中世キリスト教世界における「精神的実践」の変容とその周縁での持続性を確認した後、グザヴィエ・パヴィは、十六世紀からの三世紀にそれぞれ一節ずつ充てて、幾人かの哲学者の生き方と著作の中に、近代における「精神的実践」の生ける姿を辿り直していくことで、最終章を締め括ろうとしている。
十六世紀は、古代ストア哲学再興の世紀とも見なされている。それには、テキストの再発見、翻訳、そして特に印刷術の発達によるそれらの伝播も与って力があった。精神史的に見れば、〈教会〉の権威が揺るがされることによって、古代から中世期を通じて涸れることのなかった精神の底流の一つが再び大河の流れの如き西洋精神史の川面に浮上してきたとも言うことができるかも知れない。この古代ストア哲学の連続性は、十六世紀において、「いかに自己自身を統治するか」という問題の再提起という形を取って現れるとフーコーは言う(«Sécurité, territoire et population » dans Dits et écrits. III 1976-1979, Gallimard, 1994, p. 720)。
このような問いが再提起されざるを得なかったは、それだけ〈教会〉の外での諸個人の行動の範囲が拡大したということでもある。いかに個人として行動するか。いかに家族を守るか。いかに子どもたちを育てるか。いかなる規則を自らの生活に与えるべきか。万民にとって生きる上で基本的なこれらの問いへの答えを、失墜しはじめた〈教会〉の権威の外に探さなければならなくなったのである。
十六世紀のこのような精神的状況の中で、古代の著作家たちへの回帰をもっとも徹底して実践したのがモンテーニュであった。しかし、その回帰は、何よりも、現在の自らの生をよりよく生きるための方途にほかならなかった。
ピエール・アドは、その名著 Qu’est-ce que la philosophie antique ?, Gallimard, « Folio Essais », 1995 で、そのエピグラフの一つとして、モンテーニュの『エセー』から次の一節を選んでいる。
Je n'ay rien faict d'aujourd'huy. — Quoy, avez-vous pas vescu ? C'est non seulement la fondamentale, mais la plus illustre de vos occupations (Les Essais, Livre III, chapitre XIII, « De l’expérience », Édition Villey-Saulnier, PUF, 2004, p. 1108).
「わたしは今日何もしなかった。」―「何ですって。あなたは生きたのではないのですか? それこそ、あなたの仕事のうちで、根本的であるだけでなく、もっとも輝かしいものなのですよ。」