内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

L’art d’être imparfait (不完全である技法)― 発表の組み立て方について

2014-11-20 18:04:17 | 講義の余白から

 講義をするのが長年の商売であるから、それなりにその構成の方法をあれこれ考え、工夫し、実践しては、修正を加えるということを繰り返してきて、今では講義の組み立てに難儀することはまずなくなったが、フランスで初めて教壇に立った十六年前は、それはもう準備が大変であった。週に四コマ、内容のそれぞれまったく違う授業を担当したのであるが、一コマの準備に丸一日かかった。当時はフランス語も怪しく、特にその場での即興というのはまず無理であったので、授業内容はほぼすべてノートに書きとめ、途中で挿入する冗談まで書き留めておいた(その冗談が滑った時は、その後の教室の雰囲気が悲惨であったことは言うまでもない)。四コマの準備で四日かかり、授業が二日間あったから、一週間のうち六日は完全に授業とその準備とのために費やされ、その疲れで日曜日はぐったりとしていた。まあ給料をもらいながら、フランス語の特訓をしていたようなもので、今から思えば誠に有難い話であるが、当時はほんとうに必死であった。
 二年目は大分楽になったが、それでもなかなかその場で機転を利かせることができるほどフランス語が自由になるようになったわけではなかった。その後何年かの間、教えながら博士論文を準備し、その過程で発表する機会にも度々恵まれ、話すことには慣れていったが、そういう慣れとは別に、ふと授業の準備が楽になったきっかけがある。
 それは、話す内容をあえて不完全にしたほうが、授業がうまくいくということに気づいたときである。それまでは、自分が準備してきたことをとにかくできるだけ順序立て、しかも隙のないように構成しようと努力を傾注していたのであるが、それをやめたのである。下調べはもちろん入念にするとして、教室での説明にはあえて「穴」を何箇所か作り、学生たちがそこで「?」となるようにしたのである。
 そうすると、当然のごとく、その箇所で学生からいかにもという質問が出る。こっちは先刻ご承知である。待ってましたとばかりに、即座に、「Bonne question ! (いい質問ですね)」(これはフランス語では当たり前の表現で、けっして池上彰の真似ではない。念の為に)と反応し、立て板に水と答えるわけである。学生は褒められて嬉しいし、こちらの答えに納得する。他の学生たちも「なるほど」という顔をする。こういうことが数回、授業中に繰り返されることで、こちらの話にリズムが生まれ、学生たちとの間に相互作用が発生して、授業が活性化するようになる。
 まあ、こんなこと、当たり前のことで、皆知っているし、実行していることだろうけれども、自分自身の経験として、「なんだ、こうすればいいのか」と気づいたときは、すっかり気分的に楽になったものである。
 今日の修士の合同演習は、これまでと同様、学生たちの発表だっのだが、どうしても「ベタ」に話す傾向があり、これだと聞き手が飽きてしまうし、何が大事なのかわかりにくい。そこで発表後の講評の中で、上に書いたような私自身の経験を話して、発表がその後の活発な議論を引き起こすようにするためには、「不完全である技法(l’art d’être imparfait)」を身につける必要があるという話をした。
 学生たちの反応は、「先生、自分たちの発表はすでに不完全ですから、それをあえてさらに不完全にすることは逆に難しいと思います」という感じであったが、確かに、ただ「穴」だらけにすればいいというものではないから、彼らにはまだ難しいテクニックかも知れない。しかし、これも修行である。
 来週が最後の発表である。お手並み拝見いたそう。











「空の名残」考 ― バシュラール『空と夢』とエリアーデ『聖と俗』を手掛かりに(3)

2014-11-19 17:49:59 | 哲学

 昨日からの続きで、なぜ、地上の出来事や係累からは離脱できたとしても、「空の名残」にだけは心惹かれてしまうということが起こるのか、という問題について、さらに考えてみよう。今日の記事でそのための手掛かりとするのは、ミルチャ・エリアーデの『聖と俗』の一節である。

L’homme prend connaissance du sacré parce que celui-ci se manifeste, se montre comme quelque chose de tout à fait différent du profane. Pour traduire l’acte de cette manifestation du sacré nous avons proposé le terme hiérophanie, qui est commode, d’autant plus qu’il n’implique aucune précision supplémentaire : il n’exprime que ce qui est impliqué dans son contenu étymologique, à savoir que quelque chose de sacré se montre à nous.

Le sacré et le profane, Gallimard, « Folio essais », p. 17

 人が聖なるものを認識するのは、それが俗なるものとはまったく異なったものとして己自身を顕すからである。この聖なるものの顕現作用を言い表すために、エリアーデでは、 « hiérophanie » という自身の造語を導入する。語源的にはいずれも古代ギリシア語の « hieros »(聖なるもの)と « phainein »(輝かせる)とに由来するニ要素からなっている。日本語の定訳があるはずであるが、今手元では確かめようがないので、「神聖顕現」と訳しておく。私たちに「自ら顕現する聖なるもの」ということである。

C’est toujours le même acte mystérieux : la manifestation de quelque chose de « tout autre », d’une réalité qui n’appartient pas à notre monde, dans des objets qui font partie intégrante de notre monde « naturel », « profane » (ibid.).

 神聖顕現は、つねに同じ神秘的な作用で、「まったく他なるもの」― 私たちの世界には属さない現実の何かが私たちの「自然で」「俗な」世界を構成している事物の中に顕現することである。

La pierre sacrée, l’arbre sacré ne sont pas adorés en tant que tels ; ils ne le sont justement que parce qu’ils sont des hiérophanies, parce qu’ils « montrent » quelque chose qui n’est plus pierre ni arbre, mais le sacré, le ganz andere (ibid.).

 ある石や木が神聖なるものとして崇められるのは、それらが神聖顕現だからであり、それらが石でも木でもなく、神聖なもの、まったく異なったものである何かを「見せる」からである。
 以上のような神聖顕現の考え方に従って「空の名残」とは何かを考えてみよう。
 私たちがもし空に現われる移ろいやすい季節ごとの美しさに他のものには感じない神秘性を感じるとすれば、それはそこに〈まったく他なるもの〉が顕現しているからではないのだろうか。この地上世界には属さない〈まったく他なるもの〉が、例えば、暮れやすい晩秋の夕陽に染められた茜色の空として、あるいは嵐が去った後の洗われたような青空に吹く風として、顕現しているのならば、それらの「空の名残」に対して、魂があくがれるがごとくどこまでも惹かれてしまうということが世捨て人の身に起こるのは、むしろ「あらまほしきこと」とさえ言うことができるのかもしれない。


「空の名残」考 ― バシュラール『空と夢』とエリアーデ『聖と俗』を手掛かりに(2)

2014-11-18 19:24:04 | 哲学

Tous les êtres qui aiment la grande rêverie simplifiée, simplifiante, devant un ciel qui n’est rien autre chose que « le monde de la transparence », comprendront la vanité des « apparitions ». Pour eux, la « transparence » sera la plus réelle des apparences. Elle leur donnera une leçon intime de lucidité. Si le monde est aussi volonté, le ciel bleu est volonté de lucidité. Le « miroir sans tain » qu’est un ciel bleu éveille un narcissisme spécial, le narcissisme de la pureté, de la vacuité sentimentale, de la volonté libre. Dans le ciel bleu et vide, le rêveur trouve le schème des « sentiments bleus » de la « clarté intuitive », du bonheur d’être clair dans ses sentiments, ses actes et ses pensées. Le narcisse aérien se mire dans le ciel bleu.

L’Air et les Songes. Eissai sur l’imagination du mouvement
Le Livre de Poche, p. 220.

 昨日の記事の冒頭に引用した『徒然草』第二十段の中の「空の名残」について、上に引用したバシュラールの『空と夢』の一節を手掛かりに、一つの解釈を提案してみたい。
 なぜ、地上の出来事からは離脱できたとしても、「空の名残」にだけは心惹かれてしまうということが起こるのか、この一節を翻案しながら考えてみよう。
 空が「透明の世界(le monde de la transparence)」として私たちを超え包むとき、その透明性の裡に現われるすべての「現われ(apparitions)」は虚しいものであることが実感される。そのように世界が生きられるとき、すべての現われを透過する空の透明さこそ最も現実的なものであることがわかる。青空の透明さは、澄明の現実性、澄明さそのものが何よりもそれとして望まれているということを内側から理解させる。空は「裏箔なき鏡(miroir sans tain)」であり、そこに現われるすべては、その様々に異なった移ろいやすい現われゆえにその「名残」が「惜しまれる」のではなく、それらすべてをそれとして現われさせつつ、己自身は現われることなき空の無限の透明性の「名残」として、遅かれ早かれこの世を立ち去るはかなき現身(うつしみ)によって、どこまでも愛惜されるのではないであろうか。


「空の名残」考 ― バシュラール『空と夢』とエリアーデ『聖と俗』を手掛かりに(1)

2014-11-17 19:50:41 | 哲学

なにがしとかやいひし世捨て人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことにさも覚えぬべけれ。

 これは『徒然草』第二十段全文である。ごく短い断章だが印象深く、いろいろなことを考えさせてくれる。
 兼好がなぜこの世捨て人の言に共感を覚えたのかはよくわからないが、現世につなぎとめる絆となるものを持っていない世捨て人が、「空の名残」だけは惜しまれるという抑えがたい感情を吐露しているところに共感していることはわかる。
 では、この惜しまれる「空の名残」とは何なのだろう。久保田淳校注の岩波の新日本古典文学大系版の脚注には、「空の様子だけがなごり惜しい」とあるが、これだけでは何が名残り惜しいのかよくわからない。西尾実・安良岡康作校注の岩波文庫版の注釈には、「空から受けて、心に残る感銘・印象」とあり、参考歌として、西行の『山家集』中の一首「嵐のみ時々窓におとづれて明けぬる空の名残をぞ思ふ」を挙げている。しかし、権威ある専門家に楯突くつもりはないのだが(と言いながら実際突くわけであるが)、「空の名残」を心に残った印象とするのは、いかにも近代主義的二元論に毒された解釈とは言えないであろうか(大森荘蔵なら必ずそう言ったであろう)。それに、参考歌として挙げられた西行の歌では、嵐の後の空を眺めて、その空へと思いを馳せていると読めるから、やはり心の内の印象とは考えにくい。
 『徒然草』には、Les heures oisives, traduction et commentaires de Charles Grosbois & Tomiko Yoshida, Gallimard, Collection « Connaissance de l'Orient », Série japonaise, Gallimard, 1968 という見事な仏訳がある。その前書きによると、まず、大使館参事であった日本通の Jacques Chazelleが日本の偉大なるパスカル研究者である前田陽一の協力を得て三分の一ほどを訳し、その後、パリ大学で文学博士号を得た Tomiko Yoshida が書誌的準備作業に従事し、それに基づいて Charles Grosboisが全部訳し、最終的に前田陽一が校閲したという。これだけ手を掛けて一つの訳業がなされることは例外的だが、『徒然草』はそれに値するだけの古典の一つであるとは言えるだろう。
 その仏訳では当該箇所は次のように訳されている。

« Rien ne m’attache plus à ce monde ; seule m’affecte pourtant la beauté fugitive des saisons dans le ciel. »

 前半は原文にごく忠実な訳だが、後半は「ただ、空の季節ごとの移ろいやすい美しさだけは、私の心に触れてくる」と訳せる内容で、「空の名残」についてはっきりと訳者の解釈が訳そのもの中に表現されている。この解釈の当否をここで論うだけの準備はないが、一言個人的印象を述べさせていただくと、こう訳せば確かに意味は明確になるけれど、「空の名残」という余韻のある表現の味わいは失われてしまうと思う。
 自分をこの世にひきとめる地上的なものからは離脱できても、空にある〈何か〉にだけはどうしても惹かれてしまうという心の動きは、自然の移ろいやすい美しさに魅惑されるということよりも、何か人間にとってもっと普遍的で本質的な魂の志向性を表現しているのではないであろうか。これが私の問いである。
 この〈空〉への根源的な志向性という問題を考えようとするとき、手がかりになるだろうと私が念頭に置いているのは、大江健三郎がある対談で自分の文学に決定的ともいえる大きな影響を与えた二冊として挙げている、ガストン・バシュラールの『空と夢—運動の想像力にかんする試論』(Gaston Bachelard, L’Air et les Songes. Essai sur l’imagination du mouvement, Le Livre de Poche, 1992)とミルチャ・エリアーデの『聖と俗—宗教的なるものの本質について』(Mircea Eliade, Le sacré et le profane, Gallimard, « Folio essais », 1987)である(邦訳はいずれも法政大学出版局「叢書・ウニベルシタス」として出版されている)。
 明日と明後日の記事では、上記ニ著それぞれからの引用を手掛かりに「空の名残」についてさらに考えていく。


現代世界を読み直す方法を索めて ― アレゴリー的表現について

2014-11-16 19:19:08 | 随想

 数日前から、必要があって、アレゴリーという表現方法について調べ、考えている。
 手がかりとして、まず、Le Grand Robert の当該項目を引いてみる。「具体的な要素を一貫した仕方で(イゾトピー isotopieに従って)用い、その各要素が隠喩として、異なった性質をもった一般に抽象的な内容に対応する語り」とある。
 次に、Dictionnaire historique de la langue française, Le Robert, 2009を引く。それによると、語源的に、アレゴリーとは、「異なった言葉」という意味であり、フランス語では、そのギリシア語・ラテン語での意味に従い、「隠喩的な言説」という意味で使用され、特に古典的な用法としては、そのすべての具体的要素が、それとは異なっていてしばしば抽象的な内容を組織する語りのことである。
 そして、Dictionnaire du Moyen Âge, PUF, 2002 も引いてみた。具体的作品名がたくさん挙げてありかなり長い項目なので、最初の方の一般的な記述からのみ摘録すれば、以下のようになる。中世は、アレゴリー文学が最も活発に発展した時代であり、そのような発展のための好条件は、キリスト教文化の土台そのものに由来する。つまり、世界を一つの〈書物〉と見なすアウグスティヌスによって解釈されたプラトニズムと、教父たちによってその釈義の諸方法が定義された聖書(l’Ecriture)に基づいた宗教とがこの文学の背景をなしている。
 これらの記述からわかることは、アレゴリーとは、ある具体的なそれとして一貫性をもった物語を語りながら、その物語によって別のことを言おうとする文学形式であり、その別のことは一般に抽象的な内容であり、ヨーロッパ中世においては、その内容は主に宗教的教義・道徳的教説であったということである。おそらく聖書それ自体の解釈の仕方を教父たちが考究していく過程で、聖書の表現の意味の二重性、さらには多層性ということが自覚されていき、そこから聖書に倣って表現方法としても次第に用いられ、発展させられていったのであろう。
 アレゴリーが教義・教説の教化的表現方法として発展したとすれば、そのような教義・教説が疑われるようになり、さらには、より一般的に、一次的な物語表現の背後に不変の超越的な意味の存在を前提するという信念が崩壊した時、アレゴリーが文学形式として廃れていくのも当然の成り行きである。アレゴリーの衰退が中世の終焉と重なるとすれば、近代はアレゴリーの失墜とともに始まったと言うこともできるだろう。
 しかし、乱暴な言い方なのを承知で言えば、近代が、超越的・形而上学的な存在への不信と、リアリズムとシンボリズムの一般化とによって特徴づけられるとすれば、〈書物〉としての世界の読み方としてのアレゴリーは現代において可能かという問いは、中世への呑気な懐古趣味としてではなく、私たちは世界への信を回復することができるのかという問いとして、問われるに値する問いの一つではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『蜻蛉日記』執筆動機考 ― 上巻序の解釈をめぐって

2014-11-15 20:18:11 | 読游摘録

 『蜻蛉日記』を構成する上中下三巻の執筆年代と成立の順序については、専門家の間でも諸説あり、それらはすべて決定的な書誌的証拠不在故に、その推定の根拠は主にテキストそのものの読解に拠らざるを得ず、それだけ諸家の作品解釈の違いをそのまま反映する傾向がある。それに、「執筆に先立つ原資料、すなわち歌稿・消息文・折々にしたためた紀行メモ等の存在が考えられ、それらを整理した素稿、さらに成稿、成稿の削除加筆といった段階も予想され、単純な成立年次の特定は困難であろう。諸家の議論が多岐に分かれ、定説を見ないゆえんである」(新潮古典集成版解説、三三九-三四〇頁)ということであるから、今後この問題が決着を見る可能性は極めて乏しいと言わざるをえない。
 この問題は、各巻の執筆動機という問題とも不可分に結びついており、これらの問題に対する答えがそのまま上巻の序と跋の解釈の方向性を決定している。実際、私の手元にある三つの注釈書、新潮古典集成版(犬養廉校注)、岩波の新古典文学体系版(今西祐一郎校注)、角川ソフィア文庫新版(川村裕子訳注)は、序の後半部に対してそれぞれ異なった解釈を提示している。
 新潮古典集成版の傍訳と本文と頭注とを組み合わせると、「当今もっぱら流行している古物語の端などを見れば、みな絵空事ばかり、それでももてはやされている。人並みでもない身の上まで書いて日記とすれば、きっと風変わりなものになろう。世間の人、古物語の読者たちが、身分の高い殿方(の夫人たる者)の、実際の生活はどんなものかと、尋ねたら、そんな時はこれを実例にしてほしい、と思うのだが、過ぎにし年月ごろのことも、うろおぼえになってしまったので、これでよかろうという適当な記事が多くなってしまった」(九頁)となる。
 新古典文学体系版では、その脚注を組み込んで同箇所を訳すと、「世の中に数多ある昔物語の類を覗けば、世間でよくある作り事でさえそうなのだが、まして人なみでもない身の上を日記に書くなどというのは、突飛に見えることだろう。この上なく貴い身分の人とはどのようなものなのか、尋ねようとする際の一例にも、と思うのだが、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、そのままにしておいてよい、つまり、日記に書かなくてもよいようなことが多くなってしまった」(三九頁参照)となる。
 角川ソフィア文庫版は校注者による現代語訳付きなので、それをそのまま引く。「世間に流行している古物語の端々などを覗いてみますと、どれもこれもいい加減な作り事や絵空事。こんなものでもはやるのだから、人並みでない身の上でも日記として書き綴ってみたら、さぞ珍しい、と思われることでしょう。この上もなく高い身分の人の妻、それはいったいどのような生活なのかしら、と尋ねる人がいたら、そんな時の答えの一例にしていただきたいと思います。それでも、過ぎ去った多くの長い年月のことは、きれぎれの記憶ではっきりと覚えているわけでもなく、日記にかかなくてもよさそうな記事も多くなってしまいました」(二三三頁)。
 新潮版は、「他愛もない(と作者には思われる)古物語でも世間の人は面白がるのだから、私の身の上を書けば、たとえそれが人並み以下だとしても、案外面白い読み物になるだろう。身分の高い殿方とその夫人たちの生活に興味がある人たちにとっては、一つの例として見せることができるかと思う」という解釈になるだろうが、これだと序前半の謙遜した言い方に反して、作者自身をも高い身分の階級の側に置き、そういう自分を取り巻く生活ががそれ以外の階層の人にも面白かろうという、かなり驕った態度とも取れるような文意になってしまう。
 岩波版は、校注者今西氏による解説も併せて読まないとよくわからないのだが、その解説よれば、「序・跋の読み方としては、まずそこに著者の卑下謙遜を読みとらねばならない」から、「天下の人の品たかきやと問はんためしにもせよかし」の一句の中の「天下の人の品高き」には、作者自身は含まれてはならず、まずは夫の兼家、さらには日記に登場するその他の貴顕を指していると解釈する。この解釈は、「和歌を主とする『蜻蛉日記』上巻が、いわば『兼家集』に相当する役割にも堪えうる作品」であるという大胆な想定に基づいており、『蜻蛉日記』上巻は兼家の要請により書かれたという仮説にまで加担している。
 角川版は、現代語訳を読めばわかるように、自分の生活の記録もきっと興味あるものでありうるだろうという、「物語ではなく日記という新しいジャンルを書こうという宣言が高らかにされている」(『新版 蜻蛉日記Ⅱ』解説、二九七頁)という解釈である。
 私はといえば、もちろん専門家でもないのであるから、これらの諸家の説に対して、根拠を挙げて反論することなどとてもできないが、上記三説はいずれも十分に説得的ではないというのが正直な感想である。
 それはともかく、私自身かねてより考えていたのは、紫式部や清少納言と違って宮廷社会での社交性を持たない「家庭女性」であった道綱母の内省の記録である日記が広く読まれるようになった契機はどこにあるのかという受容の問題である。当時から和歌の名手として知られていたとしても、誰かの協力あるいは援助なしに、「あるかなきかの心ちするかげらふの日記」が広く読者を獲得するとは考えにくい。もちろん一旦評判を得れば、その後は作品自体の力によって後代の読者を獲得していったとは言えるだろうが、最初にこの日記を世に知らしめたのはどのようなきっかけだったのだろうか。この問いに対する答えは、『蜻蛉日記』の執筆動機の問題とも密接に関連している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人が日記を付け始める時 ― 自照文学成立の根本契機を索めて

2014-11-14 17:39:31 | 随想

 人が自分自身について書き始める契機は何であろうか。過去の自分を回想するためとか、後々のための記録とか、商業的なあるいは私的な理由で人から求められて書き始めるような場合は、ここでは考えないことにしよう。
 昔、日本で大学院生だった頃のことである。ある先生が、「人は不幸になると、日記を付け始めるものだ」と言い出して、それを聞いていた別の先生が、「そうですかねえ。私は別に自分を不幸だと思っていないが、毎日日記つけていますし、後になって読むと面白いですよ」と反論すると、「いや、自分はそのつもりでも、日記をつける人は不幸な人なのだ」と最初の先生は譲らない。半分本気、半分からかうような調子だったし、そこから議論が発展することはなかったのだが、もう二十年以上昔の話なのに、今でも何故か妙にこのやりとりをよく覚えている。
 その時脇でそのやりとりを聞いていた私は、小学校の頃夏休みの宿題としていやいやつけていた日記(いやいや付けていたのであるから、本人にしてみれば大いに不幸であったが)は別として、自分が初めて自ら思い立って日記を付け始めたのはいつだろうかと思い出そうとしていた。
 それは高校二年生の時だった。確かにそのころ我が家は暗かった。父は入退院を繰り返し、その進行する病状からして職場への復帰はだんだんと非現実的な話になりつつあり、自宅療養を強く望んでいた父はしばしば家におり、その姿を見るのは辛くもあったし、やりきれなくもあった。そんなときに日記を付け始めた。やはり一人心のうちにはしまっておきにくい鬱屈した気持ちをどこかに吐露したかったのであろう。
 しかし、自分がそのとき思っていることを書き出してみると、すでに書くべきことがあって書くというよりも、書くことによって書くべきこと(もちろんもっぱら個人的・主観的な意味でだが)が生まれて来るということがわかってきた。しかし、それに気づいたのは、ただ生な感情をそこに吐露しているだけではなく、そのような感情を持つ自分を観察するという態度が書記行為の中に入ってきてからのことである。それが契機となって書くことが習慣化したとも言えるし、書くことが習慣化したということは、そのような自己観察的な内的言語空間が生まれたということだとも言えるだろう。もちろん高校二年生の時にこのように考えたわけではない。今から理屈づけてみればこのように言えるだろうかという話である。
 その日記を付け始めて数カ月後に父は亡くなった。その直前には日記を付けることは一度止めていた。父の死後しばらく経って再開したが、長続きはしなかった。別に不幸ではなくなったと思ったからではなく、受験勉強で日記どころではなくなったというだけの話である。そして大学に入ってから間もなく、その日記を捨てた。読み返す気には到底なれなかったし、その表紙を見るのも嫌になって、他のノート類と一緒に捨てた。
それ以後、断続的に日記をつけ、ここ八年程はフランス語で毎日の記録を日記として残しているが、これはもっぱら過去の記録として坦々とその日の出来事を記しているだけで、感想の類は、ごくわずかの例外を除いてほとんど残さない。
 このように自分自身の貧しい経験を反省してみたところで、自照文学成立の根本契機は、残念ながら、はっきりと見えてきそうにない。自分自身の経験と問題意識はそれとして大切にしなくてはならないだろうが、やはり、基本に立ち返り、まずは『蜻蛉日記』を虚心坦懐に読み直すことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


己を照らす言葉の光 ― 自照文学について

2014-11-13 19:36:59 | 講義の余白から

 「自照文学」という言葉が、日本で日本語として今どれほど一般的に通用しているのかよくわからないが、例えばネット上の国語辞典で調べてみると、「日記・随筆などのように,自己省察の精神から生み出された文学」(『大辞林』第三版、三省堂)、あるいは「日記・随筆などのように、自己反省・自己観察の精神から生活体験を主観的に叙述した文学」(『デジタル大辞泉』、小学館)などとある。他の辞書もこれらのいずれかとまったく同じかほとんど同じである。
 そこからわかることは、まず形式としては、日記あるいは随筆という形をとるということ、内容については、自己観察あるいは自己反省からなるということである。さらに上掲の後者の定義によれば、観点として、主観的な叙述であるという第三の要素が加わる。
 一方、上掲の定義に従うかぎり、自照文学という範疇からいわゆる自伝は排除される。つまり、自己のそれまでの生涯について「語る」ことを目的とした文章は、自照文学には入らない。もちろん、自伝の定義自体も問題になりうるわけで、その定義の仕方によっては、自伝文学と自照文学との境界も曖昧になってくるだろう。
 それに、今、自伝文学と書いたが、自伝と自伝文学も必ずしも同義ではないという問題もある。例えば、ある会社の創業者や偉大な記録を残したスポーツ選手も自伝を書くことがあるだろうが、それらの自伝と文学作品として認められた作家の自伝とは同日には論じられないだろう。
しかし、今、それらのすべての問題は脇に置いて、自照文学に立ち戻ろう。
 フランス語ではこれを littérature d’introspection と訳す。このフランス語を逆に日本語に戻すと、「内省文学」となる。つまり自分自身を外からの視点を介さずに見つめる文学ということになる。言い換えれば、他者からどう見えるかとか、他者の自分に対する考えはどうかということではなくて、自分に関わるすべてのことがらを内側から観察する態度が自照文学の基本だということである。
 ここで、自照文学と自伝とのもう一つの相違点がはっきりする。自伝では、基本的に、語られるのは過去の自分であって、それをあたかもその時を生き直すように綴る場合もあれば、自伝を書いている現在の視点から回顧的に整理して叙述する場合もあるだろうが、いずれにせよ、語られるべき自己は、今それを語っている自己とは時間的には区別することができる。ところが、自照文学の場合は、逆に、基本的に、観察する自分と観察される自分とは時間的にはどちらも今の自分であり、その〈今〉において、自分が観察者と被観察者とに分節化されている。
 以上のように考えてよいのならば、この同時的自己分節化を可能にしている言語使用が自照文学の固有性をなしていると言ってよいことになる。
 しかし、このような言語使用は、文学に固有であろうか。むしろ哲学においてこそ、このような言語使用は実践されてきたのではないであろうか。だとすれば、文学に固有な〈自照〉とはどのような表現の形をとるのか。
 今日の記事を書き始めたとき念頭にあったのは、自照文学の嚆矢でありかつ代表的作品とされる『蜻蛉日記』のことであった。その後に続く『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』という順番に従って、来週から修士一年の演習で、各回にそれぞれ一作品ずつ解説していくのであるが、そのための統一的な観点を最初に提示するために、自照文学という概念をその手がかりにしようと思っているのである。この演習のテーマとして予め掲げたのは「女流日記文学における〈自己〉の形成」であったが、もう少し観点を限定するために、自照文学という概念を導入するつもりなのである。
 今日の記事の締め括りとして、その演習での作業仮説を簡略に述べておく。ある言語仕様の仕方によって開かれる観察可能な〈内的〉生の空間があるとすれば、その空間はその一定の言語使用の仕方と不可分であり、さらに言えば、そのような内的空間はその一定の言語使用の仕方そのものであり、それがその書き手の感情生活全体を規定しており、そこにおいて諸情念は言葉の光の中にもたらされ、それとして生きられている。そのようにして生きられる空間が生成する場所の一つが〈日記〉なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


汝は何處にをるや ― 人間の歴史の始源にある問いかけ

2014-11-12 18:15:12 | 随想

 『創世記』第三章のいわゆるアダムとイヴの失楽園の話は、私にとって汲めども尽きぬ思索の源泉の一つである。以下に記すのは、しかし、そこを読んでのささやかな私的感想であって、聖書解釈としてどうなのかという問題は一切視野の外にある。
 野の生き物のうち最も狡猾な蛇に唆されたイヴに勧められるがままにアダムが智恵の木の実を食べてしまい、その結果として、二人とも目が開け、自分たちが裸であることに気づき、体の一部を無花果の葉で隠し、ヤハウェの足音を聞くと、木の陰に身を隠す。そこでヤハウェはアダムに問いかける、「汝は何處にをるや」と。しかし、これは奇妙な問いかけではないか。なぜなら、全知全能の神がアダムの居場所を知らぬはずはないからだ。とすると、これはアダムを探しだそうとしての問いではないだろう。では、なぜヤハウェはアダムに己の居場所を問うたのだろうか。それは、まさにこの問いにアダム自身に答えさせるためだったのだろう。
 そのアダムの答えは、「我園の中に汝の聲を聞き裸體なるにより懼れて身を匿せり」である。「どこにいるのか」と聞かれただけなのに、「ここにいます」と単純に答えるかわりに、隠れた理由まで説明している。これもまた奇妙な話だ。禁断の実を食べてしまったのだから、罪の意識から神を恐れ、身を隠そうと思った気持ちは、まさに人間としてよくわかる。しかし、身を隠そうと思った理由は、自分が裸だからであるとアダムは言うのである。これも答えとしては何かおかしい。
 いったい何がアダムにこのように答えさせたのだろうか。この疑問に答える手がかりは、直前の箇所に与えられている。神の足を聞く前、知恵の木の実を食べた途端に、目が開け、自分たちが裸であると知った。この出来事は何を意味しているのだろう。禁断の木の実を食べる以前にも、エデンの東の園を自由に歩き回り、その他の木の実は自由に取って食べていたのであるから、目が見えなかったわけではない。だとすれば、知恵の木の実を食べた瞬間に起こったのは、世界の見え方が根本的に変わってしまったということだろう。つまり、自分とは、今こうして見えている自分の体のことであり、自分の伴侶とは、やはり同じく裸体で自分の前に立っている相手のことであり、そのような身体的自己の相互認証がそこで初めて成立したのだ。
 しかし、その時生じたのはそれだけのことではない。なぜなら、アダムは、イヴとともに、神から「身を隠す」ことができると考えているからである。つまり、自分たちが自分たちの体を見るように、神もまた自分たちを見ているはずだ、だから木陰に隠れれば見えないはずだと愚かにも思ったわけだ。ここでアダムが犯している誤りは、有限な人間の視点を神の視点と同一視するという誤りである。
 アダムが知恵の木の実を食することで「獲得」したのは、自己の視点を普遍的な視点と同一視するという態度であり、だからこそ蛇は、その実を食べれば「汝等神の如くなりて、善悪を知るに至る」と唆したのである。しかし、それと同時に、人間が死すべき存在となったのはなぜか。それは、見えている有限存在である自己身体を自己そのものと同一視するようになったからである。
 だから、アダムのヤハウェに対する答えは、自分が罪を犯したことを告白しているだけであって、まだ本当にヤハウェの問いかけ、「汝は何処にをるや」に答えてはいないのである。そして、答えないままに、エデンの楽園から追放されてしまう。
 被造物たる人間のそれ以後の歴史は、この問いに対する答えの探求の歴史だと言ってもいいのではないであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第一次世界大戦休戦記念日に寄せて

2014-11-11 09:06:04 | 雑感

 今日は第一次世界大戦休戦記念日。九十六年前の十一月十一日にドイツと連合国との間で休戦協定がフランスのコンピエーニュの森で締結されたことを記念する日。フランスでは国民の祝日。調べたわけではないので確かなことはわからないが、ヨーロッパの他の国でも国民の祝日になっているところが少なくないのだろうと思う。今年は同大戦開戦百周年にあたるから、ヨーロッパ各地できっといろいろと例年にはない特別な催しがあることだろう。
 日本の近現代史では、世界大戦といえば、一九四一年からの太平洋戦争と重なり合う一九三九年からの第二次世界大戦の方が圧倒的に重大な意味を持っているが、ヨーロッパでは、国によって、あるいは地域によって、第一次世界大戦での犠牲者の方が多かった。特にフランスは戦死者・戦傷者の数の多さで連合国中際立っている。前者が約百四十万人、後者が四百二十六万人以上を数えると言われている。イギリスがそれぞれ八十八万人・百六十六万人、イタリアが六十五万人・九十五万人。「戦敗国」であるドイツは、二百万人を超える戦死者を出し、戦傷者はフランスとほぼ同数だが若干下回る。
 紀元前のことはしばらくおくとして、キリストが生まれてから前世紀までの二十世紀の間、世界中でどこにもまったく戦争がなかった世紀というのはないのであろう。紀元前後からの約二世紀間のいわゆるパックス・ロマーナは西洋のお話であって、中国では後漢の時代、平和には程遠い動乱の時代であった。それはともかく、二十世紀が人類史上最も多くの戦死者を出した大量殺戮の世紀であったことだけは間違いない。
 今後人類がいつまで地球上に存続するのか、あるいは地球そのものがいつまで存続するのか知らないが、「この世紀は世界中どこにも戦争がない平和な時代であった」と世界史に記される名誉を与えられる世紀が果たして人類に来るのであろうか。二十一世紀は、その幕開けとともにそう記される資格を失ってしまったばかりか、人類未曾有の危機をこれから見ていくことになるのだろう。私たちは戦争以上に恐ろしいものを見ることになるのかもしれない。南無阿弥陀仏。