今朝7時5分ほど前にプールに着いたら、職員が出てきて、「昨晩泥棒に入られ内部を荒らされたことが今朝になってわかったので、今警察が来るのを待っている、だからプールは開場できない」とのこと。実はこれは何年か前にも有ったこと。とにかく毎日何かしらうまくいかないことがあるのがこの国の日常である。あんまりそれに慣れてしまって、すべてがうまくいっていると怖くなるくらいである。仕方ない。諦めてすぐに帰宅。
9月下旬に約3分の2訳したところで中断していた小林論文の仏訳に日中は集中した。今日で片を付けたかったが、レヴィナスとハイゼンベルクに言及している箇所があり、前者の出典箇所と後者の既存の仏訳のタイトルの確認に思いのほか手間取り、最後の半頁ばかりを残して、今日は切り上げることにした。明日には仕上げられるだろう。全体をもう一度見直し、手を入れてから、フランス人の友人にネイティヴチェックをしてもらわないといけない。
今朝は上記の理由で閉鎖だったプールは、金曜日は午後5時からも開けるので翻訳を切り上げた後に行ったのだが、この時間帯はたいてい混んでどうしようもない。それにどうしてこう下手くそが多いのか。日本でもここ数年いくつかのプールに行ったが、水泳教室やスポーツクラブに通って習っている人たちが多いからだろうか、あまり無様な泳ぎ方をしている人はいない。フランス人の中にももちろん見事なフォームで泳ぐ人たちも男女を問わずいることはいるが、あれでよく恥ずかしくないよなあという泳ぎ方の人のほうがはるかに多い。水中でひょっとこ踊りをしているとしか私には見えない人をパリの市営プールで見つけることは、金曜夜10時以降に新橋駅付近で千鳥足のよっぱらいを見つけるのと同じくらい簡単なことである。「ジブンはジブン、気ニシマセーン。ドウ泳ゴウガ、ソレ、ワタシの自由デース」なんでしょうね。かつて「基本的人権」を高らかに謳ったこの国の現状は、「自由」が限りなく「自分勝手」に近づいているということであり、皮肉なことに、これは日本に古くからある「自由」という言葉の意味へと回帰していることになり、つまりフランスは近代以前へと退行しようとしているのである。しかも、この国の人々に「目標に向けての協調的漸進的進歩」という発想がないと言って文句を言うのは、肉屋に向かって「なんでおまえのところには紅白饅頭が置いてないんだ」と言って腹を立てるほどにお門違いなんである。私はもはやこの国になんの期待もしていないし、希望も持っていない。
閑話休題。日曜日には自分の論文の執筆に取り掛かる。これは定言命法である。ほぼ構想は固まっており、書き出せば速いとは思うが、何が起こるかわからないし、週の前半は講義とその準備でまったく論文に割く時間がない。それに来週木曜日は授業の後に修士2年のインターシップ・レポートの口頭審査がある。いつも追い立てられるように仕事をしていて、思わず溜息も出てしまうが、そんなてんやわんやの滑稽で悲喜劇的な端役である自分をすっかり冷め切った目で舞台の袖から見ているもう1人の自分もいる。
さてさて、何があっても「生成する生命の哲学」の連載は続くのである。今日はその第5回目。西田とビランの比較研究もいよいよ佳境に入る。
(2)「自覚」と「内感」との交点、そして乖離
しかし、両者の哲学がより深い共鳴を起こすのは、先に述べたように、自覚と内感との間においてであり、西田がビランに直接言及していないところにおいてこそ、この共鳴は聞き取られなくてはならない。
自覚の基本構造は、「自己が自己に於て自己を見る」という定式に要約される。自覚とは、まず、「自己が自己を見る」こと、つまり、その都度の考える自己と考えられた自己との相互限定的同一性、より一般的には、作用とその対象との現象面における同一性の経験である。この同一性の経験がそれとして成り立つのが「自己に於て」である。この第三の自己は、自己を無化することそのことであり、そのことの〈形〉として、見る自己と見られる自己との同一性がそれとして経験されることが、「自己が自己に於て自己を見る」ことである。自覚は、意識の事実には還元されず、逆に意識の事実は自覚の一つの現実性として捉えられなければならず、とりわけ最後期の西田においては、世界における出来事としての「世界の自覚」と「自己の自覚」との弁証法的同一性が問題とされるに至る。しかし、自覚の現実性が自覚するものその者によってそれとして直接把握されるのは、我々の自己意識においてであるという一点においては、西田の自覚概念は終始一貫している。自覚とは、客体としての自己でもなく、主体としての自己でもなく、主客未分の純粋経験という初源の可能態でもなく、主客合一の直接経験が〈私〉において現実態として生きられること、言い換えれば、形が形自身を限定することとして現象する〈生命〉が、この〈私〉のこととして内的に直接経験されることにほかならない。
自覚においては、次の二つの同一性が厳密に区別されなくてはならない。すなわち、「見る自己」と「見られる自己」との同一性と、この作用的自己と対象的自己との関係性とそれがそこにおいて成り立つ場所としての自己との同一性である。言い換えれば、「ノエシス的自己」と「ノエマ的自己」との同一性と、この意識構造を決定している両項の関係性とそれがそこにおいて可能になる場所としての自己との同一性である。以下、前者を内在的同一性、後者を超越的同一性と呼ぶことにする。
ひとまず後者を括弧に入れ、前者をメーヌ・ド・ビランの内感の原初的事実によって開かれる問題場面へと近づけてみよう。自覚における内在的同一性とは、非表象的なものと表象的なものとの同一性、より正確には、あらゆる表象可能性を逃れつつ、自らを絶えず対象化し続ける作用的自己とそれによって対象化された自己との現実的同一性である。ビランの内感において経験されるのは、非表象的な原初的意志としての自己とその志向的対象である主観的身体との現実的同一性である。内感とは、自己身体という直接的関係項とともに現実化される原初的な力である意志の直接経験である。〈私〉において生きられたこの意志は、自己身体の運動へと自らを対象化しつつ、その身体へと働く力として現実化されることで直接内感される。意志とその作用対象である自己身体とは還元しがたい二元性を構成しながら、意志は自己身体に自己を対象化するかぎりにおいて直接的に経験されるという意味において、ここで生きられているのは自己矛盾的な現実的同一性だと言うことができる。この同一性は、構造上、西田における内在的同一性と一致する。矛盾的自己同一性を自ら引き受ける意志的自己を根柢に置くという点において、両者が主意主義的傾向を共有していることも明らかである。したがって、後者を自己において経験される原初的意志の矛盾的同一性と見なすことができる。