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Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

西本幸雄さん、逝く

2011-11-26 12:19:24 | 他スポーツ
スポーツ紙の一面に、プロ野球のかつての名監督、西本幸雄さんの名前が出ていたので、気になってネットで調べたら訃報でした。日本シリーズに8回出場しながら一度も勝てなかったので、「悲運の闘将」と呼ばれた名監督でした。

今回、西本監督の実績がスポーツ紙で語られていますが、西本監督は大毎、阪急、近鉄とパリーグ一筋の監督だったので、セリーグのチームの快挙に敵として居合わせた監督というイメージがあります。一番最近では1979年の広島が日本一になった「江夏の21球」のときの相手チーム、近鉄の監督でした。

そんな西本監督は私はリアルタイムで見ている監督ではありませんが、弱小チームを強くした育成型監督だったようです。私が物心ついたときは既に強豪だった阪急も、西本監督の就任の前は弱小チームだったそうです。

福本、山田久志、加藤英司ら後に名球会入りする選手も西本監督の下で育ちました。ただ、この阪急時代は不運なことに、川上監督率いた巨人のV9時代でした。何度日本シリーズに挑んでも巨人に勝てなかったことが「悲運の闘将」と言われた所以だったのでしょう。

初優勝は1960年の大毎時代でした。このときは大毎は強力打線を持っていた強豪で、対戦相手は名将三原監督が率いるものの、日本シリーズには慣れていない大洋で、試合前は大毎有利の評判でした。

しかし、当時若手監督だった西本監督は、魔術師とまで呼ばれた三原監督の前にまさかの4連敗で、これが原因で大毎の監督を解任されます。このときは一度きりの不運かと思われましたが、まさか8回も日本シリーズに敗れるとは悲運とも呼ばれる訳です。

もっとも、西本監督本人は日本シリーズに8回出場したことの方を誇っていて、「私は悲運ではない。いい選手に出会えて8度も優勝できた。」とインタビューには答えていました。日本シリーズに敗れたことで主役にはなり損ねましたが、一時代を作った名将の一人だったと思います。
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トップ専門の俊足(永井謙佑)

2011-11-26 10:46:20 | 他チーム
今日は所用でブログを更新できないかもしれないので、穴埋めネタを用意しておきます。ちょうど五輪予選の期間なので五輪代表から選ぶと、一番目立つ永井謙佑選手(名古屋)になります。

永井は福岡大時代から大学No.1ストライカーとして有名で、Jリーグ入りのときは数チームの争奪戦の末に名古屋を選びました。50m5秒台の俊足で、名古屋入りのときはいつか海外への野望も持っていました。

しかし、私もサッカーファン歴が長くなってきたので、俊足だからといってウイングができるとは限らないし、逆に俊足のウイングをトップに回すと意外と駄目というケースも見てきています。

名古屋というチームがウイングを両サイドに置いた4-3-3でリーグ優勝を果たした次のシーズンだっただけに、永井にはウイング的役割を期待したと思います。しかし、真ん中がプレーエリアの永井はウイングは向いておらず、永井を入れるときはケネディと2トップで入れることが多いです。

俊足ではあるもののウイングには向いていないのは五輪代表の使われ方でもわかり、ベンチに置かれたときは大抵1トップの選手と交代で入ります。ストライカーとアタッカーは違う絶好の例です。

どうしてそうなのかがわかるほど、私は名古屋の試合を見ていませんが、一度見たときにクロスを大きくふかしたプレーを見ており、ケネディの頭にピンポイントで合わせられるほどロングキックの精度が高くないのかもしれません。

こういうタイプは点を取って結果を出すことが求められます。そういう意味ではまだ海外うんぬんは口にできず、五輪予選でも名古屋でも点を取ってアピールしなければいけません。

ロンドン五輪本大会に出れば欧州のスカウトは来ていると思うので、ここで結果を出せば可能性はあると思いますが。
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