内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学(その1)

2013-10-01 02:35:00 | 哲学

 先週土曜日のアルザスの研究集会での発表と11月のベルクソン国際シンポジウムでの発表とが、2003年に提出した博士論文で到達した結論を出発点としたこの10年の私の研究の全体的統合化の試みの出発点になることは、別の言い方でではあるが、すでにこのブログの中で表明してある。その出発点にもう一度立ち戻って、そこから現在の立ち位置を計測し直すために、博士論文提出の翌年に藤原書店刊行の季刊誌『環』の第16号に掲載された論文の一部を若干の修正を加えながら、何回かに分けて掲載する。しかし、脚注に関しては、書誌的情報に限られるものとあまりに煩瑣な補足説明であるものとはこれらをすべて省き、それ以外は本文に適宜取り込むことにする。本文にどの程度修正を加えるかは今の時点ではわからないので、何回の分載になるのかもわからない。この論文は、博士論文 Enjeux, possibilités et limites d’une philosophie de la vie — Kitarô NISHIDA au miroir de quelques philosophes français の中心的な3章を凝縮したものである。今日はその冒頭を掲げる。

 西田哲学は、生成過程にある一つの生命の哲学として読むことができる。「自覚」がその根本概念の一つとして定式化される中期から、「場所の論理」の確立を経て、「行為的直観」と「歴史的身体」という二つの概念を軸に「歴史的生命の世界」という世界像が構築される最後期にかけて展開される西田の多面的な諸思考は、一つの生命の哲学と名づけうる有機的に連関した思考のネットワークの形成過程として捉えることができる。
 この生命の哲学は、内的に直接経験される生命、行為的世界における生命、歴史的実在の世界としての生命という三つの相の下に、生成、発展、深化していく。本稿では、これら三つの展開相を現代哲学のある一定の視角から考察するために、フランス現象学の系譜の淵源と見なされうるメーヌ・ド・ビラン、その現代における代表的継承者であるメルロ=ポンティとミッシェル・アンリの三人によって探究された問題領域に考察範囲を限定し、この三つの鏡の中で西田の生命の哲学の生成過程を読み解くことを通じて、そこに含まれているいくつかの論点に明確な表現を与え、それらが突き当たらざるをえない限界を見極めつつ、そこに包蔵され、今日私たちが継承、批判、発展すべき可能性を開き示すことを目的とする。
 このようないわば反歴史的な論脈移行を西田哲学に強制する方法の採用には、もう一つの意図が働いている。西田哲学は、その最後期において、幾多の独自の概念を創出しつつ、それらを枢軸とした一つの思考システムとして自らを安定させていくが、と同時に、それら諸概念によって構造が決定された言語システムとして自己絶対化し、自らに固有な術語の中でその思考を硬直化させてゆく危険も大いに孕んでいた。本稿の比較論的方法は、それゆえ、それら硬直化しかけた表現の殻に包み隠された柔軟な思考の運動を、現に開かれている一つの哲学的展望の中に解き放つという意図によっても要請されているのである。
 このような方法に対して、すぐにも次のような疑問が提出されうるだろう。西田哲学とフランス哲学との接点は、西田哲学初期から中期にかけてのベルクソン哲学への関心と最後期におけるデカルト哲学へのそれとを除けば、ごく限られており、ましてや西田とは時代的にまったく或いはほとんど重なり合わない三人の哲学者との関係のみにおいて西田哲学を検討することは、その生成の歴史的文脈を無視し、その全体像を歪めかつ矮小化し、この哲学に包蔵された諸可能性のごく一部にだけ光をあてて他のすべてを覆い隠してしまうことになるのではないか。確かに、本稿の方法は、それによって西田哲学の全体像に迫るには、その射程があまりにも限定されすぎていると言わなくてはならない。しかし、西田が、パスカルによってその基礎が置かれたと考える「フランス哲学独特な内感的哲学」に、ドイツ哲学にも英米哲学にも見出しがたいフランス哲学の固有性を見出し、それに対して青年期から最晩年まで深い共感を覚えつづけていたという事実は、このフランス哲学への西田の恒常的な関心の中に、彼を飽くなき哲学探究へと駆り立てた情熱の情感的基底への扉を開く鍵の一つが隠されているということを示してはいないであろうか。
 西田が生前最後に発表し、未完に終わった論文「生命」の第3節(死後1945年8月発表)の最後の部分(新全集版では12頁ほど)を、ラヴェッソンの『習慣論』の忠実な紹介に充てていることにもここで注意を促しておきたい。このことは、西田がその最後期において、ラヴェッソンの習慣論を「私の絶対現在の自己限定としての世界観を一々内省的に証明してくれるもの」(1944年12月20日付西谷啓治宛書簡)として極めて高く評価していたばかりでなく、ラヴェッソン固有の「習慣」概念の中に、自身の「種」の概念が孕んでいた重大な理論的欠陥、すなわち生物学的次元から社会的次元への無媒介の移行・拡張という欠陥を克服する契機を探ろうとしていたことを意味している。つまり、無数の個物的〈多〉と無限の統一的〈一〉との間の媒介項としての多次元的な〈種〉を、それを実体化することなく、また、〈生命〉の自己形成および自己創造を可能にする可変的中間的な生命範疇としてばかりでなく、さらには歴史的世界における可塑的・可変的な歴史的範疇としても、「歴史的生命」の論理の中に組み込み直す作業の一環として、ラヴェッソンの「習慣」概念に基づいた「種」概念の再定義が試みられようとしていたのである。