内的自己対話-川の畔のささめごと

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九鬼周造における「近代の超克」の試み ―「諦める」は「明らめる」であるとする反近代的態度

2022-02-14 18:29:41 | 哲学

 九鬼周造は、『「いき」の構造』(1930年)で、「いき」の第三の徴表として挙げた「諦め」を「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心」と定義している。この定義の中の「知見」という言葉の中に、「諦める」の古形「あきらむ」の意が汲み取られている。『「いき」の構造』刊行から七年後の昭和十二年に九鬼は「日本的性格」と題された論文を発表している。その中ではより明示的に「あきらむ」と「諦める」の関係を説明している。

自然に従うということは諦めの基礎をなしている。諦めとは自然なおのずからなものへの諦めである。自然を明らかに凝視することによって自己の無力が諦められるのである。(岩波文庫『人間と実存』2016年、307頁)

諦念は自然ということからおのずから出て来るものである。自然をそのままに明らかにすること、明らめることが諦めである。(同308頁)

 現代語の「諦める」の意、つまり「断念する」の意で「あきらむ」が用いられ始めるのは、近世に入ってからである。古語辞典の多くは、近松門左衛門の『蝉丸』の「仏に誓言立てし故、是非なき事とあきらめ給へ」をその用例として挙げている。
 上代・中古では、「(心の)曇りを無くさせる」(『岩波古語辞典』)、「明瞭にこまかい所までよく見る」の意で主に用いられた。さらに、同辞典は、源氏物語の用例を挙げながら、「(理にしたがって)はっきり認識する。判別する」、「事の筋、事情を明瞭に知らせる。弁明する」などの意も挙げている。そして最後に、「断念する」を挙げ、上掲の近松の用例を示している。
 ところが、なぜ、「事情・わけを見定める、明らかにする」の意から、断念あるいは諦念の意が出て来るのか、説明している辞書は意外に少ない。『岩波古語辞典』にもその説明がない。手元にある学習用の中型・小型辞典七冊の内、短いが的確にこの転意を説明しているのは、大修館書店の『新全訳古語辞典』(2017年)だけである。「事態を明らかにする、の意が、そうわかった以上は思い切る、の意に転じたもの」とある。
 九鬼が言うような「明らめることが諦めである」という態度は、近世以前から現実にあったであろう。事柄を見きわめ、もはやどうにもならぬと判断した以上は、その不可変なことに執着せず、そこから離脱し、それに対して恬淡とした態度を保持し、無関心において生きる、それが「あきらめること」である。
 では、古語において、現代語の「諦める」の意のみを表している語にはどうような例があるか。河出文庫の『現古辞典』(2018年)は、「おもひたゆ」「おもひはつ」「おもひきる」「おもひすつ」「おもひとどむ」「おもひはなつ」を「あきらめる(諦める)」の項に挙げている。用例は、万葉集、源氏物語、平家物語などから取られている。これらの語に共通しているのは、「おもひ」から離れることで、自分が置かれている事態の明瞭な認識の意は含まれていないことである。
 現代語の意味における「諦める」は、事態を見きわめた上で主体が自らの責任において為す判断であるというよりも、為すすべもなく事態を受け入れざるを得ないという消極性に傾きがちであるとすれば、九鬼が「諦める=明らめる」と古義に立ち戻ったことは、近代のニヒリズムの超克の一つの試みとしても読むことができるだろう。