内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

世界がほんの少しだけ明るく見えるようになった ―『西田幾多郎講演集』(電子書籍版)とカント『永遠の平和のために』新訳に寄せて

2022-02-01 23:59:59 | 読游摘録

 昨年六月七日の記事で岩波文庫の『西田幾多郎講演集』(2020年6月刊)の解説の中のあまりにもお粗末な誤りを指摘し、校正の不十分さについての懸念を示した。その時点ですでに第一刷刊行から一年経っていたから、すでに他にもその誤りについて指摘があったに違いない。先月刊行された電子書籍版ではその誤りがきれいに訂正されていた。この電子版が依拠しているのが昨年十月に刊行された紙版第二刷であるから、その第二刷ですでに訂正されているのであろう。しかし、第一刷にあった誤りを訂正したとは記されていない。それはともかく、これだけはやく誤りの指摘に対応したのは良心的だと思う。
 同じく先月に刊行されたカント『永遠の平和のために』(講談社学術文庫)の丘沢静也氏による新訳の「訳者あとがき」に示された既訳四訳の訳語の選択についての指摘にはハッとさせられた。
 第一章のはじめの Friede, der das Ende aller Hostilitäten bedeutet の Hostilitäten がそれら既訳ではすべて「敵意」と訳されている。つまり「平和とは一切の敵意が終わること」(岩波文庫・宇都宮芳明訳)となっている。そのことに丘沢氏は次のように異を唱える。
 人々の心から一切の敵意がなくなるなどということがありうるだろうか。たとえ心では「この野郎!」と思っていても手を出さないことは「平和」とは呼べないのだろうか。
 これは平和の定義に関わる疑義だが、丘沢氏は語学的な問題も同時に指摘する。それに私はハッとさせられた。
 Hostilität(単数)はたしかに「敵意」という意味だが、Hostilitäten(複数)になると普通は「敵対行為・戦闘行為」という意味になる。この違いは英語でもそうだと丘沢氏は指摘しているが、フランス語でも同様である。つまり、上掲の一文は「平和とは、あらゆる戦闘行為が終了していること」(丘沢訳)と訳されるべきなのだ。ちなみに手元にある二つのフランス語訳も hostilités と複数になっている。
 この違いは大きい。「敵意」と訳しては、平和が心理的、倫理的あるいは「人道的」な問題だと取られかねないし、そうなると上記のような丘沢氏の疑問が出てくる。それに対して、「戦闘行為」ということであれば、これは事実として確認可能なことであり、その終了実現のための具体的な方策の立案も可能になり、それを法制化するという展開も出て来うる。
 個人レベルに置き換えて言えば、ある他者に対して敵意を持ちながら、それを素振りに示さず(あるいはちょっとはほのめかすことはあるとしても)、基本として「平和的・友好的」に他者と付き合うことは「実践的に」可能であり、そのために気をつけるべきことも具体的に考え、実行することができる。
 丘沢氏の新訳のおかげで、『永遠の平和のために』を読み直すきっかけが与えられただけでなく、ちょっと大げさに言えば、老いて衰えゆくばかりの老生の「眼」にも、世界がほんの少しだけ昨日より明るくみえるようになった。