内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自律システムと他律システムとは相互に排他的な関係にはない ― F・ヴァレラ『自律性と認識』

2022-02-18 23:59:59 | 哲学

 補遺を除けば、第十論文 « La marche pour chemin : nouvelles directions pour les sciences cognitives » の最終節である « Vers une voie moyenne » は、『自律性と認識』全体の結論として読むことができる。実質一頁と短いから、原文すべてを段落ごとに引きながら、コメントしていこう。

 Le lecteur pourrait penser que j’ai proposé ici une confrontation dans laquelle l’opposition entre l’autonomie et l’hétéronomie est celle entre le bon et le mauvais. Ce serait un piège épistémologique fatal, que nous devons éviter avec le plus grand soin. J’aimerais conclure ce livre par une brève discussion sur ce sujet.

 昨日の記事で西垣通訳を引用した前節最終段落を受けて、ヴァレラの立場についてあり得る誤解に対してヴァレラは読者に注意を促している。問題は、自律システムか他律システムかの二者択一ではない。どちらかが良くて他方が悪いという話ではない。このような二者択一的な発想は、認識論において致命的であるから、私たちは細心の注意を払ってこの陥穽を避けなければならない。

 On peut éviter ce piège en remarquant que ces deux attitudes, l’autonomie et l’hétéronomie, ne sont pas la négation l’une de l’autre. Parce que je suis critique vis-à-vis de la caractérisation hétéronome d’un système, on pourrait croire que je suis pour sa négation, c’est-à-dire une vision des systèmes comme isolés ou autistiques, inventant leur monde d’une façon solipsiste. Dans le cas des neurosciences, si l’on abandonne l’idée que le cerveau opère à l’aide de représentations, on pourrait croire alors que le cerveau se comporte comme une monade flottant librement et créant le monde à son gré. Bien sûr, ce n’est pas d’une telle opposition logique qu’il s’agit ici : elle n’aurait aucun intérêt dans le contexte de la science moderne.

 この陥穽に陥らないためには、自律と他律とは、互いに他方の「否定」という関係にはないことを理解すればよい。確かに、ヴァレラは一つのシステムの他律的な性格に批判的な態度を示しているところがあるから、そこだけを見れば、ヴァレラは他律システムの否定に与している、つまり、孤立し自閉的で独我論的に自己の世界を創発するシステムを肯定する立場に立っていると思われてしまうかも知れない。しかし、神経科学において、脳が表象に拠って(あるいは表象を介して)作用するという考えを放棄することは、脳は自由に浮遊し、好き勝手に世界を想像するモナドのようなものだと考えることを意味する。つまり、表象を介して世界と連接・連関しているかぎりにおいて働くことができる脳を、まったく自律的でもっぱら自己言及的・自己生成的・自己組織的な閉鎖システムと考えることは、脳が本来そこにおいて働く「場所」から脳を切断してしまうことになる。自律と他律とを対立させる論理は、だから、現代科学においてはもはやなんの役にも立たない空理に過ぎない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自律システムと他律システムとの間の中道の探求―フランスシスコ・ヴァレラ『自律性と認識』

2022-02-17 20:53:28 | 哲学

 西垣通氏は、『ネットとリアルのあいだ ―生きるための情報学』(2009年)の最終章第三章第二節「タイプⅢコンピュータとは」の結末部分で、ヴァレラの Autonomie et Connaissance. Essai sur le Vivant, Éditions du Seuil, « La couleur des idées », 1989 から、他律システムと自律システムについて述べている一節を引用している。本書は邦訳されておらず、引用箇所の頁数が仏語版のそれと一致しているから、氏ご自身でお訳しになったのだろう。
 この仏語版は、Principles of Biological Autonomy というタイトルで1980年にアメリカで出版された英語版の仏訳であるが、その仏語版には英語版初版にはなかった四つの章と補遺が加えられている。しかも、原著の各章はそれぞれ別の機会に英語で発表された論文を基にしており、それに1982年から1987年にかけてアメリカで発表された四つの英語論文と補遺の仏訳が加わってできたのが Seuil 社の仏語版である。ヴァレラ自身、仏語版の前書きで、これは英語版の第二版ではなく、最新の情報を盛り込んだ延長版だと断っている。
 西垣氏は、ヴァレラがフォン・ノイマンとウィーナーのシステム理論をそれぞれ「システム外部から規定される他律システム」」「システム内部から規定される自律システム」の理論と位置づけたこと、他律システムは入力/出力で特性づけられた開放系だが、自律システムは自己言及的に作動する閉鎖系であること、前者が機械、後者が生命に対応していることを述べた上で、次の箇所を上掲のヴァレラの本から引用している。

この二つの根源的なテーゼは、一九四六年以来、神経科学、進化理論、免疫学、家族心理分析、経済学、人工知能、経営学、言語学といった多くの領域に影響を与えてきた。そして今日まで、ほとんどの領域で他律的なアプローチが支配的な役割を担ってきた。(『自律性と認識』二二三頁)

 「家族心理分析」と訳されている語は、仏語版では、 « thérapie familiale » だから、「家族療法」と訳すほうが一般的だと思う。それを別にすれば正確な訳である。
 この箇所を引用した直後に西垣氏は、「タイプⅢコンピュータは、ITの分野で、フォン・ノイマンからウィーナーへのパラダイム・シフトを象徴するものとなるだろう」」と述べているが、これは氏独自の意見で、ヴァレラのテキストのコンテクストからはかなり離れている。
 ヴァレラは、上掲の引用箇所の直後の最終章最終節を « Vers une voie moyenne » と題しており、他律システムと自律システムとを対立させ、両者を互いに排他的なシステムと彼が見ているという、ありそうな誤解に対して注意を促している。まったく他律システムを必要としないモナドのような自律システムなどヴァレラは考えていない。両者をどう調和させるか、そのための「中道」(voie moyenne)を探すことこそヴァレラの最終的な課題である。
 明日の記事ではその最終節をもう少し丁寧に読んでみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「内側から心を、経験をつうじて内観することで現れる知見は少なくない」― 西垣通『AI原論 神の支配と人間の自由』より

2022-02-16 18:21:28 | 哲学

 西垣通氏の著作には、フランシス・ヴァレラの名がよく出て来る。マトゥラーナの名とともに「オートポイエーシス」理論の創始者の一人として挙げられることが多いが、単独で挙げられるときもある。それは、経験と科学を架橋するような非表象主義の「エナクティヴ(enactive)認知科学の提唱者としてである。この問題意識は西垣氏のそれと重なるから引用されることも多いのだろう。
 2018年に出版された『AI原論 神の支配と人間の自由』(講談社選書メチエ)では、心と脳の本質的な関係を洞察するために、同書をつらぬくテーマの基盤をなす議論として、ヴァレラの議論を整理して紹介している。そこから摘録する。
 ヴァレラは、認知科学においてひろく仮定されている、表象にもとづく「認知主義」を批判する。認知主義とは、心とは一種の器である、そこに外部世界の事物が表象として反映される、という考え方である。そして表象の操作が心の活動に対応するという前提のもとに、人間の認知活動がコンピュータ・シュミレーションを通じて分析される。これは外側から心の活動を科学的に眺めるアプローチと言える。このとき、「心の活動」が「脳の活動」に近づいてくるのは明らかである。しかし、果たして心とは、器のように外部から観察できる所与の実体なのだろうか。
 ヴァレラは、そうではなく、心とはむしろ人間主体が身体の内側から経験し、行動にともなってダイナミックに創出される存在だと考える。ヴァレラによれば、認知とは、所与の心による所与の世界の表象ではない。つまり認知とは、「世界のなかの存在体が演じる多様な行動の歴史にもとづき、世界と心を行動から産出・活性化すること」(the enactment of a world and a mind on the basis of a history of the variety of actions that a being in the world performs)に他ならない。心とは、人間の身体的行動の歴史から時々刻々エナクトされる(産みだされる)ものなのである。だから心の中にあるのは、客観的に三人称で語られるものというより、むしろ、クオリア(感覚質)をはじめ、一人称で語られるものなのだ。
 脳科学の記述は、心のごく一面を捉えるにすぎない。内側から心を、経験をつうじて内観することで現れる知見は少なくないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「道は歩くときのみに存在する」― フランシスコ・ヴァレラ他=著『身体化された心』より

2022-02-15 23:59:59 | 哲学

 九鬼周造が「日本的性格」で示したように、古語「あきらむ」の原義に立ち返るならば、「あきらめる」ことは「明らめる」ことであって、「諦める」こと、つまり何かを断念あるいは放棄することではない。それは、むしろ、根拠なき世界をそれとして受け容れる勇気を与えてくれる。しかし、「明らめる」だけでは、根拠なき世界を生きてゆくためにはまだ何か足りない。
 私たちの経験から独立し、それ自体として不変に存在するものを探求する客観主義が、とどのつまり出口のないニヒリズムに私たちを陥らせることが明らかになったのは、西洋では十九世紀以降のことだが、仏教においては中観派によって古代からこの無根拠性は理解されていた。そのことを認知科学の領野において見事に示したのがフランシスコ・ヴァレラ他=著『身体化された心』(工作舎 2001年。原著 The Embodied Mind, 1991、revised edition, 2016)である。

われわれの導きとなる比喩は、道は歩くときのみに存在するというものであり、最初の一歩として、科学文化における無根拠性の問題に対峙し、空の開放性においてその無根拠性を身体としてあるようにすることを学ばなければならない、とわれわれは確信してきた。(338頁)

Our guiding metaphor is that a path exists only in walking, and our conviction has been that as a first step we must face the issue of groundlessness in our scientific culture and learn to embody that groundlessness in the openness of sunyata.

 この直後に、まさしくこの主張を展開した人物として西谷啓治の名が挙げられる。ヴァレラらは、西谷の「哲学的であるが身体としてある、真に惑星的な漸進的反省を深めようとする努力」(Endeavour to develop a truly planetary form of philosophical yet embodied, progressive reflection)を高く評価する。そして、その次の節において、西谷の思想の本質的な論点をいくつか検討している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


九鬼周造における「近代の超克」の試み ―「諦める」は「明らめる」であるとする反近代的態度

2022-02-14 18:29:41 | 哲学

 九鬼周造は、『「いき」の構造』(1930年)で、「いき」の第三の徴表として挙げた「諦め」を「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心」と定義している。この定義の中の「知見」という言葉の中に、「諦める」の古形「あきらむ」の意が汲み取られている。『「いき」の構造』刊行から七年後の昭和十二年に九鬼は「日本的性格」と題された論文を発表している。その中ではより明示的に「あきらむ」と「諦める」の関係を説明している。

自然に従うということは諦めの基礎をなしている。諦めとは自然なおのずからなものへの諦めである。自然を明らかに凝視することによって自己の無力が諦められるのである。(岩波文庫『人間と実存』2016年、307頁)

諦念は自然ということからおのずから出て来るものである。自然をそのままに明らかにすること、明らめることが諦めである。(同308頁)

 現代語の「諦める」の意、つまり「断念する」の意で「あきらむ」が用いられ始めるのは、近世に入ってからである。古語辞典の多くは、近松門左衛門の『蝉丸』の「仏に誓言立てし故、是非なき事とあきらめ給へ」をその用例として挙げている。
 上代・中古では、「(心の)曇りを無くさせる」(『岩波古語辞典』)、「明瞭にこまかい所までよく見る」の意で主に用いられた。さらに、同辞典は、源氏物語の用例を挙げながら、「(理にしたがって)はっきり認識する。判別する」、「事の筋、事情を明瞭に知らせる。弁明する」などの意も挙げている。そして最後に、「断念する」を挙げ、上掲の近松の用例を示している。
 ところが、なぜ、「事情・わけを見定める、明らかにする」の意から、断念あるいは諦念の意が出て来るのか、説明している辞書は意外に少ない。『岩波古語辞典』にもその説明がない。手元にある学習用の中型・小型辞典七冊の内、短いが的確にこの転意を説明しているのは、大修館書店の『新全訳古語辞典』(2017年)だけである。「事態を明らかにする、の意が、そうわかった以上は思い切る、の意に転じたもの」とある。
 九鬼が言うような「明らめることが諦めである」という態度は、近世以前から現実にあったであろう。事柄を見きわめ、もはやどうにもならぬと判断した以上は、その不可変なことに執着せず、そこから離脱し、それに対して恬淡とした態度を保持し、無関心において生きる、それが「あきらめること」である。
 では、古語において、現代語の「諦める」の意のみを表している語にはどうような例があるか。河出文庫の『現古辞典』(2018年)は、「おもひたゆ」「おもひはつ」「おもひきる」「おもひすつ」「おもひとどむ」「おもひはなつ」を「あきらめる(諦める)」の項に挙げている。用例は、万葉集、源氏物語、平家物語などから取られている。これらの語に共通しているのは、「おもひ」から離れることで、自分が置かれている事態の明瞭な認識の意は含まれていないことである。
 現代語の意味における「諦める」は、事態を見きわめた上で主体が自らの責任において為す判断であるというよりも、為すすべもなく事態を受け入れざるを得ないという消極性に傾きがちであるとすれば、九鬼が「諦める=明らめる」と古義に立ち戻ったことは、近代のニヒリズムの超克の一つの試みとしても読むことができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


机上と書棚の整理は頭の中の整理と直結している

2022-02-13 23:59:59 | 雑感

 昨日今日と蔵書の整理をしていました。整理と言っても、いらない本を処分するのではなく(それもそろそろ始めないとなあ)、仕事机の上に積み重なった本を移動させ、書棚に並んだ本の配列を変えただけです。
 というのも、昨年十二月から数日前まで、ちょっと病気かと自分でも疑うほどの勢いで買いまくった本がどんどん仕事机とその左脇のサイドテーブルに積み重なり、それでも場所が足りなくなり、とうとう食卓も占領し始め、まるで野球のスタジアムの一塁側・外野・三塁側の観客席のように、しかも二重に本に取り囲まれた中でここ二週間ほど食事をしていたので、さすがにこれはなんとかしなければと思い、キャスター付きの小さな本棚を一つ購入し、机上に並べられていた二百冊ほどの本をそこに移して机上をすっきりさせ、ついでに全部で十一架ある書棚に並んだ本の配列を、直近の原稿執筆の必要に応じて若干並べ替えたり、前後二列に本が並んでいる棚の前列を別の棚に移動させて、後列にひっそりと隠れていた本たちを日の当たる「表通り」に出してあげたりしました。
 この作業は、「旧友」との久しぶりの「再会」や、ちょっと疎遠になっていた「知人」との「立ち話」、買ったことさえ忘れていた本の「再発見」、「異業種間交流」などの機会ともなり、なかなかにぎやかで楽しく、それと同時に、机上・書棚の整理が頭の中の整理とも直結していて、原稿執筆のための新しいアイデアや、それまで互いに結びつかなかった複数の問題の間の関連が見えてきたり、その関連づけの手がかりが見つかったりと、なかなか有意義でもありました。
 明窓浄机、明日から思いも新たに原稿執筆に取り組みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の心に染みわたる不思議な「嬉しさ」

2022-02-12 11:19:09 | 雑感

 今日から実質十日間の冬休みです。実質というのは、大学の正式な学年暦では来週月曜日からの一週間が休暇ですが、私の場合、月曜日に授業がないので、今日十二日土曜日から二十一日月曜までの十日間が休みになるからです。たいしたことではありませんが、やはり嬉しいものです。
 とはいえ、先日も話題にしたように、この休み中に研究者としてやっておくべきこと、予定されていることがありますから、授業の準備に時間を割かなくていいかわりに、その時間を発表原稿執筆、発表資料作成にあてることになります。でも、それは義務としてではなく、どちらも受けた依頼にこちらから応えるためですから、そのために時間を使えることは嬉しくさえあります。
 ここ数日のことでしょうか、自分でも理由がよくわからず、不思議な感覚なのですが、一言で言えば、「嬉しい」という気持がじんわりと心を浸しています。一昨日の記事で話題にしたことは、ほんとうに嬉しいことなのですが、それだけではなく、何か特別なことがあったから「嬉しい」というのではなく、あと何年生きられるかはわかりませんが、それはとにかく、今こうして生きていられるだけで、「大したことはできないが、これはこれで、まあ、わるくはないよな」と、嬉しく思うのです。「ありがたい」とまで言ってしまうと、少し嘘が混じるような気がします。
 もしかしたら、これは、ボケ始めた、いや、すでにボケが始まっていて、それがいよいよ進行し、「恍惚の人」への道をそれだけ前に進んだということなのかも知れません。それならそれでよいではないか、と思います。遅かれ早かれ、「ゆくみち」なのですから。
 あとは、孤独死の危険が現実的なものである老生は、できるだけ人様に迷惑を掛けない死に方をするための準備を少しずつ周到に進めていくつもりです。こういうのを世間では「終活」というのでしょうが、最近なんでも「活」をつけりゃあいいのか、と言いたいほど、「◯ 活」という言葉が氾濫していて、それにうんざりしているので、使いたくありません。
 ただ、思索だけは、これはほんとうに切願ですが、死ぬその日まで、先日も使った表現ですが、焦らず怠らず、そして、弛まず、心を強張らせず、続けていきたい。そのためにこそ、健康には細心の注意を払い、毎日走り続けたい。今願うことはそれだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


現代情報・メディア社会の問題を考えるためにプラトンを読む

2022-02-11 23:59:59 | 講義の余白から

 現代社会のメディア・リテラシーについて考えていると、プラトンの対話篇のいくつかを参照するに立ち至ることが少なからずある。それは決して偶然ではない。なぜなら、プラトンは、知を形成・伝達する「メディア」(媒介・媒体)について、時代を超えた深い洞察をその対話篇において示しているからである。
 少なからぬ学生たちが、前期中間試験の答案の中で、授業で取り上げた『国家』の「洞窟の比喩」に言及していた。その文面からわかることは、この比喩によって、今自分たちが置かれている現代情報社会の問題が鮮やかに浮き彫りにされることに彼らが深く印象づけられていたことである。高校の哲学の授業で習ったときは、おそらく大して興味も引かれなかったであろう「洞窟の比喩」に対して、彼らは思いもよらぬコンテクストの中で再会し、興味を示したわけである。「仕掛け人」としては、「してやったり」であった。
 後期にもプラトンは登場する。今日読んだ西垣通の『ネットとリアルのあいだ』にも『国家』への言及がある。第3章「未来のネット」の中の「ソクラテスの警告」と題された節にそれはある。
 ネットの仮想空間の中で、壊れた「私(自己)のリアル」の破片を抱えながら幽霊のようにさまよう現代人を問題にしながら、氏は、「自由平等を建前とする民主制に移行していく文明進歩のなかに、すでにその前兆はあったのだろうか」と自問する。その直後に『国家』における民主制批判が引用される。巻末の参考文献一覧からわかるように、中央公論社の『世界の名著』版からの引用である。同版は手元にないし、学生たちに引用箇所の前後をあわせて読ませるにはやはり仏訳のほうがいいから、該当箇所のステファヌス版の頁付(560e - 564b)を示しておいた。
 前期、メディア・リテラシーの授業でプラトンにはじめて言及したときは、彼らはかなり面食らっていたが、石田英敬の『大人のためのメディア論講義』の中にも『パイドロス』のムネーメー(記憶)とヒュポムネーシス(想起・記憶装置)との違いに関わる箇所がかなり詳しく説明されているのを読むに及んで、メディアの問題を考えるときにプラトンを参照することはけっして「はったり」や衒学趣味や奇を衒うことではなく、現代メディア社会の問題を根本的に考えるためにプラトンが重要なヒントを与えてくれることを理解したはずである。
 だから、今日の授業で『国家』への言及箇所を読んだときも、もうそれは驚くにはあたらず、といった様子であった。それが単に授業内の受け身の反応に終わらず、彼らがこれから現代社会の様々な問題に直面し、自ら考えることを求められるときに、プラトンを読んでみようかという気に自ずとなることを願いつつ、メディア・リテラシーの授業でこれからも繰り返し言及していきたいと思っている。
 それもあって、後期の最終回、つまり彼らにとって学部最後の授業でも、「現代ネット社会におけるメディアと民主主義」というテーマで話す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本学科で哲学の論文を指導することができるという僥倖

2022-02-10 23:59:59 | 哲学

 午前中、授業の直前に学部の卒業論文についての相談のため学生と面談する。学科の教員室で行うと、そこから授業のある建物まで自転車でも五分以上かかるので、そのロスをなくすために、授業のある教室の階下の空き教室を使う。
 当の学生は、哲学部と日本学科に同時に登録している。日本学科では一年生のときから首席を続けている。成績ばかりでなく、人柄も申し分がない。私は三年生の授業しか担当していないから、一二年次ではその学生を教室で見ることはなかったが、入学直後には、ストラスブールに来る前にパリのアンリ四世校のグランゼコール準備学級にいたときにすでにソルボンヌで取得した単位の認定のことなどで面談した。以後、ときどきメールで質問が来たりしていた。とにかくよくできる学生で、またとても熱心に幅広く勉強している。
 卒業論文は、大森荘蔵について書く。立ち現れ一元論の中のとくに言語の問題を扱う。日本人の友人に頼んで『物と心』(ちくま学芸文庫)その他何冊か大森荘蔵の本を日本から取り寄せ、今は「ことだま論」を読んでいるところだという。付箋がたくさん貼ってあった。
 もう七年も前になるが、大森荘蔵の仏訳論文集を共訳で出版する話があって、そのために私は「ことだま論」を訳した。私は早くに訳し終えたが、他の訳者の仕事が進まず、訳し方にも問題があって、結局この話は立ち消えになった。以来、手掛けた仏訳は「筐底に眠り」、見直すこともなかった。
 その旧訳が今回この学生の論文のために役立つことになったのは嬉しい。彼女に訳を送り、忌憚なく意見を言ってくれと頼んだ。
 おそらく、私がストラスブールで論文指導する学生の中で、唯一人、哲学の論文を書いてくれる学生ということになるだろう。来年修士に進学するが、やはり哲学部と日本学科とに同時登録するという。将来がとても楽しみな学生を哲学の分野で指導する機会に恵まれたこの「僥倖」を心から嬉しく思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


焦らず怠らず、緩やかに思索の歩を進めていく

2022-02-09 08:46:27 | 雑感

 先週土曜日、昨年一月号(発行は前年十二月末)に「他性の沈黙の声を聴く―植物哲学序説」を寄稿した月刊誌から、新たな寄稿依頼が届いた。前回の寄稿論文の内容を踏まえつつも、それを別のテーマの下で展開することを求める依頼で、私にとってはチャレンジングな課題であり、お引き受けした。締め切りは四月下旬で、それまでまだ二月余りある。原稿の長さ(四百字詰め原稿用紙で25枚から30枚)からしてちょうどよいくらいだ。あまり先だと、つい執筆開始を先延ばししてしまい、締め切りが迫ってから慌てることが私にはよくある。
 三月半ばにストラスブール大学で開催される国際シンポジウムでは、武士道について、「「みち」から「道」へ ―「もののふのみち 」から武士道への倫理規範の変容過程の思想史的考察 ―」というタイトルで発表する。この発表原稿を来週の冬休み中にあらかた仕上げた後、上記の寄稿論文執筆に取り掛かろうと思う。すでにいくつかのアイデアは生まれつつあり、いつものようにそれらをポストイットにメモして、机上のアクリルボードに貼り付け始めた。
 応募のために原稿を書く、シンポジウムに自主的に参加する、雑誌の特集号を企画する、シンポジウムを組織する、などなどの積極性が私にはまるでない。そのかわり、依頼が来たら、ほぼすべて応じる。と言っても、たいして来ない。今年の場合、まったく期せずして、ちょうどいいくらいのリズムになっているのがありがたい。
 二月半ばに言語学関係の研究会での研究発表(仏語)、三月に上記の発表(日本語)、四月に上記の原稿(日本語)締め切り、六月末に書評(仏語)一本締め切り、おそらく七月末までに九月の翻訳学世界大会の発表原稿(仏語)締め切り、九月末にある論文集のための原稿(仏語)の締め切り。老生の如き小さき器にはこれくらいがちょうどよい。
 「焦らず怠らず」という大原則に従って、日々、読み、考え、書き、また読み、考え、書き、と、淡々と繰り返す。ときどき、小さな発見やパッと視野が明るくなるようなアイデアの到来に興奮することもあるだろう。このように穏やかに日々を過ごせることにじんわりと喜びを感じつつ、且つそれが許されていることへの感謝を忘れず、緩やかに思索の歩を進めていきたい。