小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源11

2013年11月14日 18時12分26秒 | 哲学

倫理の起源11




 プラトン批判を続けます。

『パイドロス』を見てみよう。ここでは、プラトンの詐術はさらに手が込んでいる。
 この作品は、次のようにして始まる。
 パイドロスが、信服しているソフィストであるリュシアスが書いた文書を、ソクラテスに向かって読み聞かせる。その内容は、「少年は、恋をしている人に身をまかせるよりも、恋していない人に身をまかせる方がよい」という逆説的な思弁である。
 いわく、恋をしている人は、とかく肉体的な欲望のために目が曇らされるから、その当座は、恋人に対して自分を気に入ってもらおうと、甘い約束をしたり、褒めるべきでないことも褒めそやしたり、言いなりになったりするが、ひとたび恋が冷めると、そうした自分の態度を後悔して容易に態度を変える。しかし恋していない人にはそういうことは起こらず、最善のことがらや悪いことがらに対する正しい判断力を持って少年に接するので、少年も優れた人間になれるはずである。
 また、少年が、優れた人を選ぶのに、自分に恋をしていない人のほうが数が多いから、自分の愛情に値する人に出会える公算が大きい。さらに、恋をしている人は、その恋人を独占しようとして、嫉妬にさいなまれ、自分よりも優れた人や財産を多く持つ人を恋人から遠ざけようとする。そのため少年は孤立したり、多くの人を敵に回すことになったり、当の相手と仲違いしたりする。だが恋していない人は、そのような嫉妬に悩まされることはないので、他の人びともその少年と交わることができ、そこに友情が生まれる望みが大きい。
 したがって、身をまかせてしかるべき相手は、ただ恋い求める人たちではなく、身をまかせるだけの値打ちのある人たちである。少年の若盛りを享楽しようとする人たちではなく、少年が年をとった後も、自分が持っているよき徳性を分け与えてくれるような人たち、恩返しをする能力がいちばんある人たちなのだ……。
 リシュアスの文書は、少年が年長者に身をまかせる場合には、少年への恋に目がくらんで欲望の虜になってしまうような人ではなく、ほんとうに自分を正しい道に導いてくれるような、分別と冷静さと節操をわきまえた人(つまりリシュアスその人であるような人)を選ぶべきで、そのためには、自分に熱い恋心など寄せていない人のほうがよいと説いている。要するに、普通のやり方の裏をかいた巧妙な口説き文句と言えるだろう。
 もちろんこれは単なる口説き文句ではない。ここには同時に、はっきりと書かれてはいないが、前に述べたのと同じような、ポリス公共体への倫理的な配慮がはたらいている。善き公共体を維持するためには、世代から世代への正しい理にかなった知識の伝達が必要だが、それは年長者と少年との私的な交わりを通して行われるほかないので、すべからく若い世代は、恋に溺れて分別を失った年長者に籠絡されてはならず、慎重に優れた相手を選ぶべしというのである。
 さて、これを聞かされたソクラテスは、パイドロスから、これと同じ知恵でもっと内容豊かで価値のある話ができるなら、それを語ってくれと強引にせがまれ、同趣旨で別ヴァージョンの話をする。この話には、リシュアスのそれと比べて、取り立てて異なる観点のものは盛り込まれていない。ただ、いつものソクラテス(プラトン)の流儀で、論じようとする対象(恋)が何であるかを明確にイメージ・アップした上で、あえてその悪いところを取り出して強調し、その行き着くところを順に述べ立てていくという、よく整理された方法を採っている。
 ソクラテスは、恋とは(美しいものに対する)ひとつの欲望であり、恋をしていない者でも美しいものに対して欲望を持つことがあると指摘した上で、それでは恋をしている者としていない者とは何によって区別したらよいのかと問いかける。そして人間のうちには生まれながらに備わる快楽への欲望と、最善のものを目指す後天的な分別の心という二つの力がはたらいていて、この二つの力が互いに相争って、快楽への欲望がうち勝つときには、「放縦」と呼ばれる状態になる。逆に分別の心がうち勝つ場合には、それは「節制」と呼ばれる。ソクラテスは、後者が「恋をしていない者」の状態を表していると言いたいのであろう。
 このあとは、欲望に支配され快楽の奴隷となっている者が、自分自身や恋人にいかに悪影響を与えるかが、リシュアスの議論よりもむしろ厳しく列挙されている。
 さて「恋をしている者」の有害さがひとわたり述べられた後、ソクラテスは、突如話を打ちきって、パイドロスから逃げるように、目の前のせせらぎをわたろうとする。パイドロスがもっと話してくれと引き止めると、ソクラテスは戻ってきて、自分がいま川向こうに行こうとしていたときに、「お前は神聖なものに対して罪を犯しているから、みずからその罪を浄めるまでは立ち去ってはならない」というダイモーンの命令を聞いたように感じたと言う。神聖なものとは、すなわち「エロス神」である。いやしくも神の名をもつものが、自分たちがいま話していたような悪いものであるはずがない。だから自分の身を浄めるために、この神を称える別の話「パリノーディアー(取り消しの詩)」をしなくてはならないというのである。
 見逃しがちだが、このくだりに次のようなソクラテスのセリフが挟まれている。プラトニズム的な「恋」の考えがよく暗示されている箇所なので、読者の方はよく覚えていてほしい。

 じっさい、ここにもし一人のけだかくおだやかな品性の人がいて、もう一人の同じような品性の人を恋しているか、あるいはかつて以前に恋したことがあるとする。この人がまたまた、ぼくたちの話を聞いていたと想像してみたまえ。恋する者はつまらぬことで腹を立てて強い憎しみをいだくものだとか、愛される少年に対して嫉妬ぶかく、害毒をあたえるとか言っているのを聞いたら、なんと思うだろう。その人はきっと、何か船乗り仲間の間にでも育って、高貴な恋というものを一度も見たことのない連中の話を聞いているのだと、考えずにはいられないだろう。

 さて、ソクラテスはまず、狂気というものが無条件に悪いものだなどということは言えず、われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、最も偉大なものはみな、神から授かった狂気を通じて生まれてきたと説く。例として、神々に憑かれたときの予言者たちの言葉が正しかったこと、疾病や災厄が氏族を襲ったときにそれを救ったのがやはり神に憑かれた狂気であったこと、さらに、詩人たちはみな、ムゥサの神々から授かった狂気によって詩作したことが挙げられる。そして、恋という狂気もこよなき幸いのために神々から授かったのであって、そのことは真の知者であれば信じられるであろうとされる。
 次にソクラテスは、魂の不死についての短い証明を行う。「魂はすべて不死なるものである。なぜならば、常に動いてやまぬものは、不死なるものであるから」
 また魂は自分で自分を動かすものであり、そのようなものは「動」の始原として、滅びることも生じることもない。ゆえに、魂は不死である……。
 ちなみに魂の不死の証明は、『パイドロス』よりも前に書かれたと推定される『パイドン』で詳しくなされているが、いずれの作品における「証明」も十分な説得力を備えたものとは言えない。論理学的に言えば、すべては論点先取の誤謬か、単なる同義反復に陥っている。だが『パイドン』に関しては、後に譲ろう。
 ともあれ、魂がはたして「常に動いてやまぬ」ものであるかどうか、また自分で自分を動かす「動」の始原と見なせるかどうかは、魂という主語の概念がどう規定されるかにかかっており、その規定はまた、ある言語を用いる共同体の間で、その言語(ここでは「魂」)がどのようなものとしてイメージされているかに依存している。
 魂が不死であるかどうかは、魂という主語のうちに、自己原因的であったり、動いてやまぬものであったり、「動」の始原であったりといった述語(特性)があらかじめ包摂されており、その包摂されている事実を、共同体が疑い得ない「信」として認めているかどうかにもとづいている。魂という「言語」が、それを流通させている共同体の中で、そのような「信」を与えるだけの力を秘めているかぎり、証明をまたずして魂は不死なのである。
 したがって重要なのは、「魂」という言葉の存在の力を、私たちがそのような特性をあらかじめ含みもつものとして信じるかどうかであって、証明の可否そのものは、ここでは重要ではない。ソクラテス‐プラトンの時代には、このような「信」があまねく存在したにちがいなく、それゆえソクラテスは、その「信」を基盤として安んじて証明を行うことができたのである。
 次にソクラテスは、魂の本来の姿について、ひとつのたとえ話を持ち出す。ここから、この作品の白眉ともいうべき、天空と天外を翔る神々と人間たちという雄大なミュートスが語られる。
 魂は、翼を持った馭者と二頭の馬にたとえられる。人間の場合には、片方の馬はできがよく馭者に忠実だが、もういっぽうの馬はできが悪く、馭者の言うことをなかなか聞こうとしないじゃじゃ馬である。
 さてゼウスを先頭とする魂の一団は天空を行進するが、饗宴の時が来ると彼らは穹窿の極みまで登りつめようとする。しかしそこは道が険しい。悪い性質の馬は馭者を下の方に引っ張るので、魂には激しい労苦と抗争とが課せられることになる。
 不死の魂は極みまで登りつめると、天球の外に出て、天外の世界を観照する。天外の世界に位置するのは、感覚ではとらえきれず知性のみが見ることのできる「イデア」(真実在)である。真実の知識とは、みな、このイデアについての知識である。
 神々の魂はすべてこれらのイデアを観照することができるが、人間たちの魂は、馬に煩わされるため、神の行進についていこうとしながら力およばず、互いに先に出ようとして激しく争い合う。その結果、彼らは真実在の世界をわずかに垣間見はするが、翼を傷つけられはなはだしく疲れて、地上に落下し、何らかの個体を受肉することになる。翼を失って落下したこれらの魂は、手綱さばきの違いに応じて、より多く真実在に触れることのできたものもあれば、ほとんど触れることのできないものもあった。彼らは、天空外の真実在に触れた度合いに応じて、人間界でのその最初の生き方が決められる。その序列は次のようになっている。

 真実在をこれまでに最も多く見た魂は、知を求める人、あるいは美を愛する者、あるいは楽を好むムゥーサのしもべ、そして恋に生きるエロースの徒となるべき人間の種の中へ――
 第二番目の魂は、法をまもり、あるいは戦いと統治に秀でる王者となるべき人の種の中へ――
 第三番目の魂は、政治にたずさわり、あるいは家を斉え、あるいは財を成す人の種の中へ――
 第四番目の魂は、労苦を愛する体育家、あるいは肉体の治療にたずさわるべき人の種の中へ――


 以下このようにして、第五番目として、占い師や宗教家、第六番目として、劇作家や俳優、第七番目として、職人や農夫、第八番目としてソフィストや民衆扇動家、最下位として僭主というように、九番目までが定められている。そしてそれぞれの魂は、自分たちがそこからやってきたもとの同じところへ帰り着くのに一万年かかるのだが、一つだけ例外があって、「誠心誠意、知を愛し求めた人の魂、あるいは知を愛する心と美しい人を恋する思いとを一つにした熱情の中に、生を送ったものの魂」が、千年ごとの周期がめぐってきた際に続けて三回そのような生を選んだならば、それによって翼を生じ、三千年で天上に去ることができるというのである。
 読者は、ここでもプラトンの微妙な言い方に注意してほしい。
 真実在を見た程度の大きさによって分類されている魂の序列について語ったはじめの部分においては、この、知を愛する人と単に恋する人とは、同一視されず、「知を求める人、……そして恋に生きるエロースの徒」というようにただ並列されているだけである。ところが、そのあとのくだりでは、例外的に天に昇ることができる資格を持つ優れた魂とは、「誠心誠意、知を愛し求めた人の魂、あるいは知を愛する心と美しい人を恋する思いとを一つにした熱情の中に、生を送ったものの魂」であるとされている。
 つまり、単に恋に生きた人は、この資格から外されているのである。「知を愛し求めた人」か、あるいは「知を愛する心と美しい人を恋する思いとを一つにすることのできた人」だけがその資格がある。美しい対象に恋をするにしても、そこに「知への愛」がともなっていなければ、何ものでもない。そう読めるのである。
 ここには、『饗宴』におけるソクラテスの教説と同じ構造をした詐術が読みとれる。はじめの列挙の部分を素直に読めば、知への狂気的な愛にせよ、美しい肉体への狂気的な愛にせよ、いずれもその狂気を神々から授けられた者として、それぞれが祝福されてしかるべきである。ところがプラトンは、そう言うと見せかけて、じつはその狂気性が知への愛や善のイデアを志向する傾向を合わせ持っていなければ、祝福される資格は与えられないと言っているのだ。これが単なる恋愛賛美でないことはたしかである。
 ここで読者は、先に注意を促しておいた一節を思い出していただきたい。そこにはこう書かれてあった。

 じっさい、ここにもし一人のけだかくおだやかな品性の人がいて、もう一人の同じような品性の人を恋しているか、あるいはかつて以前に恋したことがあるとする。この人がまたまた、ぼくたちの話を聞いていたと想像してみたまえ。恋する者はつまらぬことで腹を立てて強い憎しみをいだくものだとか、愛される少年に対して嫉妬ぶかく、害毒をあたえるとか言っているのを聞いたら、なんと思うだろう。その人はきっと、何か船乗り仲間の間にでも育って、高貴な恋というものを一度も見たことのない連中の話を聞いているのだと、考えずにはいられないだろう。

 ソクラテス(プラトン)は、恋する人の貴賤を峻別している。「けだかくおだやかな品性の人」は、「船乗り仲間」のような、当時においては下賤な身分とみなされていた人びとの恋とはまったく違って、「高貴な恋」をするのだと言い切っている。
 私はこの指摘をもって、プラトンが差別意識の持ち主だったなどと、つまらぬことを言いたいのではない。時代を考えればそんなことは当然であって、問題とするに足りない。そうではなく、これらの記述によって、プラトンが、いわゆる恋愛に耽る人と、知を愛し真理を求める人とを、それらが共に狂気性をその内在的な媒介としているという共通点によっていったんは結び合わせておきながら、しかもその上で、感覚を頼りとした地上の恋愛における狂気と、思惟を通してしか発揮されない愛知における狂気とを、じつは明瞭に区別していると言いたいのである。


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