内的自己対話-川の畔のささめごと

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抜書的読書法(哲学篇5)― 「シニック」あるいは「パレーシア(真理の勇気)」について

2015-05-09 06:31:33 | 読游摘録

 ストア派から「ストイック stoïque」、エピクロス派から「エピキュリアン épicurien」、犬儒派から「シニック cynique」という形容詞がそれぞれ派生した。ところが、今日流通しているそれらの形容詞の辞書的意味からすると、ストア派の哲学者であるためには、欲望や情念に対して「ストイック」であるだけでは不十分であり、エピクロス派の哲学の実践者であるためには、快楽に淫する「エピキュリアン」であることをやめなければいけないし、世間の常識を徹底して疑う犬儒派として生きるためには、「シニック」な態度で世間を傍観者の冷めた眼で眺めることで満足することはできない。
 ただ「ストイック」に我慢すれば、ストア哲学になるのではない。己に依存することとそうでないこととを判明に区別する知性と、その区別にしたがって日々の自己の行いを吟味し、己の生活全体を統御するためのテクニックを実践する意志がなければ、ストア派の哲学者にはなれない。ただ「エピキュリアン」として快楽を追求することは、エピクロスが目指すあらゆる苦痛から解放された生にとって障害にしかならない。「シニック」に斜に構えて、ただ社会の常識や良俗を逆撫でするような言辞を弄する知的遊戯と、世間がその中に眠り込んでいる根拠のない盲信へのあからさまな軽侮を公然と表明する勇気とは、見かけ上の類似に反して、まったく別のことである。
 ミッシェル・フーコーがコレージュ・ド・フランスでの最後の講義 Le courage de la vérité, Gallimard-Seuil, 2009(真理の勇気』、筑摩書房、ミシェル・フーコー講義集成13、2012)の中で強調していたのは、死を恐れずに真実を公共の場で表明する勇気、「パレーシア(parrêsia)」であった(この「パレーシア」については、昨年十月二十六日十一月八日の記事を参照されたし)。