内的自己対話-川の畔のささめごと

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「内側から心を、経験をつうじて内観することで現れる知見は少なくない」― 西垣通『AI原論 神の支配と人間の自由』より

2022-02-16 18:21:28 | 哲学

 西垣通氏の著作には、フランシス・ヴァレラの名がよく出て来る。マトゥラーナの名とともに「オートポイエーシス」理論の創始者の一人として挙げられることが多いが、単独で挙げられるときもある。それは、経験と科学を架橋するような非表象主義の「エナクティヴ(enactive)認知科学の提唱者としてである。この問題意識は西垣氏のそれと重なるから引用されることも多いのだろう。
 2018年に出版された『AI原論 神の支配と人間の自由』(講談社選書メチエ)では、心と脳の本質的な関係を洞察するために、同書をつらぬくテーマの基盤をなす議論として、ヴァレラの議論を整理して紹介している。そこから摘録する。
 ヴァレラは、認知科学においてひろく仮定されている、表象にもとづく「認知主義」を批判する。認知主義とは、心とは一種の器である、そこに外部世界の事物が表象として反映される、という考え方である。そして表象の操作が心の活動に対応するという前提のもとに、人間の認知活動がコンピュータ・シュミレーションを通じて分析される。これは外側から心の活動を科学的に眺めるアプローチと言える。このとき、「心の活動」が「脳の活動」に近づいてくるのは明らかである。しかし、果たして心とは、器のように外部から観察できる所与の実体なのだろうか。
 ヴァレラは、そうではなく、心とはむしろ人間主体が身体の内側から経験し、行動にともなってダイナミックに創出される存在だと考える。ヴァレラによれば、認知とは、所与の心による所与の世界の表象ではない。つまり認知とは、「世界のなかの存在体が演じる多様な行動の歴史にもとづき、世界と心を行動から産出・活性化すること」(the enactment of a world and a mind on the basis of a history of the variety of actions that a being in the world performs)に他ならない。心とは、人間の身体的行動の歴史から時々刻々エナクトされる(産みだされる)ものなのである。だから心の中にあるのは、客観的に三人称で語られるものというより、むしろ、クオリア(感覚質)をはじめ、一人称で語られるものなのだ。
 脳科学の記述は、心のごく一面を捉えるにすぎない。内側から心を、経験をつうじて内観することで現れる知見は少なくないのだ。