内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

抜書的読書法(哲学篇7)― キリスト教世界における「哲学的抵抗」

2015-05-11 05:47:43 | 読游摘録

 昨日見たような西洋中世キリスト教世界での古代哲学の自律性の喪失は、しかし、日々の生活の中での魂の解放を最終目的とした「精神的実践 exercice spirituel」としての哲学の完全な衰滅を意味したわけではもちろんない。
 哲学は抵抗したのである。教会が古代的教説をその権威下に「収奪」することで拡大してく知的勢力圏の周縁で、精神的実践としての哲学は、少なからぬ哲学者たちによって生きられ続ける。元のままの「無傷の」哲学は、かくしてその命脈を保ち、その伝統は近代へと受け継がれていく。
 古代哲学の伝統を保持する細道が中世から近代へと通じている。修道院生活あるいは在俗信徒として教会に帰属する宗教的生活形態を受け入れることができない、あるいは受け入れたくない哲学者たちには、なお、神学のに成り下がった哲学を拒否し、純粋に哲学的な生活様式を選択する可能性が残されていたのである。
 そのことは、しかし、古代思想の継承者としての哲学者たちと教会組織との間に相互浸透がまったくなかったということではない。ただ、古代哲学において精錬された生の技術・知の実践・言説に拠る教化の中には、中世・近代を通じて、そのまま保持されてゆく要素がいくつかある。それらの要素は、近代のある哲学者たちにおいて、古代とは異なったさまざまな形の「精神的実践」として、生き続け、働き続ける。

Dans ce contexte sombre pour les lumières de la philosophie, celle-ci néanmoins résiste. Il demeure une continuité des exercices spirituels en marge de la réappropriation chrétienne ; de nombreux philosophes, de nombreux courants perpétuent la tradition de la philosophie antique. Si le christianisme s’approprie les exercices spirituels des Anciens, il ne peut en effet empêcher une continuité de ces derniers en dehors de tout pouvoir pastoral pour ceux qui résistent et souhaitent conserver une philosophie « intacte » (X. Pavie, op. cit., p. 205).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


抜書的読書法(哲学篇6)― 「キリスト教的実践」の誕生と古代的「精神的実践」の衰退

2015-05-10 05:50:51 | 読游摘録

 グザヴィエ・パヴィ(Xavier Pavie)の Exercices Spirituels. Leçons de la philosophie antique の最終章である第四章は、古代ギリシア・ローマ以降、「精神的実践 exercice spirituel」がキリスト教世界にどのように導入され、それに古代哲学とは異なった位置づけが与えられ、ついにはその本来の目的がほとんど忘却されていく過程を辿り直す節から始まっている。
 この節でも、特に目新しいことが言われているわけではなく、これまでと同様、ピエール・アドとミッシェル・フーコーとに主に依拠しながら、古代から中世にかけてのキリスト教世界における古代哲学の受容とその変容を跡づけているだけなのだが、私自身のおさらいのために、要約的に抜書しておこう。
 初期キリスト教教父たちは、自身古代的「精神的実践」の教育を受けており、原始キリスト教教団から普遍的な〈教会〉形成への胎動が始まる時期に生きた彼らにとっては、教義として組織化され始めたばかりの〈キリスト教〉は、古代的な意味での一つの哲学にほかならなかった。したがって、それはまだ「精神的実践」を基礎とする日々の生活に基づいていた。
 古代末期から中世初期にかけて、キリスト教がヨーロッパに浸透していくにつれ、キリスト教は、他の哲学と区別された一つの哲学から、唯一無二の〈哲学〉へといわば「昇格」するが、ついにはそれが〈神学〉として絶対化されるとき、古代的な意味での哲学の自律性はそこで失われる。キリスト教教義が絶対化され、それがキリスト教徒たちの生活全般を支配するようになると、彼らを支配する基本的価値は、確立された権威に対する「従属・従順」になり、それが、古代哲学における「精神的実践」の目的そのものであった、人間の魂の苦悩・苦痛・不安からの「解放」とそのための「自己統御・自己支配」とに取って代わっていく。
 その結果として、その見かけの言説には古代の「精神的実践」と共通する表現を見出すことができるが、その最終目的においては、「解放」から「従属」へと転倒させられた、「キリスト教的実践」が登場する。以後、古代哲学の諸派の教説は、本来の「精神的実践」としてではなく、キリスト教にとっても有益なかぎりで、「古人の教え」として「回収」されていく。
 そして、一六世紀半ばにイグナティウス・デ・ロヨラによって Exercitia spiritualia (同書の岩波文庫版には『霊操』というタイトルが与えられている)という著書が書かれ、「精神的実践」という言葉が「キリスト教的実践」の同意語として前面に打ち出されたことで、古代哲学の生命そのものであった本来の「精神的実践」は、西洋キリスト教世界内では、その表舞台からはほとんど姿を消してしまう。それは、しかし、その息の根を止められてしまったということではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


抜書的読書法(哲学篇5)― 「シニック」あるいは「パレーシア(真理の勇気)」について

2015-05-09 06:31:33 | 読游摘録

 ストア派から「ストイック stoïque」、エピクロス派から「エピキュリアン épicurien」、犬儒派から「シニック cynique」という形容詞がそれぞれ派生した。ところが、今日流通しているそれらの形容詞の辞書的意味からすると、ストア派の哲学者であるためには、欲望や情念に対して「ストイック」であるだけでは不十分であり、エピクロス派の哲学の実践者であるためには、快楽に淫する「エピキュリアン」であることをやめなければいけないし、世間の常識を徹底して疑う犬儒派として生きるためには、「シニック」な態度で世間を傍観者の冷めた眼で眺めることで満足することはできない。
 ただ「ストイック」に我慢すれば、ストア哲学になるのではない。己に依存することとそうでないこととを判明に区別する知性と、その区別にしたがって日々の自己の行いを吟味し、己の生活全体を統御するためのテクニックを実践する意志がなければ、ストア派の哲学者にはなれない。ただ「エピキュリアン」として快楽を追求することは、エピクロスが目指すあらゆる苦痛から解放された生にとって障害にしかならない。「シニック」に斜に構えて、ただ社会の常識や良俗を逆撫でするような言辞を弄する知的遊戯と、世間がその中に眠り込んでいる根拠のない盲信へのあからさまな軽侮を公然と表明する勇気とは、見かけ上の類似に反して、まったく別のことである。
 ミッシェル・フーコーがコレージュ・ド・フランスでの最後の講義 Le courage de la vérité, Gallimard-Seuil, 2009(真理の勇気』、筑摩書房、ミシェル・フーコー講義集成13、2012)の中で強調していたのは、死を恐れずに真実を公共の場で表明する勇気、「パレーシア(parrêsia)」であった(この「パレーシア」については、昨年十月二十六日十一月八日の記事を参照されたし)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


抜書的読書法(哲学篇4)― 《 se gouverner 》(自己制御・自己統治)は統治者の必須条件

2015-05-08 00:00:04 | 読游摘録

 政治的実践と哲学的生活との区別と関係は、古代ギリシア・ローマにおいても、きわめつけの難題であった。プラトンでさえ、その政治的実践の試みにおいては挫折せざるをえなかった。セネカは、後の皇帝ネロの母アグリッピーナから少年期のネロの教育係を仰せつかり、公人としても哲学的教説の著述家としても成功を収めたが、最後にはそのネロによって自殺に追い込まれたのはよく知られている。
 古代のいずれの学派も、人間の魂をその不自由な状態から解放するという目的においては共通していたが、政治的活動と哲学的実践との関係づけ方については一様ではない。しかし、少なくとも、ストア学派においては、自己制御と自己統治が政治における他者の統治ための必須の前提条件をなす。
 優れた統治者が同時に真正の哲学者でもありつつその生涯を全うしたというきわめて希少な例の中でも最も輝かしい例が、ストア派の哲人皇帝マルクス・アウレリウスであることには、ほとんど異論の余地はないであろう。『自省録』が今でも世界中で多くの読者を持っていることからも、その哲学的思索の真正性が証されているとも言えよう。
 ピエール・アドは、繰り返しマルクス・アウレリウスを論じているが、中でも Introduction aux pensées de Marc Aurèle, Le Livre de Poche, 2005(初版は、La Citadelle intérieure. Introduction aux pensées de Marc Aurèle, Fayard, 1992)は、フランス語で書かれた最も優れたマルクス・アウレリウス研究として誉れが高い。私にとっても二十年来の愛読書である。
 マルクス・アウレリウスは、自分も含めて、人間は不完全である、ということについて、透徹した自覚を持っていた。それと同時に、人間は「改善可能」(perfectible)であることも確信していた。それゆえに、自分の欠点・欠陥と、 それに応じて実現すべき進歩を肝に銘じることを己の生き方の根本原則としていた。この根本原則の実行のためにこそ、『自省録』を書き続けたのである。

Cette écriture est pour lui l’occasion de se voir, de se penser comme un autre que lui, comme un directeur de conscience qui viendrait jauger ses bienfaits et exactions de la journée (X. Pavie, op. cit., p. 97).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


抜書的読書法(哲学篇3)― 「魂の医学としての哲学」

2015-05-07 00:09:21 | 読游摘録

 グザヴィエ・パヴィの本の本文は二百四十頁余り。その三分の二は古代哲学に割かれている。そこでピエール・アドに次いでよく引用・参照されているのがミッシェル・フーコーである。コレージュ・ド・フランスでの1981-1982年度の講義録 L’herméneutique du sujet(« Hautes études », Gallimard-Seuil, 2001)は特に頻繁に引用されている。日本の読者にとって幸いなことに、これには立派な邦訳(『ミッシェル・フーコー講義集成11 主体の解釈学』筑摩書房、2004年)があるから、ここでわざわざパヴィの記述を介して間接的にフーコーを引用・紹介するには及ばないだろう。
 パヴィの本では、古代ギリシア・ローマ哲学に通底する「精神的実践」(« exercice spirituel »)の基礎的要件を九節に分けて説明している章が全体の三分の一を占めている。そのうちの一節は、「魂の医学としての哲学」、より限定的に言えば、「魂の治療法としての哲学」をその主題としている。この主題については、ピエール・アドが高く評価し、その「前書き」も書いている André-Jean Voelke, La philosophie comme thérapie de l’âme. Études de philosophie hellenistique, Éditions du Cerf, 1993 という、見かけはほんの小著だが大変な名著がある。パヴィの本でももちろん引用・参照されている。この Voelke の本は、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』に触発されて書かれたものである。しかし、ウィトゲンシュタインにおいては、哲学的困難の原因はその誤った問題の立て方にあるという理由で、そこから人間の思考を解放するための治療法として哲学が実践されているのに対して、古代では、哲学そのものが端的に人間の病める魂の治療法であった、というのが同書の主張である。
 魂が不安に苛まれ、不幸に懊悩するのは、無知に由来する。古代ギリシア・ローマの哲学では、こう考える。悪は諸事物のうちにあるのではなく、それについて人間が下す判断の中にある。哲学の目的は、それゆえ、それらの判断を変える、あるいは変えさせることであり、この意味において、人間の魂を治療することである。

Toutes les philosophies hellénistiques reconnaissent avec Socrate que les hommes sont plongés dans la misère, l’angoisse et le mal parce qu’ils sont dans l’ignorance. Le mal n’est pas dans les choses mais dans les jugements qu’ont les hommes sur les choses. La philosophie a pour but de changer ces jugements, de soigner les hommes (X. Pavie, op. cit., p. 85).

 

 

 

 

 

 

 

 


抜書的読書法(哲学篇2)― 「哲学の基本は « oralité » にあり」

2015-05-06 05:20:25 | 読游摘録

 昨日から抜書きを始めたグザヴィエ・パヴィ(Xavier Pavie)の Exercices Spirituels. Leçons de la philosophie antique は、まずはピエール・アドの諸著作に主に依拠しながら、古代ギリシアにおける哲学とは、瞑想や著述である前に、普段の生活の在り方そのものであり、師と弟子たちとの共同生活の中での日々の対話を通じての教育・訓練のことであったことを諄々と説いていく。ここら辺の記述には特に目新しいところはないのだが、哲学の勉強をこれから始める高校生や哲学について予備知識はないが関心はある一般読者にもよくわかるように懇切丁寧に説明を重ねている。
 古代ギリシアにおいては、哲学の実践の基本は « oralité » にある。哲学とは、肉声での問答が基本なのであり、その問答の中でのみ真理は発見される。師は、弟子に応じて、問題に応じて、それに合った話し方を適宜選択する。書かれたものは、師の話の延長か、その哲学的教説を記憶するための補助手段でしかなかった。

La philosophie est avant tout orale, la vraie formation est orale, car seul la parole permet le dialogue et l’échange. Le disciple ne peut découvrir la vérité qu’avec le jeu de questions-réponses avec son maître. Ce dernier adapte son discours en fonction du disciple, en fonction des questions. Les écrits philosophiques ne sont d’ailleurs souvent qu’une prolongation de l’enseignement oral, parfois de simples aide-mémoire (p. 34-35).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


抜書的読書法(哲学篇1)―「マーケティングとイノベーションと哲学」

2015-05-05 04:28:51 | 読游摘録

 「抜書的読書法」シリーズ「哲学篇」の第一回目に取り上げるのは、Xavier PAVIE, Exercices Spirituels. Leçons de la philosophie antique, Paris, Les Belles Lettres, 2012 である。
 著者グザヴィエ・パヴィは、哲学の博士号を持ち、パリ西大学の哲学研究機関に準研究員として所属してもいるが、ESSEC という一流のビジネス・スクールのISIS(Institut for Strategic Innovation & Services)という研究所の所長であり、同校で教鞭も取っている。同研究所のプロフィール紹介の写真を見るかぎりまだ若そうだし、哲学博士号所有者としては大変珍しい経歴の持ち主であることがその紹介からわかる。
 そこから浮かび上がってくる「マーケティング」と「イノベーション」と「哲学」という三つのテーマは、フランスでもめったにない組み合わせだけれど、日本ではなおのことありそうもない組み合わせではないだろうか。でも、これからの哲学の在るべき姿の一つを先取りしているのかも知れない。
 タイトルを見れば、この本がピエール・アド(Pierre Hadot 二〇一三年七月三〇日からの一連の紹介記事を参照されたし)と関係が深いだろうと予想できる。実際、著者は、アドの複数の著作をミッシェル・フーコーのそれらとともに同書で頻繁に引用している。アド本人にその最晩年に直接教えを乞うたこともあったことが巻末の謝辞からわかる。
 しかし、著者は、アドやフーコーの業績を単に踏襲しようとしているのではない。古代ギリシア哲学に共通する哲学的実践の基本形として、アドによって一九七〇年代後半から前面に打ち出されるようになった « exercice spirituel » という概念を、同概念の先行的使用例並びに同時代の他の著者たちの使用例と関連づけつつ、アドにとって到達点であったものを、現在における自分の哲学的実践の出発点にしようとしているのである。
 文体や本全体の構成には、特に型破りなところも奇を衒ったところもなく、肩書を知らずに読めば、むしろ伝統的なスタイルを墨守する哲学史研究者が書いた本かと思われてしまうだろう。文章はいたって平易。出典についての注の付け方も行き届いている。
 そのようにして古代の哲学者たちの教説と生き方とを丁寧に辿り直しながら、その中でつねに著者が問い続けているのは、「哲学を現実社会の中で生きるとはどういうことなのか」とうい根本的な問いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


抜書的読書法 ― フランス語の哲学的エッセイを読もう

2015-05-04 04:13:52 | 読游摘録

 日本で出版された新刊書を高い送料を払ってまで取り寄せることは、研究上どうしても緊急に必要な場合でもないかぎり、まずしない。それに、私が研究上必要とするのは、古典やそれに準ずるような本がほとんどだから、そういう必要が発生することはかぎりなく零に近い。
 日本の新刊書には、だから、どうしても疎くなりがちだ。ネットでも新聞各紙の書評は読むことができるし、多種多様なサイトやブログでも実にたくさんの書評があるから、その気になれば、今の日本でどの分野のどんな本がよく読まれ、評判なのかは簡単に知ることができる。でも、そのような興味は特にない。年に一回か二回の一時帰国中に神田に行くことはあるが、それは古本探しのためで、比較的最近出た本の場合は、ネットで注文してしまい、フランスに戻るときに持ち帰る。
 フランスに来て最初の何年間かは、毎週ル・モンド紙の書評欄はすべて読み、自分の専門の哲学に関しては、他紙や雑誌の書評も毎週読み、お気に入りの本屋にも足繁く通い、いつも新刊に「目を光らせて」いた。そして、自分でも呆れるくらいたくさん買い込んだ。しかし、いつしかそういう興味もなくなった。仕事が忙しくなったということもあるが、そういうことに費やしている時間もお金ももったいないと思うようにもなったのである。それでなくても読まねばならぬ本はいくらでもあるのだから、新刊に手を出している暇はほとんどないはずではないか。
 とはいうものの、広い意味での哲学的エッセイというジャンルには、やはり食指が動く。その中には、ちゃんとした訳で日本でも出版されるといいのになあと思う本もいくつかある。何人か気心の知れた人たちと読書会で一緒に読んでみたいと思う本もある。しかし、残念ながら、どちらもすぐには実現できないことである。
 そこで、そんないつになるとも知れない機会を夢想しつつ、ここ数年間に出版されて、私が関心を持った本の「抜書」を作っていこうかと思う。最新刊とばかりはいかないし、中には古典的名著の新装版というのも含めてということになるが、それらからの「抜書」がいつかどこかで誰かの役に立つかもしれない。自分にとっては、「抜書」に限らず、こうして毎日ブログの記事を書き続けることが思考の持続の一つの実践となっているので、たとえそれが誰の役にも立たなくても、書き続けること自体にすでに意味がある。
 書評・紹介・解説ともなると、それなりに準備も訓練も素養も必要だし、客観性、公平性、情報の正確さ等を心がけなくてはならないが、「抜書」はそれらとは違う。もっと気楽に考えて、パラパラとめくっていて目に止まった箇所、「気になる」箇所を書き留めておこうというくらいのつもり。
 取り上げる本は、読了した本とはかぎらない。読んでいる途中、読み始めたばかり、あるいはちょっと覗いただけなんて場合もあるだろう。ジャンルとして「哲学的エッセイ」と書いたが、あまり窮屈に定義を考えずに、私にとって哲学的思考を刺激してくれるものすべてというくらいの、ごくゆるい括りである。
 この「抜書」シリーズを始めるにあたって、形式に関する原則を決めておく。一回の記事は、四百字から八百字の間に収める。フランス語原文を引用する場合、その和訳は示さずに、前後の説明でその内容がわかるようにする。
 明日から、「抜書的読書法(哲学篇)」を始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


モーツアルト「グラス・ハーモニカのためのアダージョとロンド」KV617

2015-05-03 00:51:16 | 私の好きな曲

 この曲を初めて聴いたときは、それが深夜で独りだったこともあったと思うが、何かちょっと未知の異世界に引き込まれそうな感じがして、美しいと思いつつ、少し怖くもなったことを覚えている。だから、「私の好きな曲」というカテゴリーには馴染まないかもしれない。しかし、他の楽器には例えられないその不思議な音色に魅了され、しばらく毎日のように聴いていたことがある。数日前、何年ぶりかで聴いてみて、以前のような恐怖感が湧き起こることもなく、その独特な魅力を「無事」鑑賞することができた。特にロンドのほうは、舞曲ということもあり、蝋燭の光があちこちに揺らめいているお伽の国の扉が開かれいくような不思議な浮遊感を与えてくれる。
 アダージョのほうは、以下のサイトで視聴できる。こちらのブログには、曲と楽器についての簡単な説明とプロの演奏の動画が貼ってある。こちらこちらの動画では、グラス・ハーモニカの原理がわかる興味深い演奏を視聴できる(こう書いてリンクを貼りながら、つくづく便利な世の中になったものだなあとまた思う。それに慣れ過ぎるのもどうかと思うときさえしばしばあるが、講義の準備などでは本当に助かる)。

 

 

 

 

 

 

 


チャイコフスキー「四季」

2015-05-02 01:14:40 | 私の好きな曲

 チャイコフスキーが三十代半ばに作曲した十二の小曲からなるピアノ作品集。毎月の付録として楽譜を付けていたサンクト・ペテルブルクの月刊音楽雑誌『ヌヴェリスト』の編集者から、毎月季節にちなんだ小品を作曲し、その楽譜を提供してほしいとの依頼を受けての作曲。引き受けた当初、チャイコフスキー本人は、大して重要な仕事とは考えていなかったようである。しかし、ロシアの一年の季節の移り行きを多彩な音のパステルで巧みに描き分けており、それぞれの季節の自然の情景を生き生きと想像させてくれる小品集として、私には愛着がある。所有しているCDは、このアシュケナージの演奏のみ。それぞれの曲には、さらにイメージを喚起するようなロシアの詩人・作家たち(プーシキン、トルストイ、ネクラーソフなど)の詩が添えられている(曲の解説とそれらの詩の和訳は、こちらのサイトを御覧あれ)。
 五月を迎え、書斎の窓外の正面が樹々の若葉の瑞々しい緑で覆われる季節になった。冬の間、枯れ枝の上を巧みに走り回っていた元気なリスたちの姿も、葉陰の間をすり抜けていくのが見えるだけになってしまった。このアパートに引っ越してきたのは昨年の七月だったし、アパート探しで最初に訪問したのも六月の初旬だったから、今の窓外の景色は初めて見る。五月に入ったというのに、肌寒い曇り空が続いている。ときどき眩しいような陽光が仄暗かった木陰を明るませる。ストラスブール大に赴任して最初の一年が終わろうとしている。