内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

耳を澄ます、匂いを嗅ぎ分ける ― 柳田國男『明治大正史 世相篇』より

2021-01-18 11:46:47 | 読游摘録

 私が暮らしているのは、ストラスブール市北東部で欧州議会から徒歩数分のところにある住宅街である。いわゆる都会の騒音とは無縁な閑静な地区である。車の音も遠くにしか聞こえない。いささか閉口する騒音と言えば、春以降夏にかけて隣家が使う電動芝刈り機の音と、居住するアパートの敷地内の落ち葉を定期的に収集する業者の小型車両がベランダの下を通過するときくらいである。春から秋にかけては毎日鳥たちの歌声が早朝から夕方まで絶えない。
 気になる不快な臭いもまったくない。初夏から初秋までは、日中、書斎の硝子扉を開け放っていることが多い。特にいい香りが漂って来るわけではないが、樹木の緑を通り抜けて窓外から部屋に流れ込む空気は充分に清浄だ。
 それにもかかわらず、ストリーミングで音楽を流しっぱなしにして、外部から音を遮断し、エッセンシャルオイルの香りをアロマディフューザーで部屋に満たしているのは何のためなのだろうか。そうふと自問した。それらは自分で好きなものを選ぶのだから、心地よいには違いない。しかし、それは、外から到来するものに耳を澄ますこと、どこからともなく漂ってくる匂いを嗅ぎ分けることから自分を遠ざけ、それらに対して自分の感覚を鈍感にしていることでもあるのではないか。
 柳田國男の『明治大正史 世相篇』(初版 一九三一年)は、その当時の世相の諸相の具体的記述において今もなお興味尽きないだけでなく、現実のなにげない日常生活を観察するための方法論としてもきわめて示唆に富んでいる。聴覚と嗅覚について触れた箇所をそれぞれ一つずつ引いておく(引用は、ちくま文庫版『柳田國男全集』第二六巻から)。

耳を澄ますという機会は、いつの間にか少なくなっていた。過ぎ去ったものの忘れやすいは言うまでもなく、次々と現われて来る音の新しい意味をさえも、空しく聞き流そうとする場合が多くなった。香道が疲るる嗅覚の慰藉であったように、音楽もまたこれら雑音のいっさいを超脱せんがために、慾求せられる時代となっているがこれによって人の平日の聴感を、遅鈍にすることなどは望まれない。のみならずそのいろいろの音響にも、一つ一つの目的と効果があるので、それを無差別に抑制しようとするのも、理由のないことであった。[中略]都市のざわめきは煩わしいもののように思われているが、かつてはその間にも我々の耳を爽かにし季節の推移を会得せしめるものが幾つかあった。衢を馳せちがう車の轟や、機械の単調なる重苦しい響きまでも、人によってはなお壮快の感をもって、喜び聴こうとしているのである。(四八頁)

しかし我々が以前この鼻の感覚によって、いかに大切なる人生を学びまた味わっていたかは、今でも田舎を歩いてみればすぐにわかる。たとえばいわゆる日本アルプスなどの山案内人は、おねの曲り目に立ってこの沢には人が入っている。この沢には誰もいないということを、一言で言い当てる者がいくらでもいる。わずかな小屋の煙が谷底から昇って、澄み切った大気の中に交っているのを、容易く嗅ぎつけることができるからである。こういう鼻の経験を器械により、または推理や計算によって、補充することは不可能に近い。そうすると結局文明人のある者は、この点だけでは前よりも魯かになったと言えるので、静かに考えて行くと、これと類を同じゅうする喪失は、まだ他にも多くありそうである。(五二頁)