内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

耳で読む歌

2021-01-11 23:59:59 | 詩歌逍遥

 母音優位の言語と子音優位の言語という分け方に言語学的にどこまで妥当性があるかはわからないが、日本語にとって母音がきわめて重要な要素であることは間違いないだろう。しかも、欧米言語に比べて極端と言っていいほどに母音の数が少ない。万葉時代には平安末中期にはすでに区別できなくなってしまった母音があったが、それを含めても八つしかない。今日の日本語には短母音は五つしかない。それでもなお「あおいいえ」(青い家)は有意味な表現であり得る。それに長母音を加えても、母音の数が少ないことにはかわりはない。ところが、その少ない母音の組み合わせが多様な意味の違いをもたらすのが日本語だ。日本語を外国語として学ぶ欧米人にとっては、この母音の優位性が聞き取り上の困難をもたらす。
 和歌と俳句を同断に論じることはもちろんできないが、形態上いずれも世界に例を見ない短詩形であるという点では共通する。これらの短詩形の中では、母音の有意味とその響きの固有性がなおのこと重要な意味をもってくる。
 この点に関して、一昨日の記事で話題にした竹内敏晴の『ことばが劈かれるとき』の中にきわめて示唆的な万葉歌の解釈がある。いや、解釈という言葉はおそらく適切ではない。和歌を音声的に感受すること、歌を耳で読むことの大切さがそこに見事に示されている。
 同書で取り上げられているのは、万葉集中の名歌中の名歌の一つである柿本人麻呂の「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」(巻第三・二六六)である(一四一-一四二頁)。
 ご興味をもたれた方は、同書の当該箇所を是非読んでいただきたく思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


フランス人学生諸君に告ぐ、「君たちのフランス語、もうちょっとなんとかなりませんか?」 追伸 日本の若者たちよ、君たちは大丈夫かな?

2021-01-10 19:29:48 | 雑感

 日曜日の今日、昼過ぎに前期期末試験の答案の採点をすべて終えました(バンザ~イ三唱)。あとは成績を事務に送信することと学生たちに個別に成績とコメントを送ることだけです。それは明日月曜日、最終確認を入念にした上でいたします。当初の計画より四日も早く作業が終わったことはまことに慶賀すべきことであります。それに、大半のレポートと答案は内容的には出来も悪くなかったので、今の気分はけっして悪くありません。
 それにしてもなあ、こんなことでフランス国民たちよ、君たちの将来は大丈夫なの? と溜息をつくこともあるのであります。それは学生たちのフランス語のレベルです。念のために断っておきますが、フランス人学生たちのフランス語のレベルのことです。答案提出者二十八人中、語学的にノーミスなのは、ゼロだったのです。もちろん、試験答案ですから、入念に仕上げた文章と同断には論じられません。寛容の原理を適用します。
 そう断った上でのことですが、これってさあ、小学生レベルじゃないのかなあという初歩的なフランス語のミスがほぼすべての答案にあるのです。そういうミスがなかっただけで、表彰状を進呈したいくらいですよ。構文レベルとかスピーチレベルとか「ハイレベル」な話ではなく、綴りの間違い、不定法と過去分詞の混同、性数の一致の誤り或いは無視という、ちょっと勘弁してくださいよぉ~、というほど情けない間違いが、それこそ満天の星空ごとく答案に煌めいているのであります。
 それでも内容が理解できないわけではないし、上記の類のミスは内容には影響しないし、そもそも、私、おフランス人じゃあ~りませんから、フランス語を外国語として遅まきに学んだに過ぎないガイコクジンとして、その辺はかなり大目に見て採点しているのですが、それでもね、これって、やっぱり、ちょっと大げさに言えば、フランス国家的にちょっとマズイんじゃないのかなあとか、老婆心ながら(私は爺ですが)思ったりもするのです(大きなお世話ですか?)。
 まあ、フランスにはフランスの風が吹くのでしょう。極東の小国から流れ着いた爺には預かり知らぬことじゃな。いや、こんなことを言ってはバチが当たる。どこの馬の骨とも知れぬ異国人を暖かく迎え入れてくれた共和国よ、永遠に!
 それはそうと、我が祖国、日出る国の未来を担う若人たちよ、君たちは大丈夫だよね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


〈声〉を取り戻すために ― 竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』再読

2021-01-09 23:59:59 | 読游摘録

 一昨日の記事で話題にした五冊の本が早く読みたい一心で試験答案の採点に集中して取り組んだら、存外に作業が捗って、あと十四枚を残すばかりとなりました。こういうところにも昨日の記事で話題にした単純な心性が効果を発揮しております。
 竹内敏晴の『ことばが劈かれるとき』は思い出深い本です。最初に読んだのがいつだったかもう正確には思い出せませんが、四十年近く前のことだったと思います。思想の科学社から一九七五年に刊行された初版で読んだはずです。私塾をやっていた頃です。この本に深い感銘を受け、その中に叙述されている治癒としてのレッスンの一部を塾で実践してみたこともありました。自己流でしたから、うまくは行きませんでしたけれど。
 今回届いたのは一九八八年に刊行されたちくま文庫版で、この版は今回初めて手にしているわけですが、それでもやはり懐かしさを感じます。この名著が息長く読まれていることを嬉しく思う一方、自分は結局この内容豊かな本から何も学ぶことなしに教師稼業を続けてきてしまったのだなあと苦い後悔の念も噛みしめざるを得ません。
 遅まきながら、今一度、心を込めて精読したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


やがて消え入る老いの繰り言、あるいは虚空に漂うテツガク的戯言

2021-01-08 20:20:53 | 雑感

 今更なのですが、自分自身について、今日、こんなふうに思いました。
 客観的に見て結構過酷な状況に置かれても、わりと平気でいられるのは、少なくとも医者にかからなくてはならないような病的な状態に陥らずにすんでいるのは(あくまで心もとない自己診断に過ぎませんが、このことをカミに感謝します)、もしかすると、根が単純な作りだからなのかもしれない、と。
 こう言えば、「えぇ~、今頃気づいたの! 根が単純と言うよりも、その鈍感さがあんたの救いなのさ」という意地悪な反応が、打てば響くように(― 旦那、使い方、間違ってまっせ)、返ってきそうです。が、まあ、やがて消え入る老いぼれの繰り言でございますから、寛大な心で聞きてくだされ(黄昏れゆく年寄りに対するこういう優しさが世の中から消え去りつつある厳しい現実があるわけですが、それは置いといて)。
 つまらぬことですぐに落ち込むかわり、ちょっとしたきっかけですぐに立ち直ります。といっても、心の底でつねに蠢いている何かどす黒いものを感じないわけではないのですが、それは飼いならしている、と言えば真っ赤な嘘になりますが、そんなの手の施しようがないしなあ、と諦めています。何か困ることがあっても、「なんでこうなるのよ」とさっさと愚痴って、「しゃあないやん」とわりとすんなりと状況を受け入れ、「はいはい、わかりました。やればいいんでしょ、やれば」と表向き粛々と仕事をこなし、「一日の苦労は一日で足れリ」とか「明日は明日の風が吹く」とか「明けない夜はない」とか、利いた風な口を叩き、さっさと寝ます。
 と、ここまで書いてきて気づいたのですが(― だからテメエは鈍感だっていうんだよ)、こういう心性って、ほんとうは自分でもよくわかっていないことをわかっているような振りをして、小難しい理屈を七面倒臭い仕方で延々と捏ねくりまわすことからなっているテツガク的戯言を弄するには不向きですね。
 では、私はいったい今まで何をしてきたのでしょうか(― 知るか!)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本から本が届く ― 源氏物語、ことばとからだ、宮沢賢治、時間の比較社会学

2021-01-07 23:59:59 | 読游摘録

 今日の昼、三日に日本のアマゾンに注文した五冊の本が届いた。いずれも文庫本だが、安くはない送料を払ってまで注文したのは、それらの本には電子書籍版がないこともあるが、紙の本を手に持ってゆっくりとじっくりと読みたいというのがその主たる理由であった。
 その五冊とは、『源氏物語 (八)』(岩波文庫 二〇二〇年)、竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫 一九八八年 初版 一九七五年)、同『教師のためのからだとことば考』(ちくま学芸文庫 一九九九年)、見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫 二〇〇一年 初版一九八四年)、真木悠介『時間の比較社会学』(岩波現代文庫 二〇〇三年 初版一九八一年)である。
 今日の採点作業を終えたあと、これら五冊を拾い読みした。源氏物語はその物語世界への沈潜を、竹内氏の本は私自身の声と姿勢と身体の動きについての反省を、見田氏の賢治論は文学作品を通じての哲学的思索を、真木氏(といっても見田氏の筆名だが)の本は時間論再考を、それぞれ私に促す。何もかも放擲して今すぐこれら五冊を精読したいという衝動に駆られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


採点、書写、読書

2021-01-06 15:27:56 | 哲学

 昨日までに百十五枚のレポートの採点とコメントが終わり、採点作業として残っているのは七十枚の試験答案だけとなった。レポート未提出者が何人かおり、その分予定枚数より少なかった。ともかく先が見えてきてほっとしている。
 答案七十枚の内訳は、「近代日本の歴史と社会」が二十八枚、「メディア・リテラシー」が四十二枚。今朝からメディア・リテラシーの方の採点を始めた。昼過ぎに十枚の採点とコメントを終えたところで今日の採点作業は終了とした。答案はすべてPDF版で、それをずっとコンピューターの画面で読んでいると眼がとても疲れるので、一日十枚に制限することにしたのだ。それでもあと六日ですべて終えることができる。成績提出の締め切りは十五日であるから余裕がある。
 フリーのジャーナリストが書いたある日本語のテキストを読み、そこに提示されている市民ジャーナリズムの具体的な試みの可能性と問題点を論ぜよ、というのが問題だった。それぞれになかなかよく考えられた答案で、中には授業外で自分が独自に調べた情報を盛り込んでいる答案もあり、出題者としては大いに満足しながらの採点作業ではあったが、いかんせん、眼の疲れはつらい。
 しかし、私などは楽な方である。他学科あるいは他学部には、何百という答案を採点しなくてはならない先生たちもたくさんいて、試験を遠隔で行った場合、しかもそれが小論文形式であれば、コンピューターの画面上のPDF版の答案と何日も向き合い続けなくてはならない。もちろん、大学の印刷所に頼んでプリントアウトしてもらうことはできる。そうした先生たちもきっといることだろう。
 午後は、まず書写。源氏物語の初音の続き。その後、紙の本の読書で眼と心の疲れを癒やす。谷崎潤一郎の『細雪』。会話はすべて関西弁だから、東京人の私には実のところ微妙な味わいはわからない。声に出してうまく発音することもできない。それでも読んでいてこれほど心地よい文章も珍しい。プレイヤード叢書の仏訳を並行して読んでみると、こちらのほうが会話の部分がすっと頭に入ってくる。原文の上品な関西弁の香りは、当然、雲散霧消。これは致し方ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


書写には心の乱れを鎮める効果がある

2021-01-05 15:59:18 | 雑感

 先程、ふと、思い立った。そうだ、書写をしよう、と。
 昨年来、本を読んでも、音楽を聴いても、それだけでは乱れた心を鎮めるには何か足りないという気がしていた。自分の手あるいは体を動かす、あるいは声を出すなどの積極的な身体的動作が欠けていた。かといって、水泳のような運動は別である。体を動かした後の爽快感はあっても、泳ぐことそのことが心を鎮めてくれるわけではない。ウォーキングも気分の切り替えには有効だし、思考を集中させることもできる。しかし、書写には、それらとはまた別の効用があるように思う。手書きで自分の文章あるいは手紙を書くというのとも違う。自分が好きな詩歌・散文を、文字通り、書き写すだけである。写経とも違う。それはそれでとても大切な行いだと思うが、そこまで対象を限定せずに、自分にとって手本となるような文章、あるいはただ憧れているだけの文章、あるいはしみじみ美しいと思う文章の一部を書き写す。たくさんは書かない。私は字が下手である。だから、よほどゆっくりと丁寧に書かないと体をなさない。文字の形、言葉の響き、詩章に込められた意味を噛みしめながら書き写す。そうすることで、筆記用具を動かす手を介して、その詩句・文章の生きた美しさに触れることができる。十分程度で十分に鎮静効果がある。これは文章を知的に理解するのとは異なった心的過程である。
 さて、何をまず書き写そうか。以前一度書写を試みたときには、万葉集の中のお気に入りの秀歌から始めた。何にするか迷わずにはいられないが、それは時間の無駄だ。あまり気負うと続かない。何からでもいいではないか、とにかく始めよう。ということで、あれこれ考えず、源氏物語の「初音」の帖の冒頭の一節を選んだ。

年たちかへる朝の空のけしき、なごりなく曇らぬうららけさには、数ならぬ垣根の内だに雪間の草若やかに色づきはじめ、いつしかとけしきだつ霞に、木の芽もうちけぶり、おのづから人の心ものびらかにぞ見ゆるかし。ましていとど玉を敷ける御前は、庭よりはじめ見どころ多く、磨きましたまへる御方々のありさま、まねびたてむも言の葉足るまじくなむ。春の大殿の御前、とりわきて、梅の香も御簾の内の匂ひに吹き紛ひて、生ける仏の御国とおぼゆ。さすがにうちとけて、安からに住みなしたまへり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


教室での学期末試験始まる

2021-01-04 23:59:59 | 雑感

 今日がノエルの休暇明けの初日。今日から教室での期末試験が始まった。私自身は会場の試験監督はせず、自宅でのテレワークに明け暮れた。夜、試験監督を指揮した同僚から、今日予定されていたすべての試験は滞りなく終了したとの報告を受けた。幸いなことであった。試験会場に指定された階段教室および建物の入り口には、試験監督補助員として大学に臨時雇用された学生たちが予め配置され、受験者たちがひとかたまりにならないように監視と誘導にあたった。試験監督は担当教員と補助監督として協力した教員たちで行われた。受験者である学生たちも大変協力的で、教室の出入りも粛々と行われたとのことであった。担当教員の献身的な協力には本当に感謝している。おそらく一抹の不安は抱えながらの受験となった学生たちの協力的な態度にも同じく感謝したい。教室での試験は木曜日まで続く。大階段教室で百数十人が三時間に渡って受験する明日の試験が山場だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


休暇最後の一日 ― 初雪、雪中泳、幻の雪見酒

2021-01-03 15:57:56 | 雑感

 今日は早朝から小雪が降っていました。昨年十一月以降、ノエルの前後にも、市内ではまったく雪が降らなかったはずですから、そうだとすれば今日の雪がストラスブールでのこの冬の初雪になります。近所では、畑地など土がむき出しになっているところや草木は薄っすらと雪に覆われていましたが、昼前には降り止み、午後にはあらかた雪は消えてしまいました。
 日曜日、プールは八時開始で、すでに空は白み始めています。背泳ぎをしているとき、顔の上に小さな雪片が触れるのが感じられましたが、水温が三十度とやや高めに設定してあるので、一度水の中に入ってしまえば寒さは感じません。このノエルの休暇中は、遠出を控えた人も、故郷に帰ることを諦めた人(私もその一人)もいたからでしょうか、プールに来る人も結構多くて、混雑というほどではありませんが、前後の間隔に多少気を使わなくてはなりません。幸い、私がいつも泳いでいるコースで泳ぐ常連さんたちは皆お互いのペースを心得ていて、気持ちよく泳げます。
 朝方の雪を見て、今夕は早めの雪見酒と洒落込もうと企んでいたのですが、それは叶わぬ夢と儚く消えてしまいました。しかし、酒を飲みたるものは、そこに酒があるから飲むのでありますから、雪はなくとも、あるいは他にまったく理由がなくても、やはり飲むのであります。この三が日、ちょっと贅沢をして、近所のワイン・カーヴお薦めの日本酒を飲んでおります。ストラスブールでも美味しい日本酒が飲めるようになったことを言祝ぐこの正月ではありました。
 角川書店編『俳句歳時記 冬』(第五版 角川ソフィア文庫 二〇一八年)の中の「雪見」の項に小笠原和夫の次の一句がありました。

やがてまた雪の降り出す雪見酒 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ライン川の彼方の上空に曙光を求めて

2021-01-02 09:57:21 | 雑感

 元旦の昨日、ライン川の彼方のシュヴァルツヴァルトの稜線上に現れる初日の出を写真に収めようと、自宅からライン川のほとりまで歩いていきました。自転車ならば十五分足らずで川岸まで行けるのですが、川沿いの土手を数キロ歩くうちに空が白み始めるのを見たいと思ったのです。気温は一度、防寒対策は十分すぎるほどだったので、歩いているうちに汗が背中を流れはじめました。
 フランス側の西空は晴れていたのですが、ライン川の向こう側のドイツの上空は残念ながら厚く灰色の雲に覆われており、とても日の出は拝めそうにありませんでした。日の出は八時二十一分でしたが、上り始めた太陽の光で上空の薄雲が黄金色に輝き始めたのはもう九時近くになってからのことでした。
 土手を四キロほど下流に向かってゆっくりと北上しながらシャッターチャンスを待ちましたが、太陽は雲間からその姿を現すことなく、それでも天空は次第に明るさを増してゆきました。
 今日の記事に添えた写真は、ライン川の土手(水源から三〇〇キロの表示がある辺り)で百枚ほど撮った写真の中の一枚です。厚い雲の間からわずかに顔をのぞかせた太陽を遠景に配し、悠然とラインの流れを遡る白鳥一羽を手前に配しました。
 厚い雲の向こう側に一瞬姿を見せ、またすぐに姿を隠してしまった太陽は、今年の「夜明け」はまだ遠い、しかし、希望を失うな、そう言っているように、独り土手に立ってシャッターを切りながら思った次第であります。