西郷信綱の『古代人と死 大地・葬り・魂・王権』(平凡社ライブラリー、2023年。原本は1999年刊の平凡社選書)所収の論考「黄泉の国とは何か」を読んでいて、和泉式部のよく知られた歌「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」についての指摘に意外にも遭遇し、嬉しくも我が意を得た。西郷本人が断っているように、この言及は本文の主題に対していわば「傍注」として記されているので、詳しく展開されているわけではないのだが、それだけに予期することなくそこを読んだときにハッとした。今まで読んだことがあるこの歌の注釈にはなかったことがそこに端的に指摘されていたからである。
「神話時代における死霊とか魂とかは、たんにそれじたいとしてではなく、つねに身体との関連において考察せねばならぬ」、「かつて魂は、身体のなかで at home であり、両者は一体をなす共生関係にあったはずである」とする文脈のなかで、一つの留保として上掲歌に言及される。
ちょっと注釈をつけ加えておくが、ここの蛍をたんに一匹や二匹と思い誤ってはなるまい。「沢」は谷川であるとともに、「人さはに、国には満ちて」「鶴さはに鳴く」(万葉)などの「さは」(たくさんの意)にもかかり、つまり群れ飛ぶ蛍である。貴船明神は式部のこの歌にたいし、「奥山にたぎりて落つる滝つ瀬のたま散るばかりものな思ひそ」と返歌した(後拾遺集)とある。源氏物語中の例の六条御息所の「歎きわび空にみだるるわが魂を結びとどめよ下交の褄」という歌にもみじんに散乱するほかない処まで追いつめられた魂の危機感がある。
そう、この歌の「沢の蛍」は、群れ飛ぶ蛍、さらに言えば、千々に乱れ飛ぶ蛍をイメージしてこそ、式部の情念、さらには怨念に迫ることができると思われる。この歌についての私見は、2022年12月6日の記事を参照されたい。