内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

人生別離の諸相、それらを「あきらめる」とは ― 中井久夫「世に棲む老い人」を読んで想うこと

2024-05-20 16:56:46 | 読游摘録

 昨日の記事で紹介した中井久夫の「世に棲む老い人」を読んでの感想を書きつける。そのごく一部についてである。明日の記事でも別の部分を取り上げる。
 中井は「人生の前半の課題は挑戦であり、後半の課題は別離である」というテーゼに言及し、それは「おそらく正しい」と言う。そんな単純なものではないと思うが、今、このテーゼの当否は措く。
 この文脈で「別離」という語はとても広い意味で使われている。所有していたものとの別離だけではなく、「所有しなかったもの、たとえば若い時に果たせなかったことへの悔恨からどう別離するかということもある。もはや果たすことはないであろう多くのことへの別離である。」(230頁)この別離がうまく達成できるとはかぎらない。その場合、晩年悔恨に苛まれ続けることになろう。
 日々新しい別離が発生する。「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」(井伏鱒二『厄除け詩集』「勧酒」より)。
 肉親との死別、身近な人の死、さまざまな関わりのあった人との別れ。死別とは限らない。もはやこの関係から新しいものは生まれないであろうとの予感とともに「心の別れ」もある。物事との別離もある。住み馴れた場所を離れること。長年働いた職場を去ること。大切にしていたものをなくしたり、壊してしまったりして、別れざるを得ないときもある。
 自分自身との別離もある。体が若い頃や壮年期のようにいうことを聞いてくれなくなる。サルトルはこれを自己の「他者化」と呼んだ。言い換えれば、「他者」となった自分との付き合いが始まることでもある。悪いことばかりではないかも知れない。それはともかく、私たちはかつての自分との別離も人生の中で繰り返す。若き日に掲げた目標、青年期から抱き続けてきた夢、長年の習慣、これらを失うことも別離だ。
 「実際には、老人はさまざまの手段を駆使して、これらの別離に対処する」(231頁)。というか、抗う。若作り、スポーツ・ジムやカルチャーセンター通い、恋愛(?)などなど。撤退(引きこもり)もある。大きすぎる現実の衝撃には、事実上「認知症」への撤退までありうる。「連れ合いをなくした直後に老年期認知症の顕在化することはありふれた事実である」(232頁)。
 「これらの心理的手段には、それぞれの有効性があり、それぞれの失調があり、袋小路がある」(同頁)。中井が言うとおり、そのいずれかにあまりに執着しないのがよいのであろう。これらの手段が、「あきらめ」と「ありのままの自分をそれなりに肯定すること」へと通じる路をふさぐほどでないことがのぞましいというのもそのとおりであろうと思う。
 この直後に、中井は、「「あきらめ」自身が「あきらかに見る」という意味を持っている(土居健郎)」と言っているのだが、出典を示していない。あるいは談話中の土居の発言かもしれない。
 それはともかく、「あきらむ」という古語は、「物事をよく見る」「事情・理由を見きわめ、明らかにする」という語義を持っており、現代語の「諦める」はこの用法から転じた近世以降の用法である。「あきらむ」の本義を考慮するならば、物事をよく見きわめることなしに「諦める」ことはできない。
 この点を鮮やかに指摘しているのは九鬼周造である。『思想』昭和十二年二月号に掲載された論文「日本的性格」のなかで、九鬼は、「諦めとは自然なおのずからなものへの諦めである。自然を明らかに凝視することによって自己の無力が諦められる」と述べている(この点については2022年2月14日の記事を参照されたし)。困難から目を背けて問題を投げ出すことは、この意味で、「あきらめる」ことではなく、むしろ「あきらめる」ことの放棄である。