小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

テロとグローバリズムと金融資本主義(その1)

2015年12月06日 16時06分45秒 | 政治

      



 11月13日に起きたパリ同時多発テロに関するマスコミの論調は、どれも痒い所に手が届かない印象があります。なぜこうした事件が世界で頻発するのかという問いかけはしきりになされているのですが、それに対する答えが、ISの過激な戦闘性とその巧みな情報・勧誘戦術、パリなどヨーロッパにおける大都市でのムスリムに対する差別、イラク戦争や「アラブの春」以降中東・北アフリカに引き起こされた混乱、空爆に対するテロリストグループの報復、ヨーロッパ各国に常住するようになった移民二世、三世の若者たちのISとの往復活動など、いずれも現象面の説明にとどまっていて、根本的な原因の指摘になっていません。
 ここ近年の、中東・北アフリカ・ヨーロッパ地域を中心としたテロや紛争の頻発、拡散は、世界史の大きな転換を象徴しています。何が変わりつつあるのか、またそれはなぜなのか、対岸の火事とは言えない私たち日本人にとっても、これはきちんと考えておくべき重要な課題です。
 もちろん、これらの地域が第一次大戦勃発の昔から、ヨーロッパの火薬庫であったという特殊性を見逃すことはできません。それは第一に、地政学的な近接地域間の緊張関係でした。またヨーロッパも含めたこれらの地域は、宗教上の近親憎悪を繰り返してきた歴史を背負っています。さらにこれらの地域は、互いに境を接しながらも、世界に先駆けて豊かな近代化を成し遂げた地域と、対照的に近代化に大きく立ち遅れた地域とに分断されているといった事情もあります。この事情が前者をして後者を帝国主義的侵略と植民地化の恰好の標的にさせてきたわけです。これらの関係史を共有しない日本では、今でもヨーロッパ(ロシアを含む)に比べて、「火薬庫」の直接的な影響が相対的に弱いものであることは否めないでしょう。
 しかし、今やこの「火薬庫」の力が、かつてにも増して地球の隅々にまで広がりつつあることは明瞭です。そればかりではなく、その「火薬庫」それ自体のもつ意味がかつてとは変質しつつあります。それは単に、地球が狭くなったために、人の集まる賑わい豊かな都市ではどこでもテロが起こりうるようになったといった変化を表しているのではありません。ではそれはどんな質的な変化であり、いったいなぜそのような変化が認められるのでしょうか。
「火薬庫」は今では、現実の火薬の爆発や殺傷の危険を秘めた場所だけを意味するのではなく、一つの象徴的な意味、日々の生活において私たちの大切にしているものをじわじわと破壊してゆく見えない動きという意味を担うようになったのです。それはむしろ「携帯(させられてしまった)化学兵器」あるいは「庭先やベランダに遍在する地雷」とでも呼ぶべきかもしれません。その心は、私たちの生産、消費、物流、情報交換などの生活活動そのものの中に常に、爆発の要因が深く埋め込まれるようになったということです。
 なるほど一部の過激集団のテロ行為が世界各地で頻発するようになれば、そこに誰もが注意を集中し、人々の安全を守るためにそのつど厳戒態勢を敷いてテロの危険を防止しなければなりませんし、またその過激集団と闘うために有効な軍事的対応を行うこともぜひ必要でしょう。もちろん日本もその例外ではありません。
 ちなみに、報復の連鎖を避けるためにテロリストとの対話を、などと、安全な場所にいてノーテンキなことを言っている日本人がこの期に及んで相変わらずいるようですが、国際情勢に対する無知、歴史的な現実に対する無知、いえ、人間一般に対する無知も甚だしい。そういうことをのたまう人は、口先だけでなく、まず自分が率先してISなどとの接触行動に踏み出すべきです。何とかは死ななきゃ治らないとはまさにこのことです。
 それはともかく、突発的でショッキングな事態だけに目を奪われていると、それに対する情緒的な動揺に意識を支配されて、じつはそれらの現象が、日常的に埋め込まれて私たちの生活をむしばむ「携帯化学兵器」と共通の原因に根差すものだということが見えなくなります。ただテロの脅威から身を守ったり、現下の一部勢力に積極的な武力攻勢をかけるだけでは、この共通の原因をなくすことはできないのです。
 その共通の原因「携帯化学兵器」とは何か。言うまでもなくグローバリズムであり極度に肥大してしまった金融資本主義であり、それをイデオロギー的に支える新自由主義です。
 まず当のテロリズムの頻発と、これに並行して起きている紛争地域からの大量の「難民」の問題について考えてみましょう。これらはもちろん政治的・軍事的な問題なのですが、その政治的・軍事的問題に不可分なかたちで、ヒトや情報の移動を含む経済的問題が張り付いていることがわかります。
 周知のように、EU(欧州共同体)は、シェンゲン協定、ダブリン協定などによって、早い時期から域内移動の自由と移民の受け入れを推進してきました。これは一見、異国、異民族、異教徒に対する相互の寛容を旗印にしているように見えますが、本音では利益最大化と安価な労働力の獲得を目論んだ市場原理主義という経済的な意図に基づくものです。
 その証拠に、移民を大量に受け入れた国ではどこでも、労働者の低賃金と高い失業率とに悩んでおり、かたや大企業の経営者や大株主は国境やEU圏を超えて巨富を稼いでおり、貧富の格差は拡大する一方で、しかも全体としては長期的な不況に苦しむ有様です。また難民の側も「豊かで寛容で自由で仕事にありつけるヨーロッパ(特にドイツ)」という幻想を抱き、我も我もと欧州を目指します。この「民族大移動」に、さすがの「寛容と自由」の理念も音を上げ、各国は次々に障壁を築いて難民の受け入れを拒否あるいは規制し始めました。シェンゲン協定およびダブリン協定は無効化し、EUの合意事項の重要な一角はすでに崩れたのです。各国内にはこのナショナリズムへの回帰を支持するさまざまな政党あるいは政権が勢力を伸ばしつつあります。
 以上がEUあるいはユーロ圏という域内グローバリズムの自ら招いた結果なのです。それは、第二次大戦中に現れた極端な排外主義と差別主義への反省と、覇権国家アメリカに経済的に対抗して強いユートピアを作ろうとする意図に根差した「理想」の産物だったのですが、これはもはや羹に懲りてなますを吹くEUパワーエリートたちの「空想」に終わったというべきでしょう。ユーロ圏に属するギリシャが自国の通貨や国債を発行できず、多額の負債を抱え、しかも緊縮財政を強いられて国民生活を窮地に陥れているのも、まさにグローバリズムと行き過ぎた金融資本主義の結果です。
 行き過ぎた金融資本主義とは、資本の自由な移動をあまりに認めてしまった事態を指します。中国のように為替市場の自由を認めず、管理変動相場制を採りながら人民元のSDR化を獲得してしまったのも困りますが、要はバランスの問題です。資本の移動の自由をあまりに認めてしまうと、企業は資金を設備投資や人的投資に回さずに内部留保を蓄積してその運用や株主の利益ばかりに配慮するようになります。それは生産活動をおろそかにして実体経済をやせ細らせる結果を招くのです。これはEUに限らず、グローバル化した世界全体でいま現に起きている事態です。
 パリのみならずロンドンもニューヨークも、富裕層と貧困層、異なる人種どうしの住み分けが進んでおり、「自由」や「人権」など、その麗しくも抽象的な建前とは裏腹に、差別や排外感情や怨嗟や敵愾心が鬱積しているようです。経済的帝国主義の歴史は、いまなお続いています。それが必ずしも隔たった地域間における矛盾という形で現れるとは限らず、一つの都市の近接した地域や、貧困地域の中で目立つ高級リゾート地などで噴出することが可能となったのです。
 パリ同時多発テロ事件は、あの暴動に始まるフランス革命の再現の予兆であると言ってもけっして大げさではありません。生粋の裕福なパリジャン、パリジェンヌは、トリコロールやラ・マルセイエーズがかつてその手元に必ず銃口を具備していたことを思い出し、今度はその銃口が自分たちに向けられているということに早く気づくべきです。
 EUは早晩自壊してゆくでしょう。さらなる混乱を避けたいと思うなら、ヨーロッパ各国は再び国家の壁の中に引きこもって、それぞれの政治的・経済的主権を回復する以外に手はありません。それは時間の問題であり、EU首脳は、早く自分たちの失敗を認めるべきなのです。また、中東地域の紛争やそこを水源とするテロリズムは、世界資本の分配に関する何らかの平衡が達成されるのでない限り、解決を見ることはあり得ず、情報社会の利点を活かしてますます世界に拡散していくほかはないでしょう。