内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

aware あるいは「気づき」の連鎖について ― 情報学→ホワイトヘッド→西田幾多郎→本居宣長

2022-02-04 23:59:59 | 講義の余白から

 今日のメディア・リテラシーの授業の準備をしているとき、先週の授業では読む時間がなかった西垣通氏の『ネットとリアルの間 ―生きるための情報学』(ちくまプリマー新書 2009年)の次の一節を再読したことがきっかけになって、私自身にとっては面白い「気づき」の連鎖が発生した。

あたかも人々をつつみこむ大きな身体が存在するように、とくべき課題や周囲にたいする「気づき(awareness)」が共有されているのが「生命的組織(vital organization)」である。そこにITにささえられた創造性を見出すのはそれほど難しくはないだろう。

 「気づき」と訳された awareness という単語を見て、ホワイトヘッドの The Concept of Nature(『自然という概念』)の次の一文を思い出した。

In the philosophy of science we seek the general notions which apply to nature, namely, to what we are aware of in perception.
Cambridge University Press, Cambridge Philosophy Classics, 2015, p. 19. 

 Vrin 社 の仏訳(2006年)では、« Dans la philosophie de la science nous cherchons les notions générales qui s’appliquent à la nature, c’est-à-dire à ce dont nous avons conscience dans la perception » (p. 65) となっているが、イザベル・スタンジェールは Penser avec Whitehead (Éditions du Seuil, coll. « L’ordre philosophique », 2002) の中で、 « C’est ce dont nous avons expérience [we are awre of] dans la perception » と原語を挿入しつつ訳し、その直後の段落でこう述べている。

Awareness désigne un mode d’expérience qui inclut un contraste entre un « soi » et « ce dont il y a expérience », mais sans redoublement par une référence à « je » ou à « moi » : contraste et non opposition. Dès lors se pose la question : qui est ce « nous », qu’inclut-il ? La plupart des éthologues diront sans hésiter qu’un chimpanzé, un chien ou un lapin est « aware ». (p. 45)

 訳語として conscience を避けたのは、それでは知覚において意識の対象とされたものが自然であるとする誤解が生じるからであろう。確かに、ホワイトヘッドのいう自然は、意識の対象ではなく、私たちが知覚において経験することがらである。その経験の中での「気づき」とは、人間固有のことではなく、他の諸生物にもそれぞれある。それは、生命体がそこで生きている環境との相互作用のなかで生まれてくる分節化の過程のようなものである。
 この広義の awareness を日本語でも「経験」と訳すのは「気づき」より望ましいのではないかと思う。しかし、西田哲学の行為的直観と自覚とにおいて、ホワイトヘッドの awareness はより適切な表現を得るのではないかというのが私の今回の「気づき」である。
 そして、スタンジェールのテキストを読むというより眺めていて、もし aware が日本語のローマ字表記だったとしたら「あわれ」と読めるではないかと気づいた。そうしたら、宣長のいう「もののあはれ」とはホワイトヘッドの awareness の一様態ではないかという、突拍子もないアイデアが浮かんできた。かくして今回の「気づき」の連鎖は、情報学をトリガーとして、円環を成したのである。
 どの授業の準備でもそうなのだが、準備中に思わぬ「気づき」の連鎖が起こり、挙げ句の果てに、授業とは何の関係もない問題に首を突っ込むことになり、授業そのものの準備だけなら一時間くらいで済むところ、数時間もかかってしまうということがよくある。
 これがとても楽しい時間なのである。今回もたっぷり楽しめた。しかし、ちょっと度が過ぎて、危うく講義に遅刻するところであった。