内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その8)

2013-10-21 01:34:00 | 哲学

 今朝(20日日曜日)は8時からプール。今日も2000m。内訳はクロール600,平泳ぎ100,背泳ぎ1300。この1年ほどは背泳ぎを中心にして泳いでいるが、その理由は、腕を前方にまっすぐ振ることによって背筋をよく伸ばし、胸筋を開くように上体を動かすことで、大胸筋、上腕筋、三角筋を特に強化できるからである。数ヶ月で目に見えてその効果が現れてきた。今日は特に水に乗れて泳げた。そういうときは25mを12ストロークでカバーできる。最近は毎日というわけにはいかないが、こうして日常的に朝水泳をしていると、その日の体調をまずチェックできる。それだけではなく、たとえ最初は体が重く水に乗れないと感じる日も、1000mくらい泳いで体が温まってくると、後は快適で、プールから上がる頃には心身ともにリフレッシュされている。それで、さあ今日も一日頑張るかという気にもなるわけである。
 午前中は、「虚と空」についての論文の校閲者による最終チェックを本文に取り込む作業。校閲者の実に注意深く厳密な作業のおかげで小さな過誤も直すことができ、作業後安心して編集責任者に最終原稿を送ることができた。それ以降は、夕方までベルクソンの『二源泉』再読作業と並行して結論部の覚書を書く。長さだけからいえば完全に時間オーバーになってしまう量をすでに書いたが、まだ結論とするにはぼやけすぎている。『二源泉』の再読をさらに継続しながら、原稿の完成は今週金曜日の締切日を目標とする(締め切りぎりぎりになるのはいつものことである)。

2.6 第三の交点―「実在的直観」と「行為的直観」
 第三の交点はラヴェッソンの「実在的直観 intuition réelle」と西田の「行為的直観」との間の照応に見られる。最も自由な活動の現実形態である意識においては、「はたらくものとはたらきを見るものとは同一の存在者である、というよりは、はたらきとはたらきを見ることとは合一しているのである。作者、劇、役者、観客、を唯一人が兼ねる」(『習慣論』野田訳25頁)。このテーゼは、何らの変更なしに、「見る」ことと「働く」こととの現実的な統一である「行為的直観」の定義としてあてはまる。実際、西田は、ラヴェッソンの「直接的知性 intelligence immédiate」の定義の中に、内的直覚によって把握された行為的直観の、一つの適切な説明を見ている。この「直接的知性」は、習慣の発展過程を通じて反省に取って代わる。反省や意志においては、身体的運動の目的はひとつの観念であり、「実現すべき一つの可能性」であり、したがって、目的と運動の間に距離がある。ところが、習慣の発展過程においては、目的を目指す意志が、目的を実現することができる有機的傾向にその場所を譲るにつれて、「目的が運動と合一し」、「観念は存在となる、観念はそれの決定する運動及び傾向の存在自体且つ全体となるのである」(同書46頁)。

習慣は次第に実体的観念となる。習慣によって反省にとって代わる不明瞭な知性、そこでは客観と主観とが合一しているこの直接的知性は、実在的なるものと観念的なるものと即ち存在と思惟とがその中で合一しているところの、実在的直観である(同書46-47頁)。

 『習慣論』のこれらの箇所に明示的に依拠しながら、西田は、このように定義された実在的直観が行為的直観とは何かをよく説明してくれると言う。実在的直観は、意識の発達過程の到達点で、現実の全体的な知解からなっており、それは、作るものの能動性と作られるものの受動性との生ける統一をなす習慣的な身体運動として受肉される。それが西田の言う歴史的現実の矛盾的自己同一なのである。意識的生命において習慣によってこのように実現された「位置取り disposition」の中においては、知識と行動とは一つである。ところが、現実的直観と行為的直観とを同一のものとみなすことによって、西田は、意識発生の根源に知性と行動との同一性を見出す。しかし、この同一性を、ラヴェッソンは、意識の発達過程の到達点として把握している。

これ[=行為的直観]は意識発展の極致に於て現れるものであるばかりでなく、実は意識発生の根源にあるものであるのである。何となれば、歴史的世界は、作られたものから作るものへと、習慣的に自己形成的であり、我々の意識も此から出て来るものなるが故である(新全集第10巻291頁)。

 これは西田一流の誤解であろうか。ラヴェッソンの実在的直観と行為的直観とを対立させるかもしれない両者の不一致を押し隠すために行われたラヴェッソンのテーゼの不当な一般化であろうか。いや、そうではない。まったく反対に、この見かけ上の不一致は、〈生命〉の進化の全過程を内的に辿り直そうという両者に共通する志向を現実化するために両者が取った方向性の違いに由来するのである。


















新しい社会存在の哲学の構想のために(その7)

2013-10-20 01:57:00 | 哲学

 土曜日朝プール。2000メートル。帰り道にマルシェで野菜と果物を買う。午前中は、自分の発表原稿の書き上がっている部分の読み直し。細部にまだ必要な手直しを除けばこれでよし。後は書きかけの結論部に『道徳と宗教の二源泉』におけるベルクソンの〈種〉の概念とラヴェッソン・西田のそれとをどうリンクさせるかという問題について書き足せば一応仕上がる。その部分を書くための準備として、午後は、PUFの最新校訂版『二源泉』の索引を頼りに「習慣」と「種」について言及されている箇所を全部読み直す作業に専念する。

2.5 第二の交点―〈素質(disposition)〉概念
 西田とラヴェッソンの哲学の第二の交点は、〈素質〉という概念の中に見出すことができる。この概念が最初に現れるのは、『習慣論』のはじめの方で与えられる、習慣の次のような定義の中である。

一たび獲得された習慣は、一般的恒常的な存在の仕方であり、そして変化というものは一時的のものである故、習慣はそれの原因となる変化を超えて存続する。そして更に、習慣が習慣である限り、従ってそれの本質そのものによって、自らを生んだ変化にのみ関係するものであるにしても、それは、もはや無く未だ無いところの変化の為に、即ち可能的変化の為に、存続するのである。そこに習慣がそれとして認められるべき標識そのものがある。それ故習慣は、単に状態であるのみならず、素質であり能力である(岩波文庫野田又夫訳、7-8頁)。

 ここで 、« disposition » という言葉について、一つ特に注意を促しておきたいことがある。というのは、この引用でも、これまでの『習慣論』の引用のときと同様に、岩波文庫野田訳をそのまま踏襲して « disposition » を「素質」と訳したが、この語には、実はもっと豊かな意味の広がりがある。日本語で「素質」というと、潜在的能力という意味に限られがちだが、フランス語の disposition には、「配置」「傾向」「体質」さらには「自由に使える状態にあること」という意味もある。
 したがって、これらの意味を考慮しかつ『習慣論』の文脈にそって、習慣を定義すれば、「事物をある一定の秩序のもとに、以後自由に使えるような仕方で置き、それを維持する能力」となる。習慣とは、自らが生まれた世界の中にある一定期間存続する、ある新しい形の配置を与える能力のことなのである。ラヴェッソンによれば、この恒常的な構成能力であるところの習慣は、私たちに固有な意識において十全に現れる。意識においてのみ「習慣の範型」を見出すことができる。

元来機械的世界の宿命性から出て来た存在者が、機械的世界の内部に於て、最も自由なる活動性という完成せる形式の下に、姿を現わす。然るに、この存在者こそ我々自身である。ここに意識が始まり、意識の中に知性と意志とが輝き出るのである(同書24-25頁)。

 意識は、そこにおいて世界の配置がそのようなものとして直接に把握されるという意味において、まさに disposition である。逆に言えば、そのような能動的な配置が現れる〈場所〉、それが意識なのである。これが「場所的有」と西田が呼ぶところのものであり、それは本質と属性との関係によって規定される実体的存在に対立する。歴史的世界は、歴史を超えた自己同一的な実体的存在によって構成されれているのではなく、なんら超越的形而上学的な根拠なしに、配置能力としての意識の存在を通じて変化していく。このような意識存在は、作られたものから作るものへと、自らに自己形成的で可変的なある特定の形を自らに与えながら変化していく。配置能力として生きられた意識的生命は、このようにして、歴史的世界の只中に自らを置くのである。
 厳密な意味での個別的存在は、意識とともに始まる。この意識とは、世界の中のある一定の秩序の下に置かれた様々な形の自発的な「位置取り」のことにほかならない。私たちひとりひとりがそうである個別的存在は、だから、この世界の中に身体という形をとって自己形成する「場所的有」の自己限定として現れる。このように定義された意識的生命において、つまり優れた意味での人間的生命において、一個の存在は自らに対して具体的な姿をとって現れ、かくしてそこにおいて「世界が自覚する」のである。私たちにおいてこのようにして顕にされる習慣は、私たちの意識において直接的に把握されうるが、世界の自己形成に属する一つの事象であり、自己限定的世界が時間的空間的に自らを限定する過程にほかならない。













新しい社会存在の哲学の構想のために(その6)

2013-10-19 00:35:00 | 哲学

 今朝(18日)は、日曜日以来5日ぶりのプール。2300メートル泳ぐ。午前中は依頼された仏訳のチェック。午後は小林論文の仏訳の仕上げ。2時間ほどで済んだ。すぐにシンポジウム主催者に送信する。これでシンポジウム前の仏訳の仕事はすべて終了。これで残りの時間は自分の原稿に専念できる。
 以下は連載の続き。ラヴェッソンの『習慣論』からの引用は断りのないかぎり、岩波文庫版野田又夫訳。原文の引用は昨日の記事で引用したPUF版を原則として使用する。

2.4 第一の交点 ― 生命の始まりについてのテーゼ
 西田とラヴェッソンの哲学が交差する第一点目は、生命の始まりに関するテーゼにおいて見出すことができる。ラヴェッソンによれば、〈生命〉とは、「時間に於ける継起的統一(unité successive dans le temps)」であり、〈有機組織(organisation)〉とは、「空間に於ける異質的統一(unité hétérogène dans l’espace)」である。この「継起と異質性とともに、個性〔不可分割性〕(individualité)が始まる。」「生命とともに個性が始まる。故に、生命の一般的特質は、世界の眞中に、一にして不可分な独立の世界を形成するということである。」このラヴェッソンの生命論に対して、西田は、自らの自己形成的世界の論理に従いつつ、その固有の術語を使って次のような解釈を加える。

個性的生命が成立すると云ふことは、論理的には、時間空間の矛盾的自己同一的に、世界が自己の中に自己表現的要素を含むと云ふことに他ならない。習慣とは、かゝる世界の自己限定として、形が形自身を形成する、形の自己形成作用に他ならない(「生命」、新全集第10巻、283頁)。

 このようにラヴェッソンの習慣を個性的生命の生成とともに現れる自己形成作用とを同一視することによって、西田は、習慣を自己形成的歴史的生命の世界の只中の自己形成の原理として位置づけるのである。











新しい社会存在の哲学の構想のために(その5)

2013-10-18 02:51:00 | 哲学

 今日(木曜日)の最後の授業を始めて10分ほどたったとき、校舎の火災警報が鳴り出した。こういうときは直ちに建物の外に全員出なくてはいけないことに規則上なっている。しかし、ほとんどの場合誤作動で、実際に火災に遭ったことは私の経験では7年間一度もない。学生たちもどうせまたそうだろうと思いながら、仕方なしにぞろぞろ階段を降りていく。結局15分ほど建物の外で学生たちや同僚たちとおしゃべりしているうちに、異常なしということになって教室に戻った。学生たちにしてみると、私が来週の試験の内容を説明している途中だったので、気が気ではなかったようで、みな急いで教室に戻り、私も説明を少し端折ってなんとか時間内に説明を終えることができた。中には試験中だったクラスもあり、これは学生たちには気の毒であった。
 毎週木曜日の夜は私にとってそれまでのハードな1週間の終わりになるので、少しホッとするが、今週はそれ以前の週と比べて特に大変だったわけではないのに妙に疲れを感じる。少し疲労が蓄積しているのかもしれない。そんなわけで「新しい社会存在の哲学の構想のために」の今日の分も昨日同様短い。

2.3 ラヴェッソンにおける習慣の一般的定義
 習慣は、そのもっとも広い意味において、「一般的かつ恒常的な存在の仕方、すなわち或はその諸要素の全体に亙って或はその諸時期の継起を通じて見られた一存在者の状態である」(岩波文庫、野田又夫訳、7頁。表記を一部ひらがなに変え、漢字も一部現在通用形に置き換えてある)。原文は次の通り。« L’habitude, dans le sens le plus étendu, est la manière d’être générale et permanente, l’état d’une existence considérée, soit dans l’ensemble de ses éléments, soit dans la succession de ses époques » (Félix Ravaisson, De l’habitude. Métaphysique et morale, PUF, coll. « Quadrige », 1999, p. 105).
 以下は、PUF版『習慣論』のために書かれたジャック・ビヤールによる百頁を超える詳細を極めた入念な解説に依拠した、ラヴェッソンの習慣概念を簡単な規定である。
 習慣は、アナロジーによって世界の統一性がそこから考えられるモデルである。習慣の問題は、自然の全体性の中で問われる。習慣は、無機物から思考のうちのもっとも純粋なものまでに及ぶ全体の統一性である。それと同時に、習慣は、この統一性へのアクセスを可能にするものでもある。この探求されるべき統一性は、物質であれ観念であれ、ある実体の存在の中にはない。本質の中にもない。それはひとつの〈形〉のディナミスムの中にあり、このディナミスムが形を与えるだけでなく、それを維持する。このディナミスム固有の活動とは、形を破壊しようとするものに対して抵抗することである。
 このラヴェッソンの形の思想は、西田のいう〈形〉に極めて近い。












新しい社会存在の哲学の構想のために(その4)

2013-10-17 05:44:00 | 哲学

 今日(16日水曜日)の本務校での講義と演習は、正直に言って、ちょっと流し気味であった。学部1年の演習では、来週小テストを授業の枠内で行うので、その説明に時間を取り、その分授業の中身は薄くなってしまった。修士の演習も今日は3つ口頭発表させることになっていたので、その分こちらの準備は少なくて済んだ。おかげでイナルコでの講義のために体力を温存することができた。
 そのイナルコでの「同時代思想」の講義であるが、先週の西田の「場所の論理」に懲りて出席者数ががっくり減るかと予想していたが、16名とそこそこの数字であった。今日の講義のテーマである田辺の「種の論理」については、9月末にアルザスで一度発表していたこともあり、話すべきことはすべて頭に入っていたので、あらかじめ学生たちに送信しておいた講義プラン1枚と1頁にまとめた引用箇所だけを頼りに講義することができた。今年の学生たちは実に反応がよく、集中力が最後までほとんど落ちない。田辺の「種の論理」について説明しながら、ここは誤解を生みやすい箇所だと思って話しているときや、田辺が理論的に矛盾したことを言っている箇所にふれると、間髪を入れずに質問が出た。それがまさにポイントをついているのだ。だからこちらも「良い質問ですね」「まさにそこが問題なのですよ」「それは実際当時彼が批判を受けた点なんですよ」などと質問した学生に感謝しつつ、それらの質問に答えていくことで自ずとプランにそって授業を展開することができた。田辺の「種の論理」に対して当時ありえたであろう唯物史観の立場からの批判について的確な質問を授業中にした男子学生が、授業の後に質問に来た。講義中、「種の論理」に忠実に従うかぎりありえないはずの民族概念の実体化について、私がかなり厳しく批判的に言及したことに対して、国家体制に対する批判のための方法的立場として〈民族〉を社会的事実として認め、それに依拠して体制に抵抗するということは、民族概念実体化とは区別されるべきだし、それは種の論理と矛盾しないのではないかと質問してきた。おそらく、この学生は単に知的レベルが高いだけではなく、自分でも何らかの仕方で政治的実践に関わっているか、あるいはそれに強い関心を持っているのだろうと見て取った。私はその学生に対して、あなたが言う意味でなら確かに民族概念実体化にはならないだろうけれど、〈個人〉と〈民族〉の間に可塑的な媒介項を形成することのほうがこれからの世界では大事になってくるのではないだろうかと答えた。他方、授業の後半になって教室に入ってきた背の高い女子学生が一人いたのだが、初めて見る顔だと思っていたら、授業後に、パリ第1大学哲学科修士2年で、谷崎潤一郎の『陰影礼賛』を研究対象として、美学と倫理学とが交差する問題領域についての論文を準備しているところだと自己紹介に来た。直前にロシア語の授業があり、後半しか出席できないが、来週から毎回出席したいがいいですかというので、講義のテーマに関心がある人たちはすべて歓迎しますからと許可した。
 来週は九鬼周造を取り上げる。『偶然性の問題』が主たる対象である。これは昨年すでに一度取り上げているのであるが、学生たちがもっとも強い関心を示したテーマの一つであった。やはり人間存在の偶然性という問題は自分のこととしてひきつけやすいということもあるからであろう。今年はどうであろうか。来週が楽しみでもある。

 「新しい社会存在の哲学の構想のために」の今日の連載分であるが、見ての通り、明日以降への「繋ぎ」である。

2.2 共有された〈理解〉への情熱
 西田とラヴェッソンは、〈理解〉への情熱の一つのタイプを共有している。このタイプの情熱は、その情熱自体が示す目的性によって効力をもつ統一性の中に多様性を全体として把握することからなっている。この意味で、理解するとは、理解しようとしている自分自身も含めて、すべてを溶融しようとすることにほかならない。このようなタイプの理解は、事象の全体的かつ直接的な把握を目指し、理解する者と理解されるべきものとの間の本性的な類似性を前提としている。西田がラヴェッソンの習慣概念のうちに見出したのは、このような理解の情熱によって世界全体の統一性が再構築される過程なのである。

 明日以降の記事で、西田が自身の歴史的生命の論理とラヴェッソンの習慣論との間にどのような思考の回路を繋いでいくかを詳しく見ていこう。


新しい社会存在の哲学の構想のために(その3)

2013-10-16 01:03:00 | 哲学

 今朝(15日)プールの門前には、私が着いた7時5分前にはすでに7,8人待っていたが、ほどなく職員が監視員のストライキで今日はプール閉鎖と伝えに来る。納得が行かずに職員に説明を求めている人もいたが、経験からこういうときは無理に決まっているとわかっているので、さっさと諦めて帰宅する。
こうして「浮いた」時間で明日の修士の授業の準備と仕事上のメールの処理を済ませ、明日のイナルコの「同時代思想」の準備に集中する。すでにこのブログで話題にしたことだが、明日は田辺元の「種の論理」がテーマ。アルザスでの9月末の発表、11月初めのベルクソン国際シンポジウムでの発表、それに同月23日のイナルコでの発表は、すべて〈種〉の問題をめぐっており、特にアルザスでの発表は田辺の「種の論理」そのものを取り上げたことはこのブログでも9月後半に数回に渡って紹介した通りで、だから明日の講義の材料は既に十分整っていたこともあり、準備は順調に進み、昼過ぎには一応終えることができた。後は講義で引用する参考文献の箇所を確認するだけでいいだろう。
 この講義に登録している学生たちのために、毎回講義の前に、講義プラン・引用原文・参考資料を数頁にまとめたもの(私はそれらを fiches de cours と名づけている)を、Google Drive上でアクセス可能にしておき、各自それらを自分でプリントアウトして教室に持参するか、自分のノート型パソコンを持参して見るかしてもらうようにしているが、その作業もすぐに済ませた。追加資料はコピーして持って行くこともあるが、それも講義の後でGoogle Driveにアップすることのほうが多い。このようにして紙の資料は極力渡さないようにしている。
 先週の西田の「場所」に比べれば、難易度は下がるとはいえ、聞かされる学生たちにはものすごくハードな講義が続くことになる。これでは出席者も目に見えて減少するかもしれないが、そもそも日本学科の学部最終学年の選択科目に過ぎないこの講義に毎回20人以上も出席していることのほうが奇跡的なことなのであり、10人前後聴きに来てくれればこちらとしては十分にありがたい。

 さて、「新しい社会存在の哲学の構想のために」の連載は、今日から第2章に入る。西田とラヴェッソンの方法論上の相補性を論証するこの章が発表の中心になる。しかし、発表時間の制限からして、引用を多数交えた詳細な議論の展開はできないだろうから、当日は仏語原稿を端折って使うことになる。このブログには、だから、できるだけ元の原稿に忠実な再現を心掛けたい。

2 相補的な二つの方法-ラヴェッソンと西田
2.1 媒介的範疇としての種の問題
 西田は、しかし、自身の生命の思想の理論的欠陥に気づいていないわけではなかった。その欠陥は、個人と可変的な複数の人間社会からなる歴史的現実の世界との関係に関わる。この問題について理論的解決をもたらそうとするの西田の最後の思索の努力を、ラヴェッソンの『習慣論』の詳細な検討に充てられた論文「生命」(1944-1945)の最後の10頁ほどに見出すことができる。この努力は生命理論と社会理論との媒介を供給しうる論理の構築にあった(論文「生命」は第3節までで未完に終わったので、第3節末尾のこのラヴェッソン論の後に西田がどのような展開を考えていたのかは推測の域をでないが、西田がこの論文を脇にのけて、結果として最後の論文となる「場所的論理と宗教的世界観」の完成に迫り来る日本の破局をはっきりと予想しながら心血を注いだことは、西田の最終的な哲学的関心がどこに向かったかをよく示している)。西田がラヴェッソンの著作の中に探し求めたのは、種の問題を通じて明らかになってきた不可避的な理論的困難を乗り越えることを可能にする途であった。
 西田は、自身の歴史的生命の論理の構成の中に種の概念をとり込むことにそれまで十分に成功していなかった。そこでは〈一〉と〈多〉との矛盾的自己同一が理論構成上支配的な位置を占めていたからである。生命の世界の総体的な把握のために媒介的な機能をもつ種の概念を導入することの必要性をそれとして認めながら、西田は、種をそれ自体でつねに自己同一的なものとして考えることをきっぱりと拒否する一方、他方では、歴史的生命の世界の中での種の現実的実効性と、種が大文字の〈生命〉にも諸個体にも還元しがたいこととを主張する。種を個体レベルと普遍的レベルの中間に位置づけ、自己形成的な世界の創造性をそれによって基礎づけようとするのである。このようにして、西田は、差異化と統一化という、各個体に自己形成的な特定の形姿を与える対立する両ベクトルの中間に見出されうるはずの、何か多次元的なものを探求する。それがラヴェッソンにおいて〈素質(disposition)〉として考えられた習慣の概念の中に見いだせると西田は考えたわけである。この〈素質〉として考えられた習慣は、自然の只中にあって媒介項としての機能を果たすからである。ラヴェッソンの議論の展開に忠実に沿いながら(これは西田にあってはきわめて例外的な態度である)、西田は、その習慣論の中に、自然の可塑的な秩序に従って、種の概念を歴史的生命の論理の中に統合することを可能にする契機を捉えようとする。このとき、〈種〉は、可変的で中間的な生命の範疇として、生命の自己形成を現実に可能にするものと考えられているのであるが、しかもそこでは〈種〉を最終的に実体化することが注意深く避けられている。













新しい社会存在の哲学の構想のために(その2)

2013-10-15 01:51:00 | 哲学

 9月第2週以来いつもそうであるように、月曜日は丸一日、水・木の本務校での講義の準備。今日は比較的順調に捗り、午後5時過ぎにはあらかた片付き、今一息入れているところ。だが精神状態は昨日来決して良くない。簡単には解決のつかない問題と心配事とで心の休まるときはまったくない。しかし、何があっても昨日から始めた連載は続けよう。それが辛うじて耐え難きを耐えさせてくれるかもしれないから。
 今日の連載分は、仏語原稿とは大幅に異なる。というのは、仏語で発表する場合は、自分で仏訳した西田のテキストを多数引用し、コメントをつけながら話を進めなくてはならないから、かなり手続きが煩瑣になる。もちろん日本語で原文を読んでさえ、難解なテキストであるから、日本語で論ずるのであっても西田のテキストのコメントは不可欠とも言えよう。しかし、ここに学術論文そのものを掲載することが目的ではないし、西田のテキストにあたることは日本の方々には容易にできることでもあるので、テキストに即したコメントは一切抜きにして、西田のベルクソン批判の要点と補足事項のみを掲載する。

 西田がベルクソンの創造的進化における生命の哲学を批判するときに繰り返し言うのは、ベルクソンにおいては生命の連続性だけが強調され、その非連続性が積極的に考慮されることがまったくないということである。そのようなベルクソンの生命論に対して、西田は、真の生命とは、「非連続の連続」、「死して生まれる」あるいは「死即生」などの表現によって示されることがらであると規定する。
 これらの表現は、少なくとも次の二つのことを含意している。
 一つは、個々の人格的自己として生きられている私たち一人一人の生命は、非連続的だということである。つまり有限な死すべき存在だということである。たとえ生物学的には連続性のある親子であろうとも、「我々の人格的自己は親からも生まれない」という意味をもっていると西田は言う。つまり、真の生命は、親から子へと、世代から世代へと、一つの連続した流れとして形成されているのではなく、個々の掛け替えのない人格的自己として、非連続なものとして相対する個々の生命を介してのみ、生成するものなのだということである。
 もう一つは、〈生命〉は〈非生命〉によって媒介されることなしにはありえないということである。私たちの生命はそれを決して永続はさせない諸々の物質的制約によってのみ支えられうるのであり、それ自体で自足するような生命はありえない。この意味で、生は死を受け入れる限りにおいて生で有り得る。
ここで仏語での発表の際には、上記の問題点をよりよく照らし出すために、ベルクソンとジンメルの生命観の決定的違いついてのジャンケレヴィッチによる指摘を引用する。以下、その引用箇所の和訳である。

ジンメルは、「ベルクソンは、〈生命〉は存在するためにはまず〈非生命〉に転換されなくてはならないという深刻な悲劇性をもっていることに気づくことはなかったように思える」と書いている。「精神的文化の悲劇」は、まさに生の否定が生に内在しており、生はその実現のためにはそれを殺すその対立者を必要としていることにある。これがいわばジンメルの思想全体を貫く根本的なモティーフであり、それが、他の多くの点で類似点を共有するにもかかわらず、ジンメルをベルクソン思想に決定的に対立させているのである。ジンメルは、この二つの矛盾する契機を、直観的に生きられた一つの単純な行為の中に縮約させよう努めたのである。
Vladimir Jankélévitch, « Georg Simmel, philosophe de la vie » dans Georg Simmel, La tragédie de la culture, Paris, Payot & Rivage coll. « Rivage poche / Petite Bibliothèque », 1993, p. 67.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新しい社会存在の哲学の構想のために(その1)

2013-10-14 02:09:00 | 哲学

 13日日曜日、朝プールに行った後は、一日ベルクソン国際シンポジウムの原稿作成に専念した。一応後は結論を書き加えるだけでほぼ完成というところまで来たが、その結論のためには田辺の「社会存在の論理—哲学的社会学試論」の中のベルクソンに言及している箇所を読み直す必要がある。明日月曜日から木曜日までは講義の準備と講義そのものとで、そのための時間の確保がきわめて困難だが、毎日少しずつでも読み、考えていこう。
 今日からは、そのベルクソン国際シンポジウムの仏語原稿の和訳を連載する。と言っても逐語訳ではなく、むしろ抄訳と言ったほうがいいだろうし、ラヴェッソン、ベルクソン、ジャニコー、西田らからの引用文の多くと、出典箇所を示すだけの脚注とは、これらをすべて省略する)。この連載も何回に渡るかはっきりとはわからないが、「生成する生命の哲学」の場合と同様に10回は超えることになると思う。発表要旨の和訳は9月16日の記事に既に掲載済み。

新しい社会存在の哲学の構想のために
西田によるラヴェッソン再発見

 ドミニック・ジャニコーは、ラヴェッソンの習慣概念のベルクソンによる解釈を批判しているところで、ベルクソンが習慣概念に与えた消極的な規定—「精神的活動のいわば化石となった残滓にすぎない」—を引きながら、「このほとんどラヴェッソンに似つかわしくない表現は『習慣論』の射程を矮小化している」と厳しく指摘している。おそらくベルクソンのこの同じ表現を、あるいは習慣について同様に消極的な考えが見られる『物質と記憶』あるいは『創造的進化』の箇所を念頭に置きながら、西田はベルクソンに対立する自分の立場を次のように主張する。

ベルグソンは習慣を生命の物質化と考へた。私は之に反しエラン・ヴィタールを能動的習慣の発展と考へるのである。ベルグソンは時間的なるもの主として空間的なるものを従と考へた。私はそれを逆に考へるのである(「行為的直観の立場」新全集第7巻、157頁)。

 そして、その数行後に次のように記す。

私は習慣について本文[「行為的直観の立場」のそれのことを指す。引用者注]を草した後、偶々、ラヴェーソンの「習慣論」を読んで、ラヴェーソンが既に習慣について深く考へて居ることを知つた。それは歴史的世界の実在性とまでに考へるものではないが、習慣について洞察に富んだ美しい考と云はざるを得ない(同頁)。

 論文「行為的直観の立場」が単行本『哲学論文集 第一』(1935)に収録される際に付加されたこの注記の注目すべき点は、西田が習慣についてラヴェッソンに近い考え方を『習慣論』を読む前にすでに持っていたことである。確かに、西田はすでにメーヌ・ド・ビランの習慣論については数度に渡り論じてはいたが、ラヴェッソンの『習慣論』固有の論点、ビランのそれとは異なり、理論的射程の深さから言えば遥かに重要な論点を、自分自身の習慣概念から、それとしてはっきりと捉えることができたのである。西田が感じていたラヴェッソンへのこの深い関心と否定しがたい親和性が、9年後の論文「生命」において、西田に『習慣論』を詳しく分析させることになる。一方、この西田とラヴェッソンとの親和性は、西田とベルクソンとの間の決定的な乖離がどこにあるのかを私たちに理解させてくれる。
 以下において、私たちは、まず、この西田とベルクソンの乖離の問題を検討し、次いで、西田のラヴェッソン『習慣論』読解を詳しく分析し、そして最後に、ラヴェッソンと西田によってもたらされた理論的成果から形成可能な新しい種の概念を提示する。その概念を出発点として構想されうる新しい社会存在の哲学には、ベルクソンも新たに大きな貢献をもたらすことだろう。












あなたが悲しんでいる時、世界があなたにおいて悲しんでいる

2013-10-13 00:21:00 | 哲学

 ストラスブール大で2003年に哲学の博士号を取得した後、毎年いくつかのシンポジウム、研究集会等に参加してきたが、その時々で発表のテーマはそれぞれ違っていても、結局のところ、そこで扱われた諸問題はすべて博論で到達した根本概念である「受容可能性」から発しており、それらすべてが10年後の今になって、一つの「受容可能性の哲学」として私において組織化されはじめていることを、昨日までの「生成する生命の哲学」の12回に渡る連載を通じて、改めて自覚することができた。このことは、研究発表についてだけでなく、公刊された論文についても、大学での哲学の講義についても言うことができる。途方もない僭越であり、身の程知らずとも詰られかねないことを承知の上で、あえて西田の言葉を使わせてもらえば、「すべてはそこからそこへ」の感を深くしている。
 しかしながら、この「受容可能性」という言葉によって私が指し示そうとしている根本的な事柄が、聴衆あるいは読者に容易には理解されないこともしばしば痛感させられてきた。それは表現言語がフランス語でも日本語でも同様である。私の表現力がまだ不十分であることは自分でもよくわかっており、「受容可能性の哲学」はまだ組織化の緒についたばかりでもあるのだから、それ以前の段階の探索的な思索の一片を聞かされただけ、あるいは読まされただけの人たちがその理解の困難を訴えたとしても、それは無理もないことである。それに、これまでにこの概念について受けた批判の中にはまさに核心をついたものもあり、それらにまだちゃんと答えられていないという意味でも、難解・不可解あるいは脆弱の誹りは免れがたい。だが、それらの問題は今すぐに解決できることではなく、日々の思索を焦らず怠らず続けていくことでそれらに一つ一つ答えていくことが、これからの10年の仕事になるだろう。
 それに、もし「受容可能性」ということが世界における人間存在の根本的な存在様式を規定するのならば、それはまさにただ一人の例外もなく万人に関わる最も大切なことがらであり、それは哲学の専門用語を使わなくても表現され得なくてはならないとも思う。あるいは文学作品としてよりよく表現されうるかもしれない。残念ながら私自身にはそのような天分はまったく欠けていることは、学生時代に関わっていた同人雑誌の諸活動を通じていやというほど自覚させられてしまったが。ただ、今、もし誰かが、たった一言でその「受容可能性」とやらを言い表してみよ、と求めてきたたら、今日の記事の表題のように答えるだろう。
 「あなたが悲しんでいる時、世界があなたにおいて悲しんでいる。」


生成する生命の哲学(最終回)

2013-10-12 02:04:00 | 哲学

 今朝(11日)は7時から8時までいつものプールで泳ぐ。まあまあ快適だった。途中でどれだけ泳いだかあやふやになってしまったが、身体感覚としてはいつもより多く泳いだと感じられるので正味45分で2200メートル位だろうか。最初の500はクロールで体を温め、その後は背泳ぎがほとんど。ときどき平泳ぎでゆっくり流したり、クロールでペースを上げたりする。
 帰宅後は1日自分の発表原稿に集中しようとしたが、あれこれメールが入り、その処理で時々中断。先日、小林論文の仏訳のネイティヴチェックをお願いした2人からは、昨晩と今朝、相ついで朱の入った原稿が返ってきたが、どちらも迅速かつ注意深く読んでくれての訂正案。原テキストの難しさはそれとして、翻訳上は大きな問題はどちらの添削を見てもなかったようだが、やはり自分で見直しただけでは見つけることのできない誤りが必ずあるもので、快くしかもこんなに速く見てくれた2人には心から感謝している。これで25日の締め切りまでたっぷり時間的余裕をもって仏訳決定稿を仕上げることができる。すぐにお礼のメールを送り、ついでに今度は私自身の原稿ができたら見てくれるようあらかじめお願いしておく。
 その自分の原稿についてだが、博論の中の西田とラヴェッソンの比較検討の部分を再読してそれを口頭発表用に編集することから始めたが、発表時間30分から35分という枠に収めるにはまだ長すぎる。しかし、一旦このままにしておいて、明日・明後日で問題の端緒を開く導入部を書き、来週末には結論部を書き上げてから、もう一度立ち戻ることにする。今日はもう原稿作成そのものはせず、導入部で引用する Dominique Janicaud の Ravaisson et la métaphysique. Une généalogie du spilitualisme français, Vrin, 2e édition, 1997 の当該箇所の前後も含めて読み直すことにする。初版は1969年だが、いまだにこれを凌駕するラヴェッソン研究はなく、ラヴェッソンに関心を持つすべての人にとって最初に読むべき必読書である。特にラヴェッソンの『習慣論』を理解するには『習慣論』そのものより先にこの本を読むべきであると言う研究者さえいるほどである。私もラヴェッソン研究はこの本が頼りだが、そればかりでなく、フランス式の哲学研究のお手本の1つだと考えている。

 さて好評連載(って自分で言っているだけですが)「生成する生命の哲学」も今日が最終回である。この節は短いが、ここに以後10年間の私の研究の出発点がある。その出発点とは、哲学の根本動機は、真理の希求、存在の神秘を前にしての驚き、揺るぎない確実性を求めての徹底的懐疑、それらいずれに還元されるものでもなく、もっと深いところでそれ自体として感じられる、いかなる言表によっても汲み尽くされることのない根源的な情感、西田が「深い人生の悲哀」と呼んだものがそこで感じられる〈場所〉にあるということの自覚である。この〈場所〉を私は根源的で無限な「受容可能性 passibilité」と呼ぶ。そこへと方法的手順を踏んで溯源し、そこからこの世界を見、そしてその世界の中のある場所である限定された生の形を受け入れ、そこにおいて受容可能性の現実的顕現として働くこと、それこそが哲学であると私は考える。

五、生命の哲学の領野としての「自己身体の内的空間」
 「自己身体の内的空間」として問題化されるのは、受容可能性としての空間である。つまり、我々の身体を歴史的生命の世界における一つの自己形成的な形とするばかりでなく、内側から自らを感じる形とする有限な情感的空間である。それは西田が未踏のままに終わった生命の哲学の領野である。
 世界の現れが自らを自己の外に置くことにとどまるかぎり、自己身体の内的空間に対して超越的な世界は、その世界に現れるあらゆることに対して非受容的であり、無感覚のままである。ところが、諸々の形の構成形態として自らを限定することによって、世界は、〈働くもの-受容するもの〉である身体へと到来し、この身体によって迎え入れられ、その内において感受され、そこにおいて〈受容するもの〉として自らを経験する。かくして、自己身体の内的空間において、世界は自らの内において起こっている出来事に対する情感性を持つようになる。自己は、超越的外在性と区別され、有機的抵抗によって限界づけられた内的延長と同一化されるかぎり、他なるものとの関係においてそれとして経験される。この内的延長が自己身体の内的空間であり、そこで自己は自ら自己を絶えず迎え入れると同時に、他なるものは諸感情を通じてこの情感的な空間そのものによって経験される。このような媒介的な有限空間は、異質なものを排除する超越論的自我の支配にも、無限で無関心な外的空間に由来する自己の疎外にも抵抗する。そこにおいて、様々な感情は互いに他に還元できないものとして、今ここで受容されるのである。西田が哲学の動機とした「深い人生の悲哀」が哲学の情感的起源として感じられるのは、まさにこの空間においてである。