内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

来年五月、フランス国立図書館で「日本哲学」研究集会が開催される

2023-06-20 09:55:41 | 哲学

 フランス哲学とかドイツ哲学とか聞くと、その中身についての知識の程度はともかく、それぞれを代表する何人かの哲学者の名前を挙げることは、倫理を履修した高校生ならできるだろう。それぞれの哲学者の所説についてはよく知らなくても、それぞれに他方には見いだせない特徴があるという印象をもっている人も多いだろう。実際それはその通りだ。
 イギリス哲学とかアメリカ哲学とか、言わないわけではないけれど、独仏と比べると、なんとなく座りが悪いように思うのは私だけだろうか。国の名を関することなく、経験論、功利主義、日常言語学派、分析哲学、プラグマティズムなどを話題にするとき、自ずと両国の哲学者たちの名が挙げられるが、だからといって、それらを国ごとにひっくるめてイギリス哲学とかアメリカ哲学とかとして論じることは、独仏に比べればの話だが、少ないように思う。
 イタリア哲学とかスペイン哲学とかになると、もっと馴染みが薄い。というか、そもそもそういう呼称はあまり見かけない。ロシア哲学なんていうのも聞かない。もちろん、これらの国にも哲学者と呼ばれるに値する人たちがいることを私たちは知っている。
 東洋に目を転じると、インド哲学や中国哲学という呼称は、少なくとも戦後のある時期までは流通していた。その名を冠した学科も大学に存在した。今はどうなのだろう。
 さて、日本哲学となるとどうであろうか。それが何を指すかは哲学という言葉をどう定義するかにもよるし、明治以降に話を限っても、そして今日海外でもかなり広く近代日本の哲学者たちが研究されていることを考慮しても、当の日本ではいまだに「日本哲学」という呼称になんとなく違和感を覚える人が少なくないように思う。それどころか、「そんなものはない」と激昂する人さえ、いなくはない。
 私自身、便宜上、フランス語で philosophie japonaise という呼称を使うことはあるけれど、積極的には使わない。それも、日本語での哲学、日本における哲学、日本人による哲学などの意味で使うのであって、他国には見いだせない日本独自の哲学という意味では使わない。日本人哲学者個々の独自の思想をそれとして研究することはあっても、そこに「日本的特徴」を見出そうとは思わない。
 なんでこんなことをつらつらと書き連ねたかというと、昨日、ちょっと思いがけない依頼を受けて、しばらく感慨に耽ってしまったからなのである。
 パリのフランス国立図書館(フランソワ・ミッテラン館)の哲学・人文科学部門の責任者から、同図書館で来年5月24日に開催予定の「日本哲学」についての研究集会で発表してくれないかとの依頼メールが来たのである。日本哲学を主題とした研究集会が同図書館で開催されるのはこれが初めてのことではないかと思う。プログラムの詳細についてはまだわからないが、la philosophie japonaise についての研究集会がフランス最大の図書館で開催されるのは、フランスにおける日本文化研究にとって記念すべきことと言えるのではないかと思う。
 十九世紀のジャポニズム以来、フランスで日本文化が話題にされるとき、歴史、文学、芸術、古典芸能、民俗、料理、民芸、工芸、自然との関係などが好まれてきた分野やテーマであったが、それに並ぶとまでは言えないにしても、日本哲学が日本文化に関するテーマのリストに加えられたことは、フランスで四半世紀にわたって日本の近代哲学を主に研究してきた者の端くれとして、感無量である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


そもそもの人間の姿の刻印 ― 正岡子規『仰臥漫録』

2023-06-19 13:19:00 | 読游摘録

 日記をつけはじめるきっかけは人それぞれであろうし、その目的もさまざまであろう。その形態も多様であるし、今日のように紙以外の記録媒体が手軽に使えるようになってからは、さらに多様化している。
 私は2006年からフランス語でパソコン日記をつけているが、これはほとんど備忘録としてであり、感情的・内省的要素はきわめて乏しい。書いてから数年後に、その日何をしたか、ある個人的な出来事がいつのことだったかなど、思い出すのにときどき役に立つからつけているに過ぎない。
 だから、特に記すべきことがない日は、一言あるいは一行のみである。そんな日が大半である。他人に見られて困るようなことは書いていないが、読まれることはまったく想定していない。
 日記をつけることがその人の人生においてかけがえのない重みをもっている場合もある。ドナルド・キーンの『続 百代の過客』には、正岡子規に二十数頁割かれており、同書中、石川啄木に次いで多くの紙数が費やされている。ただし、子規の場合、「日記」というジャンルの適用に関して一言断っておく必要がある。
 子規の研究者たちの多くは、子規最後の二年間に書かれた三作品『墨汁一滴』『病床六尺』『仰臥漫録』のうち、前二者は「随筆」に分類し、後一者のみ「日記」と見なすのに対して、キーンは、三作品とも「日記」として取り上げている。「たとえ普通の日記には書かないような材料が時に見られても、それらがすべて、病床の子規の脳裏を日々よぎったものだったことは間違いない」というのがその理由である。
 日々身体を蝕んでゆく病魔と戦いながら、時に狂気すれすれの精神状態に追い込まれながら、これほど規則的に見事な文章を死の直前まで書き続けた子規の精神の強健さには驚嘆する。「一瞬一瞬が苦痛であり、布団の上で寝返りも打てないような状況にあって、いったいどこからどのようにして、彼は書き続ける力を見出してきたのだろうか。日々日記を付けることが、子規にとっては、生命そのものと同じほど大切なものに思えたのに違いない」とキーンは述べているが、そのとおりだったろうと思う。それは「自分が生きている証」だった。
 岩波文庫版『仰臥漫録』の巻末解説を書いている阿部昭はその解説をこう結んでいる。

小天地といえどもそこに森羅万象の影を宿し、現世への野心と快楽の逞しい夢から失意失望の呻吟、絶叫、号泣に至る人間性情のあらゆる振幅を畳み込んだ、この無尽蔵に豊富な一巻を数語に要約することは到底不可能である。ここにはわれわれが文学と名づけるもののエッセンスが入っており、それは読者にいかような読み方をも許すのである。これほど虚飾を去った人間の記録をわれわれは他に知らない、この十年後に子規よりも更に若くして死ぬ啄木の『ローマ字日記』を除いては。

 いかなる概念・範疇を動員しても到達不可能な、個物としてのそもそもの人間の姿がそこに刻みつけられている。まさに身命を賭して子規は不朽の文学作品を世に遺した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


心からの声に耳を傾ける ― ドナルド・キーン『百代の過客』『続 百代の過客』

2023-06-18 07:50:53 | 読游摘録

 日本人が書いた日記を包括的に扱った著作として、ドナルド・キーンの『百代の過客』『続 百代の過客』がまず思い起こされる。どちらももと朝日新聞の連載が基になっており、朝日選書として前者が1984年、後者が1988年に刊行され、同年にそれぞれ愛蔵版も朝日新聞社から刊行されている。キーンは英文で原稿を書き、金関寿夫がそれを順次日本語に訳して連載は継続された。英語原文も、それぞれ1989年と1995年にアメリカで刊行されている。
 私の手元にあるのは、新潮社の『ドナルド・キーン著作集』第二・三巻(2012年)に収められた版である。数年前に中古本で入手したのだが、ほぼ新本状態の美本、しかもかなり安価で購入できた。A5版のしっかりした造本も渋い装丁も気に入っていた。購入してしばらくは、いつでもすぐに手に取れるようにと、仕事机左脇の小ぶりの本棚に並べておいた。
 が、ある日、赤ワインがなみなみと注がれたグラスをその本棚の方向にひっくりかえしてしまい、同じ棚に並んでいたその他数冊とともに、この二冊にもたっぷりとワインを浴びせかけてしまった。幸い、本文にまでは染み込まなかったが、カヴァーと天と小口と見返しには、今となってはセピア色に変わった痕跡が残っている。両書を紐解くたびにそれを見ては、今でも自分の不注意に臍を噛んでいる。
 キーンは、『続 百代の過客』「序 近代日本人の日記」のなかで、彼が検討した明治時代以降の膨大な日記についてこんな問いを立てている。「一体全体なぜ多忙な人間が、来る日も来る日も、こうした無味乾燥な事実を記録するのに、大事な時間を費やしたのだろうか。」(17頁)
 この問いに対する一つの答えとして、「いかに没個性的な日記であろうと、日記を付けるという長い伝統が存在していたこと」を挙げているが、これだけでは十分な答えにはなっていないことはキーン自身自覚している。むしろ、その答えを探すためにこそ、一つ一つの日記を丹念に読んだのだろう。
 しかし、その答えを探すことが本書の主たる目的ではない。「過去に生きた人々の声をもっとはっきり聴き取ろうと思えば、他のなにものにも増して、彼らが書いた日記を読むにこしたことはない」(18頁)。「過去に生きた人々の声を聴く」― これがキーンの日記探索の動機である。それは『百代の過客』からずっとそうであった。

取り上げた日記の中で私の関心を最も惹いたものは、日記作者その人の声にほかならなかった。私はいつも、なにか心からの声に耳を傾けようと努めた。表現された感情のいかんにかかわらず、単に熟達した文体ではなく、なにかはっきりと個性的な音色のようなものを聞こうとした。私はまた、文学史家が誰一人注目することのない日記の中にさえ、それを読む今日の読者が、何百年も昔に生きたその作者に突然一種の親近感を抱くような、なにか感動的な瞬間がないかと探し求めた。(『続 百代の過客』10頁)

 『続 百代の過客』は明治期の日記を対象としているから、書かれた当時と何百年も隔たりがあるわけではなく、しかも「近代化」しつつある日本の姿がそこに垣間見られるのだから、遠い過去の人たちに突然抱く親近感のような新鮮な驚きはないかも知れない。
 「私たちは、ことさら私たちとの類似性を探す必要はない。作者自身が私たちに似ているだけではなく、あまりに近すぎて、手を伸ばせばほとんどさわれるくらいだからである。」(11頁)
 これにはちょっと同意しかねる。明治期の日記も私たちに新鮮な驚きを与えるのに十分なほどすでに遠い過去の記録になっていると私は思う。だからこそ興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「人心は浮薄なるものなり」― 西田幾多郎の日記より

2023-06-17 06:39:32 | 読游摘録

 人はなぜ日記を書くのだろうか。作家や政治家その他著名人たちのなかには、後日他人に読まれることを前提として日記をつけ続けた場合もあるだろうが、後日人に読まれることを意識せずに、もっぱら自分自身のために書かれた日記も少なくないであろう。そのような私秘的な日記にこそ、書き続けた人の「素顔」が垣間見られていっそう興味深い。たとえ備忘録やその日の出来事の一行の記録であっても、その何年にも亘る連なりを見ていると、書き手の生の時間の持続性のようなものが感じられる。
 西田幾多郎は、明治三十年二十七歳のときから七十五歳で亡くなる昭和二十年六月まで日記を書きつづけている。全集では明治三十三年だけが欠けている。
 明治三十七年は七月二日以降の日記がない。前月、弟の憑次郎が日露戦争のために出征し、八月には旅順で戦死する。同年十二月二十五日付親友山本良吉宛の書簡には、山本からの「親切なる慰藉の御手紙」への謝辞を一言記した後、「理性の上よりして云へは軍人の本懐と申すへく當世の流行語にては名譽の戰士とか申すへく女々しく繰言をいふへきにはあらぬかも知らねと 幼時よりの愛情は忘れんと欲して忘れ難く思ひ出つるにつれて堪え難き心地致し候 昨日は満身元氣意氣揚々として分れし者か 今は異郷の土となりて屍たに収むるを得す 松林寂寞寒風梢を吹くの處 一本の新墓標の前に一束の草花を手向けて泣くより外になき有様 人生はいかに悲惨なるものに候はすや」と、弟を失った切々たる悲嘆を吐露している。同年八月以降の日記がないということは、弟の戦死の報を受けた後、日記を書きつける気力さえ失っていたということであろうか。
 翌明治三十八年元旦の日記には、「去年は余の一身にとりては實に不幸の年であつたが、今年はどうか幸福でありたいものだ」と記している。そして、四日の旅順陥落の翌日五日、金沢の街中では旅順陥落祝賀会が催される日、「午前打坐。昨夜来余の心甚惑ふ。余は自己を知らず、徒に大望を抱けり。併し今は余が擇びし途を猛進するの外なし。退くには余はあまりに老いたり。」午後打座。正午公園にて旅順陥落祝賀會あり、萬歳の聲聞ゆ。今夜は祝賀の提燈行列をなすといふが、幾多の犠牲と、前途の遼遠なるをも思はず、かゝる馬鹿騒なすとは、人心は浮薄なる者なり。夜打坐。雨中にも關せず、外は賑し。」と書きつけている。
 同月十日には、「今日は金澤の諸學校連合にて午後五時より旅順陥落祝賀の大提燈行列を行ふといふ。余は此の如き擧には不賛成なり、ゆかず」と記している。一方、同日、「夜夏目氏の「吾輩は猫でござる、まだ名はない」を讀む」とある。『吾輩は猫である』は同年一月から『ホトトギス』誌上に連載されはじめたばかりであるから、その連載第一回目を読んだということであろう。読後の感想は何も記されていない。ただ、二月二十一日にも「夏目氏の(猫で御座る)の續篇をよむ」とあるから、面白いとは思っていたのであろう。その二日後の十二日にはプラトンの『ソフィスト』を読みはじめ、十七日に読了している。十九日、『新小説』に掲載された泉鏡花の『わか紫』を読み、「面白し」と記している。二十日からは、デカルトの『哲学原理』をドイツ語訳で読みはじめ、二十七日にも「デカートをよむ」とあるから、同書を一週間読み続けたのであろう。
 西田の乱読・多読は若き日からのことだが、それには驚かないが、どんな状況のなかで何を読んでいたかは興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


幕末下級武士たちの心豊かな暮らしの風景 ― 大岡敏昭著『武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景

2023-06-16 18:59:24 | 読游摘録

 急速な技術革新によって私たちの社会生活や日々の暮らしが目の回るような速度で変わっていくのを目の当たりにし、私はなかば呆然と立ちつくし、傍観しているにすぎない。少しでも時代についていこうと情報収集や即席の独学に心身をすり減らす気にはなれない。そんなことをしてもどうせ時代はどんどん遠ざかってゆき、そのうち私自身がこの世から退場していくのであるから、もっと私自身にとって大切なことに時間を使いたい。
 とはいいながら、ネット上に氾濫する情報には翻弄されるし、遠い先のことは考えないようにしても、近い未来を思うだけで暗澹とした気持ちになる出来事やニュースには事欠かない。無数の情報がネット上を駆け巡っているにもかかわらず、そのなかから自分が特に関心のある事柄に関するものに限って継続的に追跡しようとしても、それらの「商品価値」がなくなると、ネット上から跡形もなく消えてしまう。その消滅までの時間がどんどん短くなっていく。
 物質的には豊かなのに、心は貧しくなっていく一方で、悲しくなることがある。
 そんなとき、ふとネット上で目に止まったのが大岡敏昭著『武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景』(角川ソフィア文庫、2014年。原本、相模書房、2007年)である。
 幕末、江戸から北に一五里ほど離れた武蔵野の一角にあった小さな城下町に暮らした忍藩下級武士、尾崎石城が文久元年(一八六一)から翌年二月までの一七八日間の暮らしを綴った絵日記を、石城が描いた挿絵をふんだんに盛り込みつつ紹介した本である。武士たちが残した日記は数多くあるが、日常の細部を具体的に詳細に記録し、しかもそれに多数の挿絵を添えた絵日記で、しかもこれほどの長編は、現在までに発見された日記類のなかで唯一であろうと著者は言う。
 石城は文才と画才に恵まれた下級武士であった。彼は独り身で、妹夫婦の家に同居していた。その妹の夫もまた下級武士であった。石城は、自分と自分を取り巻く人たちの暮らしの様子を挿絵入りの日記として書いているのであるが、それは「愉快で楽しく、また和やかである。その挿絵は[…]、実にうまくて、思わず吹き出してしまうような場面も多いが、それは作者の人柄がにじみ出ているからであろう」(「まえがき」より)。

この絵日記からは、下級武士たちの暮らしがどのようなものであったか、そしてどのような価値観をもって生きていたかを、具体的に、しかも視覚的に知ることができる。そこには、暮らしと生き方において、金銭物欲的で利己的な価値観がはびこる自己中心的な現代の社会的風潮とは異なり、きわめて心豊かな暮らしの風景を多く見出すのである。(「まえがき」より)

 著者は「あとがき」で下級武士たちの暮らしについて次のように述べている。

下級武士たちの生活は貧しく窮していた。だからといって心貧しいわけではない。その不安定な生活から僅かの髪結いのお金に困ることがあるが、一方で料亭に繰り出したり、自宅で友人たちと酒宴をすることも多い。持ち合わせがないときは着物や帯を質入れし、それで酒と肴を買って友人をもてなす。そして困っている人がいれば手を差しのべ、皆で支え合い、残り少ない有り金を叩いてその窮乏を助けたりする。また友人たちの家を訪ねるときは、ささやかな酒か肴を持参し、突然に訪問されても有り合わせの食事で歓待する。そしてまた書物に投ずるお金は惜しまず、常に幅広く文芸を究め、己の教養を高めようとする。このように貧しく窮してはいても、武士として人間としての生きる気品と誇りを失わなかったのである。
 そこには利他と情の心がある。この絵日記に登場する人びとの暮らしが、毎日おおらかに生き、豊かにさえ感じるのは、そのような人への思いやりと心の豊かさがあり、人と人との和の絆があったからであろうと思う。それは武士の住まいにもいえる。道に広く開かれた住まいは、外からやってくる人びとを大切に迎えるという考えでつくられていたのである。
 では貧しい暮らしながらも、なぜこのような温かい気もちになれるのか。それは過度の欲を持たず、身の回りのささやかな暮らしの中に喜びを見出すという生き方にあり、そのことで心にゆとりが生れていたからであろうと思う。

 この好著を肴に酒盃を傾けることで、少し心が潤される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ボロディン弦楽四重奏曲第二番 ― エスメ弦楽四重奏団の秀演に心打たれる

2023-06-15 04:08:26 | 私の好きな曲

 先々月、エスメ弦楽四重奏団のことを取り上げました(2023年4月17日)。ユーチューブで彼女たちによるボロディンの弦楽四重奏曲第二番の演奏を聴くことができます。私は音楽的なことは何もわからずにただ感覚的に好きか嫌いかを言えるだけなのですが、これは本当に好きな演奏です。
 同曲は弦楽四重奏曲の名曲として知られ、特に第三楽章「ノクターン」は親しみやすいメロディでクラシック愛好家以外にも好かれています。
 高度な技術に裏打ちされ、パーフェクトに息が合っており、お互いに信頼し合った彼女たち演奏で聴くと、なおのことこの曲のよさが際立ちます。映像を観ていると、彼女たちがこの曲をとても大切に慈しむように、そして心から楽しんで演奏していることがわかります。
 褒め過ぎかも知れません。でも、彼女たちの演奏を聴いた後に、手元にある同曲の定番的なCDを何枚か聴いてみても、全然引けを取らないと私には思えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


建礼門院 ―「死なざるが故に已むことを得ず生き」た悲劇の女院

2023-06-14 15:57:28 | 読游摘録

 昨日の記事で話題にした佐竹昭広の「死なざるが故に」(『閑居と乱世』所収)は十三頁ほどの短い論考で、三節に分かたれ、その一と三は『断腸亭日乗』を主題とする。その間に三頁余りの第二節があり、量的配分からいえば挿入節のごときだが、そこで中世文学における「死なざるが故に已むことを得ず生き」た一人として建礼門院が想起されている。
 「中世文学点描」との副題をもつ『閑居と乱世』の全体的内容からすれば、むしろ建礼門院のことがもっと詳しく論じられてもよさそうなものだが、初出が『いまは昔むかしは今 5 人生の段階』(福音館書店、一九九九年)で、特にテーマを中世に限定する制約もなかったがゆえに、当時再読を終えた『断腸亭日乗』について語りはじめ、その途次で中世に立ち寄ったというのがその時の執筆事情でもあったのであろうか。
 『平家物語』の掉尾を飾る「灌頂巻」は建礼門院の最晩年と最期の語りとして哀切を極める。佐竹昭広が引用しているのは、「女院出家」「大原入」そして最後の段「女院死去」からだが、「大原御幸」の段も聴くものの涙を誘わずにはおかない。
 建礼門院は、高倉天皇の中宮、清盛の次女、名は徳子。安徳天皇の生母となって、平家一門を栄華に導き、その最盛と滅亡とをまのあたりにした悲劇の皇后である。高倉天皇の父である後白河法皇とは、嫁・舅の関係になる。
 一一八六年四月下旬、後白河法皇は建礼門院に会うため、お忍びで大原へ御幸された。案内に出た阿波内侍が、女院は仏前に備える花を摘みに山へ登ったという。仏道修行に専心する女院の庵室に昔日の栄華の面影はなく、法皇一行の涙を誘った。
 やがて、山から下りてきた女院は、法皇の突然の訪問に、花籠を持ったままただ呆然と立ちつくす。その箇所を引こう。

 さる程にうへの山より、こき墨染の衣着たる尼二人、岩のかけぢをつたひつゝおりわずらひ給ひけり。法皇是を御覧じて、「あれは何ものぞ」と御尋あれば、老尼涙をおさへて申けるは、「花がたみひぢにかけ、岩つゝじとり具してもたせ給ひたるは、女院にてわたらせ給ひさぶらふなり。爪木に蕨折具してさぶらふは、鳥飼の中納言維実のむすめ、五条大納言国綱卿の養子、先帝の御めのと大納言佐」と申しもあへずなきけり。法皇もよにあはれげにおぼしめして、御涙せきあへさせ給はず。女院はさこそ世を捨る御身と言ひながら、いまかゝる御ありさまを見えまゐらせむずらんはづかしさよ。消も失せばやとおぼしめせどもかひぞなき。よひよひごとのあかの水、結ぶたもともしをるゝに暁おきの袖の上、山路の露もしげくして、しぼりやかねさせたまひけん、山へもかへらせ給はず。御庵室へも入らせ給はず、御なみだにむせばせたまひ、あきれて立たせましましたる処に、内侍の尼参りつゝ、花がたみをば給はりけり。
                             『平家物語(四)』、岩波文庫、一九九九年、四〇〇頁。

 涙に始り涙に終わるこの対面の哀切さは、単に建礼門院の零落ぶりによるのではなく、平家追討の院宣を源氏に与えたのがほかならぬ後白河院だったことによってさらに深まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「死なざるが故に已むことを得ず生きてゐる」― 永井荷風『断腸亭日乗』より

2023-06-13 12:00:09 | 読游摘録

 「死なざるが故に已むことを得ず生きてゐる」。永井荷風が『断腸亭日乗』にこう記したのは昭和二十年九月二十二日である。荷風が没したのは昭和三十四年四月三十日であるから、「已むことを得ずに」十四年近く生きたことになる。大正六年九月十六日に始まる『日乗』は死の前日まで書き続けられる。しかし、最晩年は一日一行、あるいは一語という日も続く。『日乗』最後の一週間は以下の通り。

四月二十三日。風雨纔に歇む。小林来る。晴。月夜よし。
四月二十四日。陰。
四月二十五日。晴。
四月二十六日。日曜日。晴。
四月二十七日。陰。また雨。小林来る。
四月二十八日。晴。小林来る。
四月二十九日。祭日。陰。

 「三月から臥床二箇月。医師の来診を受けることも、薬餌に親しんだ形跡もない。療治に関する一切の申し出は、峻拒して取り付く島がなかったという」(佐竹昭広「死なざるが故に」『閑居と乱世 中世文学点描』、平凡社選書、二〇〇五年、86頁)。
 「連日ただ一行しか書かなかった彼の日記は、老い果てて今や滅びんとする余残の日々を記して、一種凄絶な文体効果を挙げている。これは、今日も生きていた、今日も死ななかった、「死なざるが故に已むことを得ず生きてゐる」(『日乗』昭和二十年九月二十二日)、「枯れ果てたる老軀の猶死せざる」(『日乗』昭和二十二年十二月三十一日)己に耐えながら、何時打ち切ってもいい、何時打ち切られても文句を言わない、孤独な老人の虚無的日次記である」(『閑居と乱世』、89頁)。
 「『断腸亭日乗』四十二年分を再読し終えて、何時までも残った余韻は、「物一たび去れば遂にかへつては来ない。短夜の夢ばかりではない」(「雪の日」)、その惻々たる「無常感」であった」(同書、93頁)。
 「東京という都の「人と栖」の幾変転を叙した断腸亭日乗の四十余年は、それ自体、江戸・東京半世紀の点鬼簿であり、壮大な『東京新方丈記』であった」(同書、95頁)。

巴里は再度兵乱に遭つたが依然として恙なく存在してゐる。春ともなればリラの花も薫るであらう。然しわが東京、わが生れた孤島の都市は全く滅びて灰となつた。郷愁は在るものを思慕する情をいふのである。再び見る可からざるものを見やうとする心は、これを名づけてそも何と言ふべき歟。(「草紅葉」昭和二十一年十月草、『葛飾土産』)

 この最後の問いに対して、佐竹昭広は、「私も荷風に答えるべき的確な語を知らない」と言う。確かに、跡形もなく失われた故郷を再び見ようとする心の疼きは「郷愁」ではない。なぜ適語が見つからないのだろう。これは不思議なことではないか。この絶対的な再見不可能性は、古今を問わず、洋の東西を問わず、繰り返し無数の人たちによって生きられてきた経験だったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「コスパ」も「タイパ」もない、サウイフ世ノ中デ私ハ生キタイ ― 小倉孝保著『中世ラテン語の辞書を読む 100年かけてやる仕事』(角川ソフィア文庫、2023年)を読んで

2023-06-12 00:00:00 | 読游摘録

 自慢ではないが、私は時代に乗れていない。遅れているなんてものではない。そもそも時代の乗り方を知らない。「あのぉ~、スミマセン、切符、どこで買えますか?」みんな、私を無視して、通り過ぎていく。かくして、「現代」は、あれよあれよという間に、私から遠ざかっていく。
 自分が今ホームに立っている駅にはもともと止まらないと知っていたはずの急行列車が、飛び込み自殺をする間もないほどの速度で眼前を通過していくのを、「あっ、そうだったですね。止まらないんですよね、この駅には」と、呆然と見送っている阿呆な老人の状態が現在の私だ。
 さて、嫌いな言葉は山ほどある。自分ではそれらを使わない。でも、巷では使われる。それも、嫌というほど。たとえば、かつては「コスパ」(「コストパフォーマンス」の略)、今は「タイパ」(「タイムパフォーマンス」の略)。
 支払った対価とその効果を比較する「コスパ」という、品性を欠いていると私には思われるこの言葉は、平成に入ったころから使われ始めた。「これ、コスパ、最高っすよネ」とか。聞く度に、思わず、「死ね!」と、心のなかで、「るろうに剣心」状態、であった(意味不明っす)。
 目新しいのは「タイパ」。昨年、ネットで最初に見かけたとき、「えっ、なにこれ?」と戸惑った。その言葉が使われている記事を読んでも意味がよくわからなかった。後日、「タイパ」とは、費やした時間とその効果を比較する言葉だと知った。「タイパがいい」とは、「掛けた時間の割に得られた対価は相対的に大きい」、ということだ。例えば、映画を倍速で観るとか。直感的に、「ダメだ、こりゃ」と思った。
 なにが「ダメ」だというのか。こういう時流語を、「適切に」使えない自分もダメ、時流に乗って無反省に使っている輩もダメ、ということである。つまり、ダメダメ、である。
 「コスパ」も「タイパ」も、関係ね~んだよ。時間をとことん、しかも無償で、かける仕事が、ほんとうにヒューマンなアクティビティなんだよ。私は、本当に、そう思っている。それが文明なのだ、と。
 小生のごとき、その存在がかぎりなく無に近いものがこんなことをつべこべ言っても埒が明かない。心ある読者よ、小倉孝保著『中世ラテン語の辞書を編む 百年かけてやる仕事』(角川ソフィア文庫、2023年。原本『100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む』、プレジデント社、2019年)をどうか読んでください。
 その上で、この好著を肴に、コスパもタイパも関係ない未来について、ゆるゆると一杯やりながら、語り合いませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


マルゼルブの全生涯への美しき頌歌

2023-06-11 00:00:00 | 読游摘録

 木崎喜代治氏の『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』第3章の最終節「4―国王の弁護人」の最後の三頁は、氏のマルゼルブに対する深く痛切な敬愛の念が抑制された筆致であるからこそ文面に滲み出ている類まれな名文である。フランス革命史についての知識がなくても、それを味わう妨げにはならない。端的にこの文章に向き合うためには、生半可な知識などないほうがいいかも知れない。もちろん、この労作をここまで読んできてこの文章を読めば、感動はそれだけ深いものとなる。
 マルゼルブのような傑出した人物がフランス一八世紀にいたということを知って、そこから「啓蒙の世紀」と言われる一八世紀について、特にその後半について、そして、フランス革命史についてもっと知りたいという気持ちが生まれてくれば、その探求はよりいっそう実りあるものになるだろう。高校生や大学受験生の学習にとってもそれは同じだと思う。
 さあ、皆さんも、日曜の午後のひとときに、どうぞじっくりと味わってください。

 マルゼルブがみずから生命を賭してルイ一六世を弁護したことは、国王への一臣民の深い忠誠の美しい物語として語られてきた。われわれも、それが美しいことを否定はしない。しかし、マルゼルブの政治的生涯とその理念の変容をたどってきたわれわれは、はたしてマルゼルブがルイ一六世のためにのみ生命を捧げたのであろうか、と問わざるをえない。マルゼルブはルイ一六世の政策あるいは無策を正面から批判していたし、かれの優柔不断の性格を遺憾としていた。そして、マルゼルブが弁護を申し出たとき、ルイ一六世はすでに王位を奪われており、一人の囚人にすぎなかった。マルゼルブは、不正を蒙ったものへの限りない同情心を抱いていたとはいえ、このような人間を、生命をかけて弁護するような熱狂的な人物ではなかった。しかも、不正を蒙った人間のことを語るなら、まず、ルイ一六世の政府のもとで不正を受けた人たちを救わなければならなかったろう。
 マルゼルブが身を捧げたのは、ルイ個人のためだけではなかったであろう。ルイはそれに値しなかった。マルゼルブが身を捧げたのは、かれの七二年の全存在の大義のためであったようにわれわれには思われる。マルゼルブは王国の貴族の司法官・行政官として長い年月を生きてきた。貴族の存在は国王の存在によって意義づけられる。したがって、貴族は国王を支える義務をもつ。もし、貴族が、窮地におちいった国王を救いにおもむかなかったならば、この貴族はその存在理由をみずから放棄したことになる。しかも、現在の危機は、単なる国王の生命の危機ではなくて、王国そのものの崩壊の危機である。一人の国王の死は別の国王によっておきかえることができる。しかし、王国の死はそうではない。さらに、時代の精神は君主政にかえて共和政を求めていることを、マルゼルブはだれにもまして知っていた。
 国王その人ばかりでなく、王国そのものが永久に失われようとしているとき、貴族だけが生きのびてなにになるというのであろうか。そもそも、貴族が生きのびるということが可能なのか。少なくとも変節なくして可能なのか。永久に国王が去り、王国が消えるとき、貴族もまた消滅すべきではないのか。たしかに、貴族として死に、人間として生きのびることはできよう。しかし、七二年間、古き家柄の貴族として国王に仕えてきたものにとって、そのような区別は詭弁でしかなかったろう。
 しかも革命の混乱は、見せてはならない人間の醜悪さをいたるところで示していた。クロディウスたちがフランスをあやつっていた。マルゼルブは、かつて自分の主君であった人間を弁護することによって、自分が古い原理を持つ一人の人間であること、すくなくとも原理を持つ人間がなお一人存在することを、動乱のなかで世界に示しておきたかったのではあるまいか。否、もし、眼前の世界を信じていなかったとしたら、少なくとも自分自身に立証しておきたかったのではあるまいか。ルイの死は一つの契機に過ぎなかった。
 ボワシー・ダングラ(Boissy d’Anglas, 1756-1826)は書いている。「マルゼルブ氏の性格はきわめて明確であり、きわめて完結しており、また、いってみれば、氏のやり方と行動において自己自身ときわめて首尾一貫していたので、ある一定の場合に氏がなにを為しなにをいうかを前もって知りえないということはありえなかった。そして、次のようなことをいいうるのはたしかに氏にかんしてである。すなわち、もし、状況がこの人の徳の発揮にふさわしくないということはなかったとするなら、かれの徳は、その徳を要求する状況にけっしてふさわしくないことはなかった、と。」ボワシーはさらに書いている。「氏は、国王の専制主義にたいしても、人民の専制主義にたいしても、ひとしく敵であった。氏はその一方と戦ったがゆえに追放され、他方と戦ったがゆえに殺害された。氏の全生涯のあらゆる場合において、氏は、その性格に、その原理に、そしてその徳に忠実であった。そして、氏は、義務の遂行をまえにして恐怖のゆえに後ずさりすることはけっしてなかった。人民が抑圧されたとき、氏は人民を弁護した。ついで国王が抑圧されたとき、氏はなお国王を弁護した。」
 マルゼルブは自分の大義に忠実であった。さいごの瞬間までそうであった。そのかぎりにおいて、かれのさいごの行為のうちに、英雄的なものはなにもない。それは、かれのそれまでの生き方の延長線上の外にあるものではない。もし、かれの死が英雄的であり美しいものであったという人があったなら、われわれは、かれの全生涯がそうであったのだ、といわざるをえないであろう。(341‐343頁)