内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本学科で哲学の論文を指導することができるという僥倖

2022-02-10 23:59:59 | 哲学

 午前中、授業の直前に学部の卒業論文についての相談のため学生と面談する。学科の教員室で行うと、そこから授業のある建物まで自転車でも五分以上かかるので、そのロスをなくすために、授業のある教室の階下の空き教室を使う。
 当の学生は、哲学部と日本学科に同時に登録している。日本学科では一年生のときから首席を続けている。成績ばかりでなく、人柄も申し分がない。私は三年生の授業しか担当していないから、一二年次ではその学生を教室で見ることはなかったが、入学直後には、ストラスブールに来る前にパリのアンリ四世校のグランゼコール準備学級にいたときにすでにソルボンヌで取得した単位の認定のことなどで面談した。以後、ときどきメールで質問が来たりしていた。とにかくよくできる学生で、またとても熱心に幅広く勉強している。
 卒業論文は、大森荘蔵について書く。立ち現れ一元論の中のとくに言語の問題を扱う。日本人の友人に頼んで『物と心』(ちくま学芸文庫)その他何冊か大森荘蔵の本を日本から取り寄せ、今は「ことだま論」を読んでいるところだという。付箋がたくさん貼ってあった。
 もう七年も前になるが、大森荘蔵の仏訳論文集を共訳で出版する話があって、そのために私は「ことだま論」を訳した。私は早くに訳し終えたが、他の訳者の仕事が進まず、訳し方にも問題があって、結局この話は立ち消えになった。以来、手掛けた仏訳は「筐底に眠り」、見直すこともなかった。
 その旧訳が今回この学生の論文のために役立つことになったのは嬉しい。彼女に訳を送り、忌憚なく意見を言ってくれと頼んだ。
 おそらく、私がストラスブールで論文指導する学生の中で、唯一人、哲学の論文を書いてくれる学生ということになるだろう。来年修士に進学するが、やはり哲学部と日本学科とに同時登録するという。将来がとても楽しみな学生を哲学の分野で指導する機会に恵まれたこの「僥倖」を心から嬉しく思っている。