内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

アリストテレスの『レトリック』をガイドとして展開されるメディア・リテラシー

2022-02-26 11:04:12 | 講義の余白から

 メディア・リテラシーが、現代メディア社会における情報の生成・伝達・受容のプロセスの理解を主たる目的とするならば、何もわざわざ古代ギリシア哲学にまで遡り、そこから現代を遠望するまでもなかろう。自分たちが今生きている「現代」という現場での実践的なリテラシーの訓練で事足りるだろう。メディア学の基礎的概念は、その実践的訓練に必要なかぎりでそれを学べば十分であろう。
 そうだとすれば、私はこの授業をはやく誰かに手渡したい。もともと望んで引き受けたわけではない。この授業を以前担当していた同僚が他校にポストを得ていなくなり、その急場を凌ぐために仕方なしにやっているだけである。学生たちにとっても、メディア・リテラシーの上掲の意味でのスペシャリスト、それが無理でも、現代メディアの諸問題によく通じた人が担当するのが本来望ましい。
 担当一年目であった去年は、私も手探り状態だった。日本の最新ニュースを追ったり、現在メディアで活躍している人たちの本を授業で紹介したり、いかにも「メディア・リテラシー」っぽい授業を組み立てようとした。だが、年度半ばでそれが空しくなってしまった。それは、現在流通している情報がどのように生成あるいは作成され、どのような媒体をどのように使って伝達され、それら情報がどのように受容・利用・消費されているかのプロセスを実例に即して理解することが無駄だと思うようになったということではない。それはそれで大切だと私も思う。
 ただ、せっかくこの授業を担当する以上は、一度メディアというものを根本から考えてみたいと思ったのである。これもまた手探りで進めるしかない作業ではあるが、私にとってはずっとやりがいが感じられる仕事である。そして、メディアとは何かという問いを根本から考える機会を提供することは学生たちにもけっして無駄ではないと思うのである。
 そうなると、授業は「メディア原論」とでも名づけたほうがよいことになるが、科目名は私の一存では変更できないし、日本語のテキストを読ませるという条件は外せないので、 « Compréhension des médias » という科目名はそのまま、内容的には、日本語のテキストを読みつつ原論的な話を今年度前期と後期の最初の四回は続けてきた。次回からは、いよいよ日本のメディアの現状の話に入っていくので、今年度はもう原論的な話はしない。
 来年度は、昨日の記事で話題にしたように、プラトンにおけるメディアの問題から始める。そして、メディアの諸相を分析するための基礎的概念を学ぶためにアリストテレスの『レトリック』を読もうと思っている。そこまでは、まるでメディア論の仮面をかぶった古代哲学史みたいな話になってしまう。そうなると、問題は、日本語のテキストを登場させることが難しくなってしまうことである。しかし、例えば、佐藤信夫の古典的名著『レトリック感覚』『レトリック認識』には、アリストテレスの『レトリック』(弁論術)への言及が当然のこととして見られるから、そのあたりを読解テキストとして使えば、一応要件を満たすことができる。
 というわけで、先週の冬休み中から Michel MeyerLa Rhétorique d’Aristote. Un commentaire raisonné, Vrin, 2020 をぼちぼち読んでいる。その読書記録をおいおいこのブロクにも投稿していくつもりである。