内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

老人を脱社会化しないためには ― 中井久夫「世に棲む老い人」を読んでの感想と反発と疑問

2024-05-21 08:08:05 | 読游摘録

 「世に棲む老い人」が書かれたのは1987年である。当時中井久夫は53歳。まだ老い人ではない。精神科医として多くの老人患者を診てきたであろうが、我が身のこととして老年を考えるにはまだ早すぎる年齢だ。だからだろうか、老い人を対象として見ている記述が目に付く。もちろん老い人に寄り添って考えようとする姿勢が基本にはあるが。

今後の老人を巡る社会的課題は、老人を脱社会化しないことである。青年の課題が社会への加入であり、その失敗を統合失調症に見ることができ、中年の課題が硬直的ないしは過度の社会化に抗して自分を維持することであって、その失調をうつ病に見ることができるとすれば、老人の課題は社会につながることであり、その挫折を老年期認知症に見ることができるかもしれない。(233頁)

 青年や中年の課題とその挫折、それに伴う特定の精神疾患の発症について、このように図式的にまとめることは現代社会ではできないと思う。それに対して、老年期における社会とのつながりの挫折が認知症を引き起こす大きな要因の一つであることは現代においても通用する認識だろう。
 では、老人を脱社会化しないためにはどうすればよいのか。老人がなお新たな経験に対して開かれた存在であることを周囲が認めることだと中井は言う。そして、老人がそうであるために周囲がわきまえているべき老人の条件として次の三つを挙げている。
 第一には、新しい事物や環境への順応に時間を要することである。逆にいえば、時間をかければできる体験は予想外に多い。実際、PCやスマートフォンを巧みにそして適度に使いこなしている老人は少なくない。それらを味方にできれば、日常生活もより快適になる。生成AIもそうだ。
 第二には、同じ意味で、衝撃や疲労からの回復に時間がかかることである。回復しないうちに第二のストレスに曝さないことが重要である。回復時間の長さは個人によるし、年齢だけにはよらないとは思うが。
 第三には、老人の価値体系からはどうでもよいことを重視したり、強要しないことである。
 この第三の条件が私には今ひとつよくわからない。具体例が挙げられておらず、老人にとってどうでもよいことが何なのかイメージが湧かない。自分がれっきとした老人であるにもかかわらず、である。
 「老人は若い時の記憶が鮮明で、最近の記憶が薄い」とさも自明のことのように中井は言うが、私の感想は「はて?」である。人によるのではないかと思うからである。少なくとも私自身に関しては、若い時の記憶が最近の記憶より鮮明だということはない。言い換えると、鮮明か不鮮明かは時の隔たりと必ずしも対応しない。
 老人の昔の記憶は社会にとって資産価値があるというのも無条件に言えることだろうか。私たち戦争を知らない世代が、戦争を我が身で経験した世代の体験に謙虚に耳を傾けることの大切さはわかる。しかし、中井が「世に棲む老い人」を書いた1987年と現在とには37年の隔たりがある(奇しくも、この隔たりは前クールで評判になったドラマ『不適切にもほどがある!』の設定とほぼ一致する。単なる偶然ではないかもしれない……)。
 その当時の65歳は1922年生まれである。まさに戦争を生きた世代であり、この世代には戦死した若者も戦争の犠牲者も多数いた。現在、戦争体験を語りうるのは、それが幼児体験だったとしても、80歳以上の老人である。成人として戦中を生きた人たちとなればもう百歳前後、あるいはそれ以上である。これからの問題は、戦争体験も原爆体験もない世代がどのようにそれら前世代の体験を語り継ぐかということであり、このような困難を私たちは今まで経験したことがない。
 他方、私には自分の若い頃の体験が今後の社会にとって資産価値があるとはまったく思えない。過去が急速に無価値化され、世代間の分断が修復困難なまでに深刻化しているのが現代ではないだろうか。PCもスマホもタブレットがなかった時代のことを孫の世代に語ってそれが何の「役に立つ」のか。
 上掲の三つの老人の条件がよく理解されている社会では、「老い人は、多くの別離をこえて、なお新しい経験にひらかれることができる」(234頁)。それはそうかもしれない。だが、次のように言われると、正直、引く。「若い時のかたくなな因果的・体系的思考にかわって、脱構築的なものの見方が優位を占めうる」(同頁)。そもそも若い時に因果的・体系的思考を徹底したことがある人がどれだけいるのか。その徹底性なしに脱構築もあったものではない。これは単に1980年代以降に現れた問題ではなく、近代日本精神史全体を覆う深刻な問題なのかもしれないが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


拙ブログのランキングの爆上がりに一驚する

2024-05-21 02:37:17 | ブログ

 いやー、驚きました。って、拙ブログの昨日のランキングのことです。なんと全体の9位、pv が 14941、uu が 8743 という、まったく信じがたい数値がアクセス解析に表示されているではありませんか。
 2013年6月2日に開始以来11年間毎日投稿してきましたが、おおよそ pv が 800 から 1000 の間、uu が 500 から 800 の間、ランキングはずーっと1000番前後を行ったり来たり、2年前に250番台を記録したことが一度だけありましたが、それ以外は、良く言えば「コンスタント」、悪く言えばまさに「十年一日の如し」で、我ながらよくもまあ代わり映えのしないことを飽きもせず続けているものだと妙な関心の仕方をすることも度々あったほどです。
 この爆上がりの理由はわかっていて、一昨日の「日曜の朝、閑静な住宅街の車道を優雅に散歩する白鳥たち」という記事が goo blog スタッフのお目に止まり、ありがたいことに「いいね」を押していただけたからです(11年間で初めての「快挙」です)。やはりその威力は絶大で、この記事だけで 12881pv が昨日一日だけであったのです。
 言い換えれば、それがなければいつもと大差ない結果に終わっていたことでしょう。ですから、明日のランキングは「平常通り」に戻るだろうと予想されます。
 それにしても、この機会に拙ブログをご訪問くださった方々には厚く御礼申し上げます。それにもまして、長年に亘って読み続けてくださっている読者の方々には、この場を借りまして、改めて心より感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げる次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人生別離の諸相、それらを「あきらめる」とは ― 中井久夫「世に棲む老い人」を読んで想うこと

2024-05-20 16:56:46 | 読游摘録

 昨日の記事で紹介した中井久夫の「世に棲む老い人」を読んでの感想を書きつける。そのごく一部についてである。明日の記事でも別の部分を取り上げる。
 中井は「人生の前半の課題は挑戦であり、後半の課題は別離である」というテーゼに言及し、それは「おそらく正しい」と言う。そんな単純なものではないと思うが、今、このテーゼの当否は措く。
 この文脈で「別離」という語はとても広い意味で使われている。所有していたものとの別離だけではなく、「所有しなかったもの、たとえば若い時に果たせなかったことへの悔恨からどう別離するかということもある。もはや果たすことはないであろう多くのことへの別離である。」(230頁)この別離がうまく達成できるとはかぎらない。その場合、晩年悔恨に苛まれ続けることになろう。
 日々新しい別離が発生する。「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」(井伏鱒二『厄除け詩集』「勧酒」より)。
 肉親との死別、身近な人の死、さまざまな関わりのあった人との別れ。死別とは限らない。もはやこの関係から新しいものは生まれないであろうとの予感とともに「心の別れ」もある。物事との別離もある。住み馴れた場所を離れること。長年働いた職場を去ること。大切にしていたものをなくしたり、壊してしまったりして、別れざるを得ないときもある。
 自分自身との別離もある。体が若い頃や壮年期のようにいうことを聞いてくれなくなる。サルトルはこれを自己の「他者化」と呼んだ。言い換えれば、「他者」となった自分との付き合いが始まることでもある。悪いことばかりではないかも知れない。それはともかく、私たちはかつての自分との別離も人生の中で繰り返す。若き日に掲げた目標、青年期から抱き続けてきた夢、長年の習慣、これらを失うことも別離だ。
 「実際には、老人はさまざまの手段を駆使して、これらの別離に対処する」(231頁)。というか、抗う。若作り、スポーツ・ジムやカルチャーセンター通い、恋愛(?)などなど。撤退(引きこもり)もある。大きすぎる現実の衝撃には、事実上「認知症」への撤退までありうる。「連れ合いをなくした直後に老年期認知症の顕在化することはありふれた事実である」(232頁)。
 「これらの心理的手段には、それぞれの有効性があり、それぞれの失調があり、袋小路がある」(同頁)。中井が言うとおり、そのいずれかにあまりに執着しないのがよいのであろう。これらの手段が、「あきらめ」と「ありのままの自分をそれなりに肯定すること」へと通じる路をふさぐほどでないことがのぞましいというのもそのとおりであろうと思う。
 この直後に、中井は、「「あきらめ」自身が「あきらかに見る」という意味を持っている(土居健郎)」と言っているのだが、出典を示していない。あるいは談話中の土居の発言かもしれない。
 それはともかく、「あきらむ」という古語は、「物事をよく見る」「事情・理由を見きわめ、明らかにする」という語義を持っており、現代語の「諦める」はこの用法から転じた近世以降の用法である。「あきらむ」の本義を考慮するならば、物事をよく見きわめることなしに「諦める」ことはできない。
 この点を鮮やかに指摘しているのは九鬼周造である。『思想』昭和十二年二月号に掲載された論文「日本的性格」のなかで、九鬼は、「諦めとは自然なおのずからなものへの諦めである。自然を明らかに凝視することによって自己の無力が諦められる」と述べている(この点については2022年2月14日の記事を参照されたし)。困難から目を背けて問題を投げ出すことは、この意味で、「あきらめる」ことではなく、むしろ「あきらめる」ことの放棄である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「世に棲む老い人」が暮らせない社会とは ― 中井久夫『「つながり」の精神病理』より

2024-05-19 13:54:45 | 読游摘録

 『「つながり」の精神病理』は、「中井久夫コレクション」(ちくま学芸文庫、全五冊)の一冊として、二〇一一年に刊行された。本書は一九九一年十月に岩崎学術出版社から刊行された『中井久夫著作集』の第六巻「個人とその家族」を中心として、新しく編み直したものである。
 本書のなかに、「世に棲む老い人」と題された論考が収録されている。その初出は『岩波講座老いの発見4』(岩波書店、一九八七年)である。当時すでに日本社会の高齢化は今後急速に深刻化する問題として論じられ始めていたが、二〇一一年の文庫版への付記には「老齢社会はいよいよその姿を現わしつつある」と中井は記している。
 それからまた十三年後の今日、事態はますます深刻化している。内閣府のホームページによると、一九九四年に六十五歳以上の人口が14%を超えた。二〇一九年には28,4%に達している。現在は30%を超えているだろう。
 だから、一九八七年の時点での中井の考察には今日もはやそのままでは肯えない点もある。その点は差し引いた上でのことだが、この論考には今日の老齢社会の問題を考えるうえでの基礎的な視角が提示されている。そのあたりを摘録しておきたい。
 まず、中井は「世に棲む老い人」を次のように定義する。「世に棲む老い人とは、社会の中にある程度にせよ安定した、生態学的な意味でのニッチ、すなわち、他からあまりおびやかされずに棲んでいられる、眼にみえない安定した領域を発見している人たちのことである。」(218頁)
 このニッチを発見することができない人はどうなるか。「生涯、あるいは相当期間「ニッチ」を発見できない人は「群衆」であり、発見できないどころか、その社会にいられない人は「難民」である。」(219頁)
 この規定に従い、かつひどく皮肉で意地悪な見方をすれば、今日の日本社会はその内部にすでに多数の「難民」を抱えているわけであり、だから外国からの難民の受け入れには消極的ならざるを得ないのだ、と言うこともできなくはない。
 「多様な「老い方」を許容するような社会を成熟した社会といい、一様な老いしか許容しない社会は老人を「群衆」化し、老人には場がない社会は、老人の行き場のない悲劇的な「ボート・ピープル」のような存在にするということである。」(220頁)
 この見立てに従うならば、現在の日本社会自体が船長不在で行く先を見失った遭難船のようなものであり、老人だけが「ボート・ピープル」なのではなく、ごく一部の恵まれた人たちを除いたすべての日本人が「ボート・ピープル」のような存在になっていると言えないであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日曜の朝、閑静な住宅街の車道を優雅に散歩する白鳥たち

2024-05-19 11:56:29 | 雑感

今朝、ジョギングの帰り道、自宅まであと二、三百メートルのところで、なぜか車道の真ん中に止まっている車があって、車の通りも人通りもまばらな静かな日曜の朝なのに、やたらとクラクションを鳴らしているのです。いったい何事かと近づていくと、その車は超徐行でその場をそろりそろりと離れていきました。すると、そこには車道を散歩している白鳥の親子四羽がいたのです。先の車のドライバーはきっと、車道は危ないから歩道に戻るように白鳥たちを説得していたのでしょう。きっと言葉も掛けたことでしょう。でも白鳥たちにはフランス語(あるいはアルザス語かも)が通じなかったようで、彼らは何事もなかったかのように優雅に散歩を続けます。親鳥の後ろをちょこまかとついていく二羽の雛鳥はまだ生後一週間か二週間といったところでしょうか。その姿はほんとうに可愛らしく、思わずスマートフォンを取り出し、写真を撮りました。この記事にそれらの写真を添付します。


ネガティブ・ケイパビリティを人生の諸経験を通じて体得した紫式部

2024-05-18 21:32:26 | 読游摘録

 先日、帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日新聞出版、2017年)をこのブログで何度か話題にした。最初に同書の中身を検索したとき、意外にも紫式部について割かれた章があることが同書に惹かれた理由の一つだった。式部の生涯の紹介や『源氏物語』の各巻についての概説的な部分には特段の解釈が披瀝されているわけではないのだが、それらについての一通りの紹介を終えたあとの「紫式部のネガティブ・ケイパビリティ」と題された節のなかの帚木の以下の所説は面白いと思った。

 紫式部が物語の筆を執った動機は、男性の筆になる血の通わない歴史書に対抗して、生身の人間を描くという意思でした。自らが女性である作者は、この生身の人間こそは、男性の陰で光芒を放って姿を消していった女性たちに他ならないと、感じていたのでしょう。
 だからこそ、ひとりひとりの女性を描き分けるとき、紫式部はこれまでの歴史に残らず消えていった女性への崇敬があったと私は思うのです。その結果、登場する女性たちには、作者のオマージュが隅々まで行き届いています。
 物語の光源氏という主人公によって浮遊させながら、次々と個性豊かな女性たちを登場させ、その情念と運命を書き連ねて、人間を描く力業こそ、ネガティブ・ケイパビリティでした。もっと言えば、光源氏という存在そのものがネガティブ・ケイパビリティの具現者だったのです。この宙吊りの状態に耐える主人公の力がなかったら、物語は単純な女漁りの話になったはずです。

 『源氏物語』についての帚木のこの所説の当否はともかく、紫式部自身がネガティブ・ケイパビリティを人生の諸経験を通じて体得した人であったことは、『紫式部集』の次の一首からも窺い知ることができる。

いづくとも 身をやるかたの 知られねば うしと見つつも ながらふるかな

 この一首についての私見については2014年12月1日の記事を参照されたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『源氏物語』「夕顔」の巻にリアルに描出された都市下層社会の情景

2024-05-17 03:07:51 | 読游摘録

 大西克礼の『幽玄とあはれ』(一九三九年、岩波書店)を読み進めるのに並行して、平安時代における感動詞「あはれ」の用法を調べていて、『源氏物語』「夕顔」の巻の以下の一節に行き当たった。

八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、のこりなく漏り来て、見ならひたまはぬ住まひのさまもめづらしきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賤の男の声々、目覚まして、「あはれ、いと寒しや」「今年こそ、なりはひにも頼むところ少なく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」など、言ひ交はすも聞こゆ。いとあはれなるおのがじしの営みに起き出でて、そそめき騒ぐも程なきを、女いとはづかしく思ひたり。艶だち気色ばまむ人は、消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。されど、のどかに、つらきも憂きも、かたはらいたきことも思ひ入れたるさまならで、わがもてなしありさまは、いとあてはかに子めかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなる事とも聞き知りたるさまならねば、なかなかはぢかかやかむよりは罪許されてぞ見えける。ごほごほと鳴る神よりもおどろおどろしく踏みとどろかす唐臼の音も、枕上とおぼゆる、「あな、耳かしかまし」とこれにぞ思さるる。何の響きとも聞き入れたまはず、いとあやしう、めざましき音なひとのみ聞きたまふ。くだくだしきことのみ多かり。

 この一節を『源氏物語を読むために』第三章「色好みの遍歴」のなかで引用して、西郷信綱はこう述べている。

都市下層社会のこうした情景は、他の物語にはあまり見かけぬところだし、この作でもほとんど唯一のものだが、それがやんごとない貴公子の恋の遍歴の一節となっている点に、この巻の面目がある。貴族たちの耳にする臼の音といえば、せいぜい香料をついて粉にする「鉄臼の音」(梅枝)くらいだったろう。ここでは穀類を足で踏んでつく臼の音が、朝の枕上に雷みたいにひびいてくるのである。貴族社会から離脱しこういう世界に、短期間とはいえ源氏が降りてこられたのは、惟光なるものがいたればこそである。

 物語の中では、光源氏がこのように都市下層社会の「あわれな」日常を覗く機会が得られたのは、西郷が言う通り、彼を手引した乳母子の惟光のおかげだが、これだけリアルな描写が紫式部にできたのは、それに相当するような現実世界を彼女が直接自分の眼でつぶさに観察する機会をもったことがあるからであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


魂として傷ついた和泉式部と精神として傷ついた紫式部 ― 西郷信綱『源氏物語を読むために』 より

2024-05-16 04:01:50 | 雑感

 西郷信綱の『源氏物語を読むために』(平凡社ライブラリー、2023年。初版、平凡社、1983年。再刊、朝日文庫、1992年)は、創見に満ちたスリリングな源氏物語論・紫式部論である。源氏物語の篤実な専門家たちからすれば、その大胆すぎる所説に異を唱えたくなる箇所も多々あるのだろうと推察されるけれど、西郷氏の洞察の切り込みの鋭さは他の追随を許さない。
 この本にも昨日の記事で言及した和泉式部の歌が引用されている。第一章「歌と散文と」のなかの「紫式部の歌」と題された節に出てくる。その節を部分的に引用しよう。そのなかで西郷氏は、紫式部と和泉式部との創作者としての資質の決定的な違いを鮮やかに指摘している。

 実は私は、人がいうほど紫式部の歌を見どころあるものは考えていない。和泉式部とつい比べたくなるからで、口疾くいいすてたことばが天来の芳香を放っているかのような和泉式部の作の前におくと、紫式部の歌はどうも理が勝っており、喚起力に乏しいと思う。[中略]つまり紫式部は歌よみであるよりは散文作家であったわけで、だからその歌よみのほどを変にほめすぎると、逆にひいきのひき倒しになりかねない。そうしたなかにあって、『紫式部日記』と『紫式部集』の双方に見える、

年暮れて我が世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな

という歌は、例外的にほとんど唯一の傑作と見ていいのではなかろうか。[中略]私は以前、和泉式部が魂として傷ついたとすれば紫式部は精神として傷ついていたという風に書いたことがあるが、「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」(和泉式部)にうかがえるように、苦しむ無垢な魂は無意識と化して身体からあくがれ出てゆくにたいし、精神は傷つくことによっていよいよ鋭く自己意識的になる。「心のうちのすさまじきかな」には、そういう寂莫たる自己意識の尖端が感じとれる。これはおそらく散文作者の手になる類い稀な歌の一つに数えてよかろう。
 もっとも、紫式部がおのれの歌才にたのむところがあったとしても不思議でない。たとえば、かの女は和泉式部の歌の天成のよさを認めつつも、歌の知識や道理に欠ける点があり「恥づかしげの歌よみやとは覚え侍らず」(『紫式部日記』)などとことわっている。が、どうもこれは負け惜しみであり、嫉み心さえそこにはのぞいていなくもない。歌の伝統に深く棹さしながらも、紫式部はわが心中にえたいの知れぬ葛藤がわだかまり、自分が一途な歌よみではもはやありえなくなっているのに気づいていたはずである。そしてちょうどその反極にいて、まるで生得の歌よみであるかのようにほとんど一義的・直線的にふるまっていたのが和泉式部であった。さらに『枕草子』の清少納言のことを考慮に入れるなら、狭い女房社会とはいえいかに鋭い分化がそこで経験されつつあったかわかるというものである。

 魂として傷ついた和泉式部と精神として傷ついた紫式部という対比はとても示唆的だ。世に在ることに情念において煩悶し唯一無二の表現へとその煩悶を転化・昇華する和泉式部と、その煩悶さえも理知において底まで省察せざるを得ない紫式部、この対比は、おそらく、文学の生成の機微に触れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「群れ飛ぶ蛍」あるいは「みじんに散乱するほかない処まで追いつめられた魂の危機感」― 西郷信綱『古代人と死』より

2024-05-15 03:06:45 | 読游摘録

 西郷信綱の『古代人と死 大地・葬り・魂・王権』(平凡社ライブラリー、2023年。原本は1999年刊の平凡社選書)所収の論考「黄泉の国とは何か」を読んでいて、和泉式部のよく知られた歌「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」についての指摘に意外にも遭遇し、嬉しくも我が意を得た。西郷本人が断っているように、この言及は本文の主題に対していわば「傍注」として記されているので、詳しく展開されているわけではないのだが、それだけに予期することなくそこを読んだときにハッとした。今まで読んだことがあるこの歌の注釈にはなかったことがそこに端的に指摘されていたからである。
 「神話時代における死霊とか魂とかは、たんにそれじたいとしてではなく、つねに身体との関連において考察せねばならぬ」、「かつて魂は、身体のなかで at home であり、両者は一体をなす共生関係にあったはずである」とする文脈のなかで、一つの留保として上掲歌に言及される。

ちょっと注釈をつけ加えておくが、ここの蛍をたんに一匹や二匹と思い誤ってはなるまい。「沢」は谷川であるとともに、「人さはに、国には満ちて」「鶴さはに鳴く」(万葉)などの「さは」(たくさんの意)にもかかり、つまり群れ飛ぶ蛍である。貴船明神は式部のこの歌にたいし、「奥山にたぎりて落つる滝つ瀬のたま散るばかりものな思ひそ」と返歌した(後拾遺集)とある。源氏物語中の例の六条御息所の「歎きわび空にみだるるわが魂を結びとどめよ下交の褄」という歌にもみじんに散乱するほかない処まで追いつめられた魂の危機感がある。

 そう、この歌の「沢の蛍」は、群れ飛ぶ蛍、さらに言えば、千々に乱れ飛ぶ蛍をイメージしてこそ、式部の情念、さらには怨念に迫ることができると思われる。この歌についての私見は、2022年12月6日の記事を参照されたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「おそらくは数年ぶりで周囲を見わたし、見上げる―たとえば空を」― ヴァージニア・ウルフ「病気になるということ」より

2024-05-14 01:42:51 | 読游摘録

 病気になってはじめて気づくこと、見えてくること、感じられるようになることがある。これは誰にとっても多かれ少なかれあてはまることだろう。健康なときには知らぬまに従っていた諸々の規則や義務から「解放」され、それまで毎日繰り返されてきた生活のリズムから「下車」あるいは「脱走」して、それまでとは違った時間の流れに身を浸す。病気になることがもたらすそんな心身の変化をヴァージニア・ウルフはこのように表現する。

私たちは直立人たちからなる軍隊のしがない一兵卒であることをやめ、脱走兵になる。直立人たちは戦闘へと進軍していくけれど、私たちは棒切れと一緒に川に浮かんだり、芝生の上で落ち葉と戯れたりする。責任を免れ利害も離れ、おそらくは数年ぶりで周囲を見わたし、見上げる―たとえば空を。(片山亜紀訳)

we cease to be soldiers in the army of the upright; we become deserters. They march to battle. We float with the sticks on the stream; helter-skelter with the dead leaves on the lawn, irresponsible and disinterested and able, perhaps for the first time for years, to look round, to look up—to look, for example, at the sky.

 このように何のためということなく空を見上げたときの光景はどんなだろうか。ウルフの描写は雄弁かつ精彩に富んでいる。ちょっと長いが省略するのはもったいないのでそのまま引用する。

その途方もない光景の第一印象は、奇妙なくらいに圧倒的である。通常ならしばらく空を見上げているなんて不可能だ。空を公然と見上げている人がいれば、道ゆく人たちは行く手を阻まれてイラつく。ちらっと見るだけの空は、煙突とか教会とかで一部欠けていたり、人物の背景だったり、雨だとか晴れだとかを意味する記号だったり、曇りガラスを金色に輝かせたり、枝と枝のあいだを埋めて、秋の公園で葉を落としかけた、いかにも秋らしいプラタナスの樹の哀愁を補完したりするだけである。ところが横になってまっすぐ見上げたときの空はこうしたものとはまるで違うので、本当にちょっと衝撃的なくらいだ。私たちの知らないところでいつもこうだったなんて! ひっきりなしに形を作っては壊している。雲を一箇所に吹き集めては、船や荷台が連なったみたいに北から南へとたなびかせている。光と影のカーテンを絶え間なく上げたり下ろしたりしている。金色の光線や青い影を投げたり、太陽にヴェールをかけては外したり、岩を積み上げて城壁を作っては吹き飛ばしたりして延々と実験を繰り返している―こんな終わりのない活動が、来る年も来る年も、何百万馬力ものエネルギーを無駄にしながら遂行されていたなんて。

The first impression of that extraordinary spectacle is strangely overcoming. Ordinarily to look at the sky for any length of time is impossible. Pedestrians would be impeded and disconcerted by a public sky-gazer. What snatches we get of it are mutilated by chimneys and churches, serve as a background for man, signify wet weather or fine, daub windows gold, and, filling in the branches, complete the pathos of dishevelled autumnal plane trees in autumnal squares. Now, lying recumbent, staring straight up, the sky is discovered to be something so different from this that really it is a little shocking. This then has been going on all the time without our knowing it!—this incessant making up of shapes and casting them down, this buffeting of clouds together, and drawing vast trains of ships and waggons from North to South, this incessant ringing up and down of curtains of light and shade, this interminable experiment with gold shafts and blue shadows, with veiling the sun and unveiling it, with making rock ramparts and wafting them away—this endless activity, with the waste of Heaven knows how many million horse power of energy, has been left to work its will year in year out.

 ここで言われていることは、病気になれば必ずこう空が見えるということでもなく、病気にならなければ空がこのようには見えないということでもない。「健康」な私たちが日常見ている世界が「正常」だという、他に対して抑圧的なものの見方・考え方が私たちの目を覆ってしまい、本来そこにあるものごとが見えなくなってしまっていることを「病気になるということ」が教えてくれるということがここでの問題だと思う。言い換えれば、メルロ=ポンティが哲学を定義していうところの「世界の見方を学び直す」こととはこういうことなのではないかと私には思われる。
 だが、他方、こうも思う。今私たちが見上げる空はウルフが見上げた百年前の空とは違う。なぜなら、百年前にはそれを指し示す言葉さえ存在しなかった気候変動を引き起こしたのは他ならぬ人類なのだと今の私たちは知っているのだから。天空に繰り広げられる驚嘆すべき気象現象にただ「無邪気に」瞠目することはもはや今日の私たちには許されていない、と。