『エセー』を何の予備知識もなしに読むと、筆の赴くままにある主題から別のある主題へと移っていき、まさに「随筆」と呼ばれるに相応しい作品だと思える。しかし、それは思考の方法が特に決まっておらずに、その時々の想いに従って書き綴られたものだということを直ちに意味するのではない。この書くことと考えることとの関係という問題について、林達夫は、「思想の文学的形態」というタイトルのエッセイの中で、モンテーニュの『エセー』に言及しつつ、次のように述べている。
「随筆」と「随想」とはわが国一般の用語例では殆ど同義語になっているが、これは私たちの考えでは全然異なった思惟方法に立脚した別ジャンルなのである。だから、モンテーニュの『エセー』は、厳密には「随筆」であるが、しかし「随想」ではないと言われる。それはあくまで筆に随って、想が産出されるのであって、想に随って筆を動かすのではない(『林達夫芸術論集』(高橋英夫編、講談社文芸文庫、11頁)。
モンテーニュは、林達夫によって、「書きながらあるいは書くにつれて考えるあるいは考えを生み出す思惟活動の形式に従う人々」(同頁)の代表として取り上げられているのである。
面白いのは、日本でそれに近いタイプの思想家として、林達夫は、西田幾多郎を例に挙げていることである。「西田哲学の文学的形態がエッセイであり「随筆」であるということは、その哲学の把握においてそれに照応する一定の「文学的」態度を、その研究者の側に要請する」(13-14頁)。この指摘は鋭い。
西田の思考の運動のタイプについて、私も自分なりに考えたことがあるが、それについては、二〇一三年八月二三日の記事とその翌日の記事にその一端を紹介してある。