内的自己対話-川の畔のささめごと

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来年五月、フランス国立図書館で「日本哲学」研究集会が開催される

2023-06-20 09:55:41 | 哲学

 フランス哲学とかドイツ哲学とか聞くと、その中身についての知識の程度はともかく、それぞれを代表する何人かの哲学者の名前を挙げることは、倫理を履修した高校生ならできるだろう。それぞれの哲学者の所説についてはよく知らなくても、それぞれに他方には見いだせない特徴があるという印象をもっている人も多いだろう。実際それはその通りだ。
 イギリス哲学とかアメリカ哲学とか、言わないわけではないけれど、独仏と比べると、なんとなく座りが悪いように思うのは私だけだろうか。国の名を関することなく、経験論、功利主義、日常言語学派、分析哲学、プラグマティズムなどを話題にするとき、自ずと両国の哲学者たちの名が挙げられるが、だからといって、それらを国ごとにひっくるめてイギリス哲学とかアメリカ哲学とかとして論じることは、独仏に比べればの話だが、少ないように思う。
 イタリア哲学とかスペイン哲学とかになると、もっと馴染みが薄い。というか、そもそもそういう呼称はあまり見かけない。ロシア哲学なんていうのも聞かない。もちろん、これらの国にも哲学者と呼ばれるに値する人たちがいることを私たちは知っている。
 東洋に目を転じると、インド哲学や中国哲学という呼称は、少なくとも戦後のある時期までは流通していた。その名を冠した学科も大学に存在した。今はどうなのだろう。
 さて、日本哲学となるとどうであろうか。それが何を指すかは哲学という言葉をどう定義するかにもよるし、明治以降に話を限っても、そして今日海外でもかなり広く近代日本の哲学者たちが研究されていることを考慮しても、当の日本ではいまだに「日本哲学」という呼称になんとなく違和感を覚える人が少なくないように思う。それどころか、「そんなものはない」と激昂する人さえ、いなくはない。
 私自身、便宜上、フランス語で philosophie japonaise という呼称を使うことはあるけれど、積極的には使わない。それも、日本語での哲学、日本における哲学、日本人による哲学などの意味で使うのであって、他国には見いだせない日本独自の哲学という意味では使わない。日本人哲学者個々の独自の思想をそれとして研究することはあっても、そこに「日本的特徴」を見出そうとは思わない。
 なんでこんなことをつらつらと書き連ねたかというと、昨日、ちょっと思いがけない依頼を受けて、しばらく感慨に耽ってしまったからなのである。
 パリのフランス国立図書館(フランソワ・ミッテラン館)の哲学・人文科学部門の責任者から、同図書館で来年5月24日に開催予定の「日本哲学」についての研究集会で発表してくれないかとの依頼メールが来たのである。日本哲学を主題とした研究集会が同図書館で開催されるのはこれが初めてのことではないかと思う。プログラムの詳細についてはまだわからないが、la philosophie japonaise についての研究集会がフランス最大の図書館で開催されるのは、フランスにおける日本文化研究にとって記念すべきことと言えるのではないかと思う。
 十九世紀のジャポニズム以来、フランスで日本文化が話題にされるとき、歴史、文学、芸術、古典芸能、民俗、料理、民芸、工芸、自然との関係などが好まれてきた分野やテーマであったが、それに並ぶとまでは言えないにしても、日本哲学が日本文化に関するテーマのリストに加えられたことは、フランスで四半世紀にわたって日本の近代哲学を主に研究してきた者の端くれとして、感無量である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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