカ流市場原理主義と相性が良かったはずなので、終身雇用制を非難するのはそれなりに一貫していると言えますが、一方で、市場原理主義を強く非難しているというのは、頭がボケてきているからではないでしょうか。これは、朝日新聞が財務省の財政緊縮路線のポチを演じながら、一方で幼稚な反権力主義に酔い続けている構造と似ているようです。左派リベラリズムがボケサヨクばかりになってしまったので、安倍政権の経済政策の間違いと外交政策の失敗についても、きちんと批判できないのでしょう。やれやれ、いずこも同じボケ日本……。
それではまた。
慰安婦問題で部数を落とした朝日新聞が、もはやコアな朝日ファンに媚びる以外に活路を見いだせなくなったせいか、以前にも増してその主張が偏頗となった感がある現在、産経紙上に登場する知識人たちの方が総体的に妥当な主張を展開していることは、明らかだと思えます。
ただ、先生も指摘されるように、私も同紙を手放しで評価することはできません。と言うのも、産経は西尾さんや平川祐弘さんのような伝統主義者の所論を掲載する一方で、屋山太郎氏のごとき狂信的な規制緩和論者を登場させるなど、本質的に対立するはずの保守主義と新自由主義の間でふらついている印象が拭えないためです。
この「祈り」云々の意味不明な論説も、産経のそうした二股膏薬的姿勢がなさしめたものではないかという気がします。産経の半身というべき伝統主義=反規制緩和の立場に立つなら、法律改正による規制枠組みの強化と、地方運輸局の担当官増員によるバス監査の充実といった施策を主張すべきだと考えますが、同紙にとってもう片方の半身であるリバタリアニズムが、それを許さなかったのではないでしょうか。
そうした矛盾への苦し紛れの対応が、件の筆者を先生が指摘されたごとき空疎な精神論、道義論へと逃避させた。私の粗雑な印象論にすぎませんが、そんな気がいたします。
むろん、そうした分裂はひとり産経新聞のみの問題ではなく、朝日新聞も同様です。つい先日、中野剛志さんがこうした日本の左右両派の間の思想的なねじれを指摘していましたが、日本の左翼は新自由主義=リバタリアニズムと親和的なので、TPPにも好意的だったりするわけですけれども、一方では稀に朝日の紙面に佐伯啓思さんが登場したりすることからして、朝日にも少数とはいえ右派の思想に親和感を抱く人がいるということでしょう。
そういえば最近、上野千鶴子女史が、濱口桂一郎氏経由で欧米=ジョブ型VS日本=メンバーシップ型の雇用形態の相違に(やっと)気が付いたらしく、日本型終身雇用こそ女性差別の元凶だと鼻息を荒くしているようです。彼女はその一方でアメリカ的市場原理主義を強く非難しているのですが、ジョブ型への転換が日本のアメリカ化を促進する可能性には無自覚どぁるようですが、こうしたねじれもつくづく困ったものだと思います。
組織(大きければ大きいほど)内の思考or嗜好の流れが多数に引き摺られてしまい、抗うことが困難なことが今の政府をみてよく解かった気がします(解かった気になっているだけかもしれませんけど)。
以前、民社党系労組(その頃から労組の議案書にもグローバル化の文言が踊っていました)で熱を上げていた自分(まぁ凡庸な脳足りんですけど)も、執行部の議案に対して何のマクロ的な疑問など抱くこともなかったですから。
グローバル化がデフレを拡大させる政策だと解かっていれば、それと思える文言が総理の(己の言葉による)発言のすみから少しでも出てもいいと思うのですが、いまだに発見できません。
日本人自体がコンクリートな糞生真面目なのか・・・・?
(貧弱な表現文でまたも失礼しました)
おっしゃること、よくわかります。
安倍政権で評価できるのは、軍事的な安全保障対策だけでしょうね。
なぜこんなことになってしまうのか、いろいろと考えているところです。もちろんバカ官僚や「民間議員」と称する連中の跋扈という事態が一番問題なのですが、一強多弱で安倍依存体質が作られてしまったために、国会議員のなかにニヒリズムの気分が蔓延して、責任を放棄していることも大いに問題だと思います。
あげくの果ての狂っている(あるいは正真正銘のバカ)としか思えないデフレ下でのTPP、
戦後レジームからの脱却や改革と言う言葉を発しながらも、
総理(および多数派エリート)がやっていることは、中曽根時代いや戦後から何ら変わっていないことだらけです。
戦後レジームと言う言葉の意味を理解して使っているとは思えません。
そもそも考えたことがあるのでしょうか。
最近もう、ジミー・安倍三世の早口の声は聞きたくなくなりました。