内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日仏合同ゼミ第一日目 ― 基調講演の結論

2022-02-05 23:59:59 | 雑感

 プログラムの冒頭に行った一時間ほどの基調講演の結論は以下の通り。

 いずれにせよ、新渡戸の『武士道』に véracité に対応する訳語を適用することはできない。なぜなら、新渡戸は veracity を véracité 本来の意味では使っておらず、sincerity のほぼ同義語として使っているからである。
 上に見たラランドの説明に従うならば、véracité は sincérité の上位にある徳性である。誠実であるだけでなく、真理への志向性と忠実さを備えた徳性である。この徳性は『武士道』に見出し難いだけではなく、日本倫理思想史全体を見渡しても、見出し難いように思われる。
 敢えてアイロニカルな言い方をすれば、véracité の不在が日本倫理思想史を特徴づけている、とも言えるだろう。
 それに対して、西洋思想史においては、真理への志向性を 徳性とする思想は古代ギリシアから見られる。
 とりわけ、晩年のミッシェル・フーコーが繰り返し強調した古代ギリシアにおけるパレーシア(公共の場で死をもおそれず真理を語る勇気)にそれを見て取ることができる。

パレーシアとはある種の真理の言葉である。論証の戦略にも、説得術にも、教育術にも左右されず真を述べることである。真を述べることが、それを言表する者に、身に危険の及ぶ(死をも含む)空間を開くとき、そこにパレーシアが存在 する。パレーシアにあって、語る者はおのれの言説の真理内容と結束するのだが、それは告白におけるごとく〈他者〉への従属という形式のもと、救済への希望に おいてではなく、自由を基にして成り立つ自己への関係を明示するため、おのれ自身の死の危険すらかえりみぬ勇気においてなされるのである。ゆえに、[…]パレーシアとは、本当のことを言う義務、統治に関わる諸問題、自己への関係が交叉する場所においての真率なる言葉、真理の勇気と説明しうるだろう。

フレデリック・グロ、『ミシェル・フーコー』、文庫クセジュ802、104頁。
(最後の一文は明らかな誤訳だったので改めた。)