内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新渡戸稲造がいう Veracity は véracité ではない

2022-02-02 23:59:59 | 読游摘録

 今日から土曜日まで、ごく短い日記になる。
 そんなら書かなければいいようなものだが、このブログには、「とにかく今日も生きています」という生存サインを発するという役割もあるので毎日続ける。
 今週の土曜日に法政大学との日仏合同演習のプログラムの一つとして基調講演を行う。Veracity について話す。このテーマについて昨年十月七日から五日間に渡って記事を書いた。講演の準備のためにその記事を読み直し、新渡戸稲造の『武士道』第七章の英語原文、日本語訳、仏訳を再度比較していて気づいたことが一つある。
 新渡戸は Veracity を同章の本文で十回使っているが、仏訳では、最初一回だけ véracité が使われているだけで、残りの九箇所は、すべて別の語あるいは表現に置き換えられている。Niveau de vérité, respect pour la vérité, probité が各一回、残りの六箇所はすべて sincérité と訳されている。つまり、仏訳者は、veracity がもともとフランス語の véracité からできた語であるにもかかわらず、新渡戸は véracité 本来の意味では veracity を使っていないと見たわけである。私もまったく同意見だ。
 このことから、一方では、新渡戸が veracity という言葉で言いたかったことがよりよくわかると同時に、他方では、véracité 固有の意味をより明確にすることができる。