内的自己対話-川の畔のささめごと

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建礼門院 ―「死なざるが故に已むことを得ず生き」た悲劇の女院

2023-06-14 15:57:28 | 読游摘録

 昨日の記事で話題にした佐竹昭広の「死なざるが故に」(『閑居と乱世』所収)は十三頁ほどの短い論考で、三節に分かたれ、その一と三は『断腸亭日乗』を主題とする。その間に三頁余りの第二節があり、量的配分からいえば挿入節のごときだが、そこで中世文学における「死なざるが故に已むことを得ず生き」た一人として建礼門院が想起されている。
 「中世文学点描」との副題をもつ『閑居と乱世』の全体的内容からすれば、むしろ建礼門院のことがもっと詳しく論じられてもよさそうなものだが、初出が『いまは昔むかしは今 5 人生の段階』(福音館書店、一九九九年)で、特にテーマを中世に限定する制約もなかったがゆえに、当時再読を終えた『断腸亭日乗』について語りはじめ、その途次で中世に立ち寄ったというのがその時の執筆事情でもあったのであろうか。
 『平家物語』の掉尾を飾る「灌頂巻」は建礼門院の最晩年と最期の語りとして哀切を極める。佐竹昭広が引用しているのは、「女院出家」「大原入」そして最後の段「女院死去」からだが、「大原御幸」の段も聴くものの涙を誘わずにはおかない。
 建礼門院は、高倉天皇の中宮、清盛の次女、名は徳子。安徳天皇の生母となって、平家一門を栄華に導き、その最盛と滅亡とをまのあたりにした悲劇の皇后である。高倉天皇の父である後白河法皇とは、嫁・舅の関係になる。
 一一八六年四月下旬、後白河法皇は建礼門院に会うため、お忍びで大原へ御幸された。案内に出た阿波内侍が、女院は仏前に備える花を摘みに山へ登ったという。仏道修行に専心する女院の庵室に昔日の栄華の面影はなく、法皇一行の涙を誘った。
 やがて、山から下りてきた女院は、法皇の突然の訪問に、花籠を持ったままただ呆然と立ちつくす。その箇所を引こう。

 さる程にうへの山より、こき墨染の衣着たる尼二人、岩のかけぢをつたひつゝおりわずらひ給ひけり。法皇是を御覧じて、「あれは何ものぞ」と御尋あれば、老尼涙をおさへて申けるは、「花がたみひぢにかけ、岩つゝじとり具してもたせ給ひたるは、女院にてわたらせ給ひさぶらふなり。爪木に蕨折具してさぶらふは、鳥飼の中納言維実のむすめ、五条大納言国綱卿の養子、先帝の御めのと大納言佐」と申しもあへずなきけり。法皇もよにあはれげにおぼしめして、御涙せきあへさせ給はず。女院はさこそ世を捨る御身と言ひながら、いまかゝる御ありさまを見えまゐらせむずらんはづかしさよ。消も失せばやとおぼしめせどもかひぞなき。よひよひごとのあかの水、結ぶたもともしをるゝに暁おきの袖の上、山路の露もしげくして、しぼりやかねさせたまひけん、山へもかへらせ給はず。御庵室へも入らせ給はず、御なみだにむせばせたまひ、あきれて立たせましましたる処に、内侍の尼参りつゝ、花がたみをば給はりけり。
                             『平家物語(四)』、岩波文庫、一九九九年、四〇〇頁。

 涙に始り涙に終わるこの対面の哀切さは、単に建礼門院の零落ぶりによるのではなく、平家追討の院宣を源氏に与えたのがほかならぬ後白河院だったことによってさらに深まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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